捕囚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:30 UTC 版)
明治3年(1870年)2月21日、今井は身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移された。かねてからの嫌疑に加え、別に捕らえられた元新選組隊士大石鍬次郎が、「近藤勇が酒席で今井が龍馬を討ったと語っていた」、と証言したためだ。厳重な取り調べを受けた今井は、龍馬暗殺の詳細を証言した。今井は、龍馬を前年に伏見寺田屋で幕吏を射殺した刑事犯として、見廻組与力頭の佐々木只三郎らと公務で襲撃したこと、その際自分は見張り役として参加、手は出していないことを語った。 龍馬殺害について元新選組隊士の取り調べが行われたが、いずれも新選組の関与を否定した。大石鍬次郎が見廻組が実行犯であると自供したため、今井も取り調べを受け、自供することとなった。『勝海舟日記』明治2年4月15日条には松平勘太郎(松平信敏)に聞いた話として、今井が「佐々木唯三郎(只三郎)首トシテ」犯行に及んだことを自供したという記述がある。この中で勝海舟は指示したものは佐々木よりも上の人物、あるいは榎本対馬(榎本道章)か、わからないと記述している。 明治3年(1870年)9月2日、今井は禁固刑、静岡藩への引き渡しという判決を受けた。直接手を加えていないが龍馬殺害にかかわったこと、その後脱走して官軍に抵抗したことが罪状とされている。今井の証言をおさめた口上書は佐々木只三郎の指示により、佐々木、今井、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼(早)之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人が近江屋に向かい、佐々木・渡辺・高橋・桂の4人が実行犯となって龍馬らを殺害したというものである。殺害の命令があった理由については、寺田屋事件の際に龍馬が同心二名を射殺したことをあげている。今井は京都見廻役小笠原長遠に命じられたとしているが、小笠原は一切関知していないとしている。 明治5年(1872年)、今井は、特赦により釈放された。その後、明治10年(1877年)、八丈島にいる頃、西南の役勃発の噂が伝わった、今井は帰国し、直ちに官職を辞すと同時に、警視局に志願、1等中警部職を拝命して抜刀隊の一員になった。今井は抜刀隊として、県下の士族を率いて鹿児島へ赴き、向こうに着けば西郷に加担し、新政府に一矢報いようとする魂胆であった。五稜郭降伏人の助命は薩摩の尽力によるところであり、今井個人としても、西郷と脈絡相通ずるものがあったからに外ならない。西郷が征韓論に破れて帰国する途中、浜松の旅宿において今井の消息をたずね、伝言を頼んで去ったとゆう因縁もあった。しかし、鹿児島へ向かう途上、西郷隆盛戦死の報を得て、結局戦地へ到着することなく終わった。今井が子息に語った遺談によると、この時今井は「鹿児島到着後、寝返って西郷に加担しようとの計画を持っていた」という。その理由として、「西郷にひとかたならぬ恩義を感じていたから」と語った。鹿児島出戦が潰えたあと、今井は二度と再び、剣や銃を執ることはなかった。
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「捕囚」の例文・使い方・用例・文例
- 国外追放(特に、バビロニア捕囚として知られているユダヤ人の追放)の期間の、または、国外追放の期間に関する
- 紀元前539年以降(バビロン捕囚以降)のユダヤ人の歴史の期間の、または、ユダヤ人の歴史の期間に関する
- 紀元前536年にバビロニアのバビロンの捕囚から帰還までのユダとイスラエル史を伝えている2冊の旧約聖書本の第一
- 紀元前536年のバビロン捕囚からの帰還までの、ユダとイスラエルの歴史について語られている2冊の旧約聖書の第2
- バビロニアのバビロンの捕囚の後、エルサレムでユダヤ人の法律と崇拝を再構成する紀元前5世紀のラビの努力について書かれている旧約聖書本
- 主にバビロニア捕囚後の寺院再建に関するハガイの預言について述べられた旧約聖書の本
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