ちょう‐しゅう〔‐シフ〕【徴集】
徴集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:45 UTC 版)
12月1日、遊説のために散っていた会沢らが鍋山に戻り、付近の住民も加わって、参加者は150名ほどになった。付近の下野国農村部や上野国南部では入組支配が錯綜しているうえ、畑作地帯であることから人々がよく流動するため、浪士たちが他所から入り込んで活動する上で好条件であった。肥前佐賀藩浪人で都賀郡永野村に医業を開いていた常田与一郎(原口文益)や、越後新発田藩浪人で安蘇郡石塚村に住んだ安達幸太郎の両人はいずれも塾を開いており、その尊王攘夷論・勤王論に感化された人々が多く身を投じた。 困窮した下層農民をはじめとする参加者の増加に伴って軍資金が不足し、浪士たちは鍋山村を拠点として軍資金の徴集を始めたが、振るわなかった。栃木宿ではこれより3年前の元治元年(1864年)、水戸天狗党の田中愿蔵の焼き討ちを受けて町の大半を焼失していたので(愿蔵火事)、付近の住民たちはその二の舞を恐れていた節がある。そのため、浪士らは住民たちにより「出流天狗」と呼ばれていた。 12月5日夜には、粟野村大惣代名主横尾勝右衛門邸の門前に大谷ら7名の挙兵参加者が現れ、「御取締渋谷様御廻村」を名乗って開門させ、金品や武器を強奪したという記録が残る。なお当時の風聞では、追々江戸表から400、500名ほど来て加わるなどと囁かれていた。 挙兵参加者のうちで出身地がわかるものは142名で、その内訳は次の通りであった。 下野 - 77名(間接的参加2名) 上野 - 25名 武蔵 - 7名(間接的参加1名) 薩摩 - 7名 下総 - 5名 信濃 - 4名 常陸 - 3名 越後 - 3名 肥前 - 2名 その他陸奥、上総、甲斐、駿河、美濃、伊勢、紀伊、備前、長州から1名ずつ
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