巻之三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/21 04:54 UTC 版)
「動いて動くことなく、静かであって静かでない」とはどういうことかという問いに、心は物事のために動かされる訳ではないとした上で、剣術の場合、多勢に囲まれ、左右に闘っても、生死の問題とは決別し、精神は安定し、動揺しない状態を、「動いて動くことはない」と説明し、乗馬者と馬で例え話をする。では、静かで静かなことがないとは何か。感情が生じていない空で、蓄えもない状態が「心の本体」であり、無欲時、何か物事が到来すれば、それらに次々と対応し、働きが途絶えない。心の本体は静かで動かず、動いて物事に対応するのが「心の作用」であり、本体も作用もその源は一つであり、これを、動いて動くことなく、静かであって静かなことがないという。敵を憎むことなく、恐れることなく、どうこうしようと思わない状態でありながら、攻められれば、支障なく自在に対応し、体は動いて心は冷静な状態を失わない。心は静かであっても、体を動かす働きを欠かさない。また、鏡で例え話をする。 「水月」とは何かという問いに、諸流で色々いわれているが、無心で本来の理に適った対応を、月が水に映る事象の相互関係に例えたものと答えた。ただし心には形も色もないと説明する。 諸流に「残心」があるが分からないという問いに、技に捉われず、心の本体が動じないことと答え、心の本体が動じない時は応用の働きが明らかであると述べた。十分に打ち込んで奈落の底まで打ち落したとしても、自分は元の自分で打つ前と少しも変わらない。ゆえに前後左右、何の支障もなく自在に動ける。心を入れて残すことではない。心を残せば、考えが2つに分かれる。また心本体が明らかでないまま、心を入れないのであれば、盲打盲突となる。明らかさは心本体が動じない所より生じる。ただ明らかに打ち、明らかに突くのみ。これらのことは語り難く、心得違いをすれば、大害となる。 諸流に「先」があるがという問いに、初心者の鋭気を助長し、惰気に鞭打つための言葉と答え、心本体が動じず、自分を失わず、浩然の気が身体に満ちるような時は、いつも我に先があると説明し、他人より先に打ち込もうとする心遣いではないと語る。剣術は生気を養って、死気を除去することを要とする。「懸の中の待つ、待つの中の懸」など、皆、自然応用であって、初心者のために名付けているだけ。それらは皆、「動いて動くことなく、静かであって静かなことがない」という意味。体の動静は気の作用で、心は気の主。気には陰陽清濁のみ。形(動き)は気に従うもの。ゆえに剣術は気の修行が要。気は剛と和が片寄ってはいけないと説き、弱と柔、休と惰の違いを説明し、水と氷で例える。 諸流ともその極則は同一とし、極則は是非を争うべきこともないと語り、大本は一つだが、色々分かれた時、善悪や邪生、剛柔や長短が生じ、末端まで論じつくせないといった。それは学術も同じであり、老子、仏教、荘子、列子、巣父、許由も過程は異なれど、無我無心の心本体を見ることは同一とした上で、聖人の思想に触れれば、仏氏といえども感化され、異学の徒といえども、聖人の別派であり、大道に背くことはできないと(儒学を優位的に)語る。 清らかさだけを用い、濁りを捨て去るのはなぜかという問いに、濁りも用いることはあるが、剣術の用は速さを貴ぶと答え、濁気が心に与える害を説いていく。 気はどう修練すればいいかという問いに、ただ濁気を除去するのみと答える。濁は陰気のカスで、カスは止まって活せず。すでに濁水となったものは清めることはできず、物を加えて注いでも返って物を穢すと例え話をし、学術によって、具わった知性を明らかにして、濁を除去すると説明する。 陰陽、元は一つの気だが、分かれている時は千差万別も異なる。一つの気でありながら、度合が異なるということを知らなければ、道は明らかにならない。今のところ、木の葉天狗は心本体を通して理解していないため、試みをしても、結果、有無によって議論するしかないといい、気の中にある心について、水中の魚に例え、心は気の剛健さによって自在でいられ、気が無くなれば、心も存在しなくなるといった。気が動じれば、心も穏やかでなくなる。 また、「天に任す」と「運に任す」は異なると違いを語り、例で説明した。 心の修養はどのようにするのかという問いに、まずは良知を発見することと答えた。良知とは、心本体の優れた明析の人と凡人では異なり、前者は是非邪正を照らして天地神明に通じ、後者は濁気の妄動に覆われ、全ては照らせず、隙間からわずかに(照らし是非邪正を)発見するものを良知という。また良心についても語り、良知を信じ従い、良心を養い、私念により害することがない時、濁気妄動は自然に静まり、天理の明析さが現れる。私念は己が得たい心から生じ、己の利益のみ考える時は人に害を与えることもかえりみず、終には邪まを成し、身を滅ぼすに至る。心を修練することと気を修練することは別のことでない。ゆえに孟子の「浩然の気を養う」の論は、志を持するだけを説き、気を養う工夫を論じていないと説明した。 仏僧が意・識を憎み、離れようとするのはなぜかという問いに、仏教の工夫は知らないが、意識は知に用いるのに必要で憎むべきものではないと答え、情を助け、心本体を離れ、己の利益のために動くことを憎むのみといった。意識を士卒に例え、私欲の害を説くが、意識が悪い訳ではないと説いた。聖人の意は身勝手な働きをせず、自然法則に従って働くため、意が働いた跡も残らない。ゆえに私意無しという。 昔の中国にも剣術の伝書はあったかという問いに、我未だそのような書を見ないと答えた。和漢共に、古は気の剛強活達を主として生死をかえりみず、力をもって争うとみえると述べた。荘子の「説剣の扁」などを見るに皆そうである。「達生の扁」に「闘鶏を養う」の論がある。これこそ剣術の極則。しかし荘子は剣術のために論じた訳でなく、気を養うの生熟を論じただけ。理に2つ無し。一切のこと、学問とも剣術ともなる。和朝の剣術書を見るに、かつて向上論はない。ただ軽業早業の術を習うものとみえる。多くの者は天狗を祖とする。 剣術は心身を用いるための技なのに、なぜ秘することがあるのかという問いに、初心者のためと答える。秘さなければ、初心者の方が信用できないと。方便であり、秘する技は皆、末端の技で、極則を秘している訳ではない。初心者は教えると、理解したと思って、他人に喋る。それは返って害となるから、理解できぬ内は教えぬということ。ゆえに剣術の極則を秘するのは兵法の方便。 心気は一体。分けて例えるなら、火と薪であり、火に大小なく、薪が不足すれば、勢いが盛んでなくなり、湿れば、火光明らかにならず。心が明らかでないと、気の行き場を失い、妄動し、剛健果断の主を失い、小ざかしい知恵をもって、返って心の明らかさを塞ぐ。心暗く、気が妄動する時、血気盛んでも、物事は自在に動かない。血気は一時的で根拠がない。初学の士は、まず孝悌を尽くし、欲を捨て去ること。小ざかしい知恵は気を害す。
※この「巻之三」の解説は、「天狗芸術論」の解説の一部です。
「巻之三」を含む「天狗芸術論」の記事については、「天狗芸術論」の概要を参照ください。
巻之三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 03:15 UTC 版)
幕府出仕 1866年 慶喜が将軍になり、栄一は幕臣になる。陸軍奉行支配調役。 外国行 1867年 徳川昭武に従いパリ万国博覧会 (1867年)に行く。博覧会の後にスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを見学。
※この「巻之三」の解説は、「雨夜譚」の解説の一部です。
「巻之三」を含む「雨夜譚」の記事については、「雨夜譚」の概要を参照ください。
- 巻之三のページへのリンク