川上操六とは? わかりやすく解説

かわかみ‐そうろく〔かはかみサウロク〕【川上操六】

読み方:かわかみそうろく

[1848〜1899]軍人陸軍大将鹿児島生まれ欧州視察後、陸軍兵制フランス式からドイツ式転換させた。日清戦争の時、大本営参謀として作戦指導した


川上操六 かわかみ そうろく

川上操六の肖像 その1

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川上操六

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/24 15:10 UTC 版)

川上 かわかみ 操六 そうろく
渾名 陸軍の至宝
生誕 1848年12月6日
嘉永元年11月11日
江戸幕府 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在吉野村
死没 (1899-05-11) 1899年5月11日(50歳没)
日本東京府
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1871年 - 1899年
最終階級 陸軍大将
勲章 勲一等旭日桐花大綬章
墓所 青山霊園
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参謀次長時代の川上操六
広島大本営明治天皇(中央)に戦況の説明を行う川上操六(左)
九段坂にあった銅像

川上 操六(かわかみ そうろく、1848年12月6日嘉永元年11月11日〉 - 1899年明治32年〉5月11日)は、明治期の日本陸軍軍人[1]。旧薩摩藩臣。官位は参謀総長陸軍大将栄典従二位勲一等功二級子爵桂太郎児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。

長男の素一は陸軍歩兵少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ。

略歴

薩摩国鹿児島郡鹿児島城吉野村にて島津氏譜代の臣川上伝左衛門親徳の第3子として生まれる。幼名は宗之丞。母は肝付氏藩校造士館で学び、慶応2年(1866年)には18歳で同館の師員に列した。慶応3年(1867年)洋式兵制導入とともに分隊長に抜擢され、明治元年正月(1868年)に十番隊隊長中島健彦に従い上洛、戊辰戦争に身を投じ、鳥羽・伏見の戦い以降、越後・出羽・箱館へと転戦した。[2][3]

戦後上京し明治4年(1871年)4月よる陸軍に出仕。同年7月、陸軍中尉御親兵第2大隊付に任ぜられる。近衛歩兵第3大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀局出仕を経験し階級は陸軍少佐に昇る。

明治10年(1877年)の西南戦争では、山県有朋陸軍卿の使命を領して単身熊本城に入り、歩兵第13連隊長心得として功を立てる。明治11年(1878年)12月、歩兵中佐・歩兵第13連隊長。明治13年(1880年)5月に歩兵第8連隊長、同15年(1882年)2月には歩兵大佐に進み近衛歩兵第1連隊長に就任。

明治17年(1884年)には陸軍卿大山巌に随行し欧米諸国の兵制を視察。帰国後の明治18年(1885年)に陸軍少将参謀本部次長、同19年(1886年)に近衛歩兵第2旅団長を務めた後、同20年(1887年)には再びヨーロッパに渡りドイツ兵学を学ぶ。

明治21年(1888年)、帰国し同22年(1889年)3月より参謀次長[注釈 1]。明治23年(1890年)、陸軍中将に進級。

明治26年(1893年)から清国に出張の後、設置された大本営で陸軍上席参謀兼兵站総監につき日清戦争開戦に大きく関わる。特に、第1軍司令官の山県有朋が、独断専行して清軍に積極攻勢をかけた際には、「おやじ老いたり」と、参謀総長に進言し山県軍司令官の即時解任を提案、勅命により、山県を11月に帰国させることになった[4]。明治28年(1895年)3月には征清総督府参謀長に任命される。日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏した。その功により8月に勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられる。

台湾仏印シベリア出張を経て明治31年(1898年)1月に参謀総長に就任。同年9月、陸軍大将に任命されるが、翌年5月に薨去。享年52。薨去に伴い従二位に叙され勲一等旭日桐花大綬章を賜る。

薩摩藩出身者として藩閥の中心人物と成りうる人物であったが、本人は派閥意識を持たず、出身藩にこだわらず幅広く人材を登用し、教育方面でも、成城学校(新宿区原町)校長を務めるなど、優秀な軍人育成に貢献した。

墓所は東京都港区の青山霊園。現存はしていないが、没後に靖国神社に程近い九段坂に銅像が建立されていた[5]

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

川上操六が登場する作品

書籍
映像

著作等

親族

  • 妻:ユイ(田中万左衛門三女)[26]
  • 長男:素一(子爵、陸軍歩兵少佐、主猟官)[26]
  • 孫:邦良(子爵、素一長男)[26]
    • 養子・姪:典子(ふみこ、佐竹義履長女、坂本力夫人)[26]
  • 孫:保枝(素一長女、佐竹義履夫人)[26]

※1934年9月の邦良没後、女戸主となり爵位を返上した[26]

出典

  1. ^ 朝日日本歴史人物事典「川上操六」
  2. ^ 雄山閣編刊『類聚伝記大日本史 第14巻陸軍編』1935年、85-86頁。
  3. ^ 大植四郎編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年、564頁。
  4. ^ 半藤一利著『山県有朋』(ちくま文庫)
  5. ^ 山本陽、篠原修「アーバンデザインとしての屋外彫刻の歴史的展開に関する研究 ~戦前の東京府内公共空間に設置された屋外彫刻をケーススタディとして~」『土木史研究講演集』第30巻、土木学会土木史研究委員会、2010年、235-242頁、2021年5月4日閲覧 
  6. ^ 『官報』第621号「叙任及辞令」1885年7月27日。
  7. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  8. ^ 『官報』第2094号「叙任及辞令」1890年6月24日。
  9. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  10. ^ a b 『官報』第4757号「叙任及辞令」1899年5月13日。
  11. ^ 『官報』第561号「賞勲叙任」1885年5月18日。
  12. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  13. ^ 『官報』第2675号「叙任及辞令」1892年5月31日。
  14. ^ 『官報』第3631号「授爵・叙任及辞令」1895年8月6日。
  15. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  16. ^ 『官報』1885年2月23日「賞勲叙任」。
  17. ^ 『官報』第684号「叙任」1885年10月9日。
  18. ^ 『官報』第1508号「叙任及辞令」1888年7月10日。
  19. ^ 『官報』第2636号「叙任及辞令」1892年4月15日。
  20. ^ 『官報』第3395号「叙任及辞令」1894年10月20日日。
  21. ^ 『官報』第3852号「叙任及辞令」1896年5月5日。
  22. ^ 『官報』1898年5月4日「叙任及辞令」。
  23. ^ 『官報』1898年5月20日「叙任及辞令」。
  24. ^ 『官報』1898年7月5日「叙任及辞令」。
  25. ^ 『官報』1898年10月7日「叙任及辞令」。
  26. ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、457頁。

参考文献

脚注

  1. ^ 当時の参謀総長は、有栖川宮熾仁親王(明治22年(1889年)3月9日-明治28年(1895年)1月15日)、小松宮彰仁親王(明治28年(1895年)1月26日-明治31年(1898年)1月20日)と皇族であったため、参謀本部の事実上のトップであった。

関連文献

外部リンク

公職
先代
(新設)
鉄道会議議長
1892年 - 1899年
次代
古市公威
軍職
先代
小沢武雄(→廃止)
参謀本部次長
1893年 - 1898年
参謀次長
1889年 - 1893年
次代
(欠員→)大迫尚敏
先代
曽我祐準
参謀本部次長
1885年 - 1886年
次代
曽我祐準
その他の役職
先代
原田一道
成城学校長
1889年 - 1899年
次代
奥山三郎
先代
(新設)
帝国鉄道協会会長
1899年
次代
児玉源太郎
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
川上(操六)家初代
1895年 - 1899年
次代
川上素一

川上操六

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王道の狗」の記事における「川上操六」の解説

陸軍中将参謀本部次長陸奥と共に清国との全面戦争画策し東学党の乱終結後天津条約反し朝鮮半島駐屯する清国軍の2倍超の軍隊派兵する。

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