実業の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/27 01:59 UTC 版)
退職後は父鼎泉の第九銀行無限責任社員・監査役となった。葦北郡水俣村の親族の子弟5,6名を生徒に取り、1899年(明治32年)北坪井に家を借りて宏済書院を開き、友人尾関義山の援助を受け、五高時代の同僚黒本稼堂も出講した。 父の死後、1900年(明治33年)第九銀行が倒産すると、債務弁済のため私財を失い、困窮した。安政橋通町に薪炭商を営むも、経営に行き詰まった。 1906年(明治39年)冬頃、父の甥の京城日報社社長阿部充家の斡旋で京城に渡り、太平町の朝鮮家屋で朝鮮人用質屋と郵便所を営んだところ、軌道に乗り、1909年(明治42年)4月家族を呼び寄せた。10月6日には『満韓ところどころ』の旅行中の夏目漱石の訪問を受けた。
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