女子部創設
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1974年9月の東京12チャンネルにおけるレギュラー放送開始と同時に、国際プロレスは女子部を創設した。これに伴い戦後に存在した全日本プロレス協会に次いで、興行プログラムに女子の試合を挿入する日本で2番目の男女混合プロレス団体となった。 女子部創設の背景には東京12チャンネルで中継を始めるに当たって、1972年に解散した日本女子プロレスを中継していた局側から女子プロレスを組み込んで男女並立で放送することと、毎月最終週のプロレス中継を休止し、プロボクシング中継番組である『KO(ノックアウト)ボクシング』を放送することを条件として提示されたことにある。ちなみに日女の旗揚げは国際プロレスと同じ1967年で、旗揚げ戦の会場も同じ台東区体育館だった。 女子部には日女に最後まで残っていた小畑千代、佐倉輝美、千草京子が所属、外国人も日女に参戦していた世界王者、ファビュラス・ムーラが参加し、日女の実質的な後継となった。ムーラ門下生を中心に外国人選手も多く招聘した。レフェリーは男子の所属選手だった若松市政が主に担当。 最初の試合は『'74スーパー・ワイド・シリーズ』開幕戦となった1974年9月15日の後楽園ホール大会で、第4試合として千草と元WWWA世界王者、サンディ・パーカーのシングルマッチ、第6試合として小畑&佐倉組対ムーラ&ポーラ・ケイ組のタッグマッチが組まれた。 テレビ局主導で始められたため、テレビマッチではいかなる場合でも女子の試合は中継された。しかし、当時はまだ男子プロレス選手及び関係者、ファンの間では女子を受け入れる風潮がなかったため反発も多く、現場責任者のグレート草津や、当時新日本プロレス所属だった星野勘太郎も女子部解散を『国際プロレスアワー』の解説を担当していた門馬忠雄を通じて吉原代表に求めたほどだった。さらに、日女から分かれて旗揚げされた全日本女子プロレスがマッハ文朱らの活躍により人気絶頂だったこともあり、1976年に女子部は解散した。 最終試合は4月12日「ダイナマイトシリーズ」第12戦における小畑対佐倉のIWWA太平洋岸選手権試合で、小畑が勝利してタイトル防衛に成功した。ちなみに全女ではマッハが引退し、ビューティ・ペアブームが始まらんとした時期であった。 国際プロレス女子部は1年半強という短い活動期間であったが、後に全女の常連外国人として活躍した選手の中にはビッキー・ウィリアムス、ジョイス・グレーブル、レイラニ・カイら国際プロレスで初来日を果たした選手も含まれている。 なお、前出のIWWA太平洋岸選手権を含め女子のタイトルはすべて封印されたが、そのうちIWWA太平洋岸タッグ選手権は後にジャパン女子プロレスに持ち込まれて復活している。 1978年に東京12チャンネルは女子格闘技番組「激突!女子格闘技大戦争」を開始し、その中で女子プロレス団体「ニューワールド女子プロレス」を立ち上げ、千草も所属選手として参加したが、1ヶ月ほどで崩壊した。 国際女子部解散後、男女混合団体の復活は、元全日本プロレス所属選手で前出のジャパン女子プロレスにて営業を務めた大仁田厚が1989年に旗揚げしたFMWまで13年待つことになる。
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