大正時代後期
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こうした概念を一部に保持しながら「わらべ歌」「子供の歌」という意味で用いられてきた童謡という語に、「子供に向けて創作された芸術的香気の高い文学作品」という新しい意味付けをしたのは夏目漱石門下の鈴木三重吉である。鈴木は1918年(大正7年)7月、児童雑誌『赤い鳥』の創刊を契機に「芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな児童文学」を子供たちに与えたいとして、これを「童謡」と定義づけた。さらに当時は「子供たちが書く詩」も童謡と呼んでいた。このため「童謡」という語には1910年代以降、 子供たちが集団的に生み出し、伝承してきたわらべ歌(=伝承童謡) 大人が子供の情操教育のために創作した芸術味豊かな作品(=文学童謡) 子供たちが創作した児童詩 という3つの概念が付与されていた。但し、これらの概念は時代の変遷に伴って変化したり混在したりした経緯もある。2000年代現在では狭義の「童謡」という語は2.の意味で定着しているが、近年ではその概念が拡大解釈され「童謡=子供の歌全般」としてとらえられ、唱歌、わらべ歌、抒情歌、さらにテレビ・アニメの主題歌など全ての子供の歌を「童謡」という語で括ってしまう傾向が目立つ。 「童謡」(文学童謡)は児童雑誌『赤い鳥』の創刊によって誕生したといえるが、この雑誌に掲載された童謡には当初、曲(旋律)は付いていなかった。創刊年の11月号に西條八十の童謡詩として掲載された「かなりや」が、翌1919年(大正8年)5月号に成田為三作曲による楽譜を付けて掲載された。これが文学童謡の嚆矢である。これまでの難解な唱歌や俗悪な歌謡曲ではない、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供に押し付けるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌を作ろう、という鈴木三重吉の考えは多くの同調者を集め、童謡普及運動あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となった。 『赤い鳥』の後を追って、斎藤佐次郎の『金の船』など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種に及んだ。中でも『赤い鳥』の北原白秋と山田耕筰、『金の船』(後『金の星』と改題)の野口雨情と本居長世などが多くの曲を手がけ、童謡の黄金時代を築いた。北原白秋・野口雨情は、『赤い鳥』から『童話』へ移った西條八十と共に三大詩人と呼ばれた。
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