国内改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:13 UTC 版)
即位後、郭威が死んだ隙を突いて、北漢が契丹の援軍を得て侵攻してきた。両軍は沢州高平の巴公原(現在の山西省晋城市沢州県巴公鎮)で激突、序盤で自軍の一部が北漢に降り窮地に陥る。しかし、世宗自ら矢石を冒して督戦し、将軍趙匡胤の奮戦によって押し返し、北漢軍を撃破、逆に北漢の首都の太原を包囲した。この戦いでは北漢を滅ぼすまでは至らずに退却する。 節度使は、大きな軍事力、支配地に対する行政・財政権(軍民財の三権)を兼ねて持ち、軍閥化して独立・割拠の傾向が強く、五代を通じて戦乱の大きな原因となっていた。また後唐の明宗の時に禁軍として侍衛司が整備されていたが、歴代の皇帝がこれを優遇しすぎたために、恩賞が約束されないと戦わない驕兵となっており、再編成のための老兵の解雇さえ困難だった。対して、柴栄は新たに殿前軍を編成し、節度使の配下から優秀な兵士を引き抜いて殿前軍に組み入れ、その指揮権を皇帝のみが持つようにした。こうして節度使の弱体化と禁軍の強化=皇帝権力の強化が達成された。 また廃仏令を出し、仏教勢力の力を弱め、法難と仏教側からは非難された(三武一宗の廃仏の4回目)。しかし、それまでの廃仏で多かれ少なかれ仏教と対抗する道教側からの示唆・介入があったのに対して、柴栄の廃仏は純粋に経済・国家統制上の観点からのものであり、税・兵役忌避を目的とした出家や資産の寺院への流出の防止、仏教勢力からの権益の獲得を狙いとした。これらによって増えた税収と没収財産は、軍事再編成の費用に当てられた。 また、銅の私有を禁じる法令を出した。これは当時の貨幣である銅貨を鋳造するためのものであり、当時は貨幣経済の発達と五代十国の分裂による銅生産地との断絶で、大幅に銅が不足していたからである。また廃仏令の一環として銅製の仏像を没収し、これも銅貨に鋳造しなおした。 さらに郭威以来の方針を受け継ぎ、租税の軽減や農村の復興を行った。また、『大周刑統』という国法を定めている。
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