四学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:08 UTC 版)
前述したように後漢は儒教一尊の時代であり、学といえば儒学のことであって、文学・史学もこの時代には儒学に内包されたものであった。それが晋代に玄学が誕生、さらに文学・史学が独立し、貴族の基礎教養となった。南朝宋の文帝の時期にそれぞれ儒学館・玄学館・文学館・史学館が設立されたことはこのことを示す好例であろう。 玄学は老荘を基にするが、老荘とイコールではなくその思想の中に『易経』を含む場合があり、また極めて稀ではあるが仏教思想を含むことがある。魏の王弼・何晏により創始される。その後、六朝の間に発展を遂げ、南朝梁に最盛期を迎えたと評される。しかし玄学と儒学とは六朝の間に互いに歩み寄りを行い、最後には融合していき、玄学は隋唐においてはその形跡を見ることができない。 文学においては、魏の文帝の「文学は経国の大業にして、不朽の盛事なり」(『典論』論文)が、中国において初めて文学の価値を宣揚した発言として注目される。代表的な文学及び文学者としては、魏の建安の七子や曹植、西晋の潘岳・陸機らに代表される大康文学、東晋の孫綽らの玄言詩、南朝宋の謝霊運・顔延之・鮑照ら元嘉三大家、南朝斉の竟陵王蕭子良の西邸サロンに集った沈約・謝朓ら竟陵八友などが挙げられる。南朝梁の武帝の時期は六朝文学の最盛期とされ、昭明太子とそのサロンに集まった文学者の協力によって編まれた詞華集『文選』と、少し遅れて簡文帝の命を受けて徐陵が編集したとされる詩集『玉台新詠』が、この時代を代表する詩文集として挙げられる。これら文学作品の特徴としては、一般に実用性よりも美を重視する傾向が挙げられ、魏から晋にかけてその傾向は進行し、南朝においてそれが頂点に達する。詩の分野では、先述の竟陵八友の一人である沈約が四声八病説を唱え、音韻と形式の美を重視する永明体を確立し、南朝梁・陳の時代に宮体詩へと発展した。散文の分野では、駢文(四六駢儷体)と呼ばれる典故と形式を重視した美文的な文体が流行した。なお東晋から南北朝時代において、文学活動の中心は東晋及び南朝にあり、非漢民族政権である北朝の文学はその模倣に過ぎないとする見方が一般的である。 史学においては『後漢書』・『宋書』・『南斉書』・『魏書』が編纂され、いずれも当時を代表する文学者の手によるものである。これ以外に『十六国春秋』・『洛陽伽藍記』など、いわゆる二十四史に含まれない野史も大量に著された。しかし史学においても華美な文章が好まれる傾向は変わらず、簡潔にして要を得た『史記』・『漢書』には及ばないとの評価が一般的である。
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