四つの緒
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『増鏡』「久米のさら山」によれば、元弘の乱の笠置山の戦いに敗北し幕府に捕らえられた後醍醐天皇は、年が明けて元弘2年/正慶元年(1332年)2月頃になってもまだ、六波羅に囚われており、意気消沈する日々を送っていた。このとき、中宮の西園寺禧子は夫の慰めにと、後醍醐がかつて愛用していた琵琶を宮中から届けると、紙片に歌を書いて琵琶に添えた(『太平記』もほぼ同様の逸話を載せる)。 思ひやれ 塵のみつもる 四つの緒に はらひもあへず かかる涙を(大意:思いやってください。塵ばかりが積もる四つの緒(四弦の琵琶)に、払いきることも出来ないほど、絶えず落ちかかる私の涙を。そのむかし隠岐に流された後鳥羽院のため、院の琵琶を塵一つなく手入れしていたら老いの涙がかかってしまった藤原孝道のように、私もあなたの帰りを待っている間に、きっとしわくちゃのおばあちゃんになってしまうでしょう) —中宮禧子、『増鏡』「久米のさら山」(『新葉和歌集』雑下にほぼ同一歌) これに対し、後醍醐も雨垂れのようにはらはらと涙をこぼし、歌を詠んだという。 涙ゆゑ 半ばの月は くもるとも なれて見しよの 影は忘れじ(大意:涙のために、その半ばの月(琵琶)と、半ばの月(満月)のようなあなたが曇って見える。けれども、あなたと逢って共に何度も観た夜の美しい月影(月の光)と、そのときの月影のように永久に美しいあなたの面影のことは、決して忘れはしない。どうかあなたは、いつまでも、月のように長く生きて欲しい) —後醍醐天皇御製、『新葉和歌集』雑下・1295(『太平記』流布本巻3「主上笠置を御没落の事」にほぼ同一歌) かきたてし 音(ね)をたちはてて 君恋ふる 涙の玉の 緒とぞなりける(大意:確かにかつて私は琵琶をかき鳴らしたものだが、その音はもう絶ってしまった。私自身の音楽の楽しみよりも、あなたとの想いの方がずっと大切なのだから。その琵琶の緒(弦)は、あなたを恋しく想って流れるこの涙の玉を、首飾りとして連ねるための緒(紐)として使おう。『源氏物語』の大君は、自分の「玉の緒」(命)は涙の玉のように脆く儚いから緒を通せない、と言って、薫と永き契りを結ぶことを拒んだという。だが、私はたとえこれから刑や戦で死ぬかもしれない脆く短い命であったとしても、あなたがくれた緒を通して、あなたとの契りは――幾たび生まれ変わっても、永遠だ) —後醍醐天皇、『増鏡』「久米のさら山」 後醍醐天皇は琵琶の名手として著名であり、禧子の父である西園寺実兼や同母兄の今出川兼季に学び、その腕前は『増鏡』や、笙の名人であった将軍足利尊氏による弔文で絶賛されている。また、天皇家の神器である伝説の琵琶「玄象」(げんじょう)を初め、数多くの楽器の名物を所有していた。そうした天才音楽家としての名声や皇家累代の神宝、そして一国の皇帝たる自分自身の命よりも、最愛の正妃である禧子の存在と、禧子との永遠の契りの方が、はるかに尊い、と謳う歌である。
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