同盟締結の経緯
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永禄12年、相模では後北条氏の一族(北条氏康の7男とされるが異説あり)である北条三郎(後の上杉景虎)を謙信の養子にして越相同盟が成立するが、これは軍事同盟として機能せず、北関東や東上野における北条と謙信の対立は続いた。同年に信玄は尾張の織田信長や室町幕府15代将軍足利義昭を仲介とした謙信との和睦(甲越和与)を締結し、後北条氏では越相同盟の強化を模索して信玄との対抗を続けるが、氏康没後の元亀2年(1571年)には信玄と氏康の嫡男氏政との間に再び同盟が成立(甲相同盟)、同盟は軍事同盟よりも不可侵条約として機能し、駿河は武田氏領として認知された。 翌天正4年(1576年)9月、勝頼は義昭を庇護していた安芸の毛利輝元とも同盟を結び(甲芸同盟)、武田・上杉・毛利・本願寺による信長包囲網によって信長に対抗した。その一方で勝頼は氏政の妹桂林院殿を後室に迎えることで、既存の甲相同盟の強化も図っている。 天正6年(1578年)6月、越後において上杉謙信が急死すると、上杉家で上杉景虎と上杉景勝の2人の養子の間で後継を巡り御館の乱が発生する。景虎は実家の後北条氏へ援軍を要請し、勝頼も氏政から景虎後援を要請され、5月下旬には一門の武田信豊を信濃国境に派遣する。 勝頼の調停は不首尾に終わり、8月には景勝に起請文を与え、勝頼の妹菊姫の輿入れと東上野の割譲を条件に誓詞を交わし、景勝側との同盟に外交方針を転換する。9月上旬に勝頼は甲府へ帰還し、同月には改めて景勝の援助要請を受け、越後妻有城へ兵を送っており、盟約は軍事同盟として機能している。 勝頼は9月に甲府へ帰還し、12月には菊姫と景勝の婚約を行い、翌天正7年(1579年)4月に再び越後へ出陣し、9月には菊姫の輿入れが行われている。『甲陽軍鑑』に拠れば、この婚礼に際して上杉方から武田方へ多額の金品が送られたという。御館の乱は同年3月に景虎が景勝に追い込まれて自害し、収束した。 同盟交渉に際して武田方では、主に親族・家老層であり、信越国境に配置された武田信豊や春日虎綱(高坂昌信)・信達親子のほか譜代家老の小山田信茂、勝頼側近である跡部勝資や長坂光堅、越後に居住した長井昌秀らが取次に携わっている。甲越同盟に際した外交取次は、武田家中において家格の高い信豊ら一門と当主側近の組み合わせになっている点が指摘され、儀礼面を一門、実務面を当主側近が分担して担当していたと考えられている(丸島 2000)。 甲越同盟締結に関する武田氏側発給文書は上杉家文書に多く残されているが、上杉側の発給文書は武田氏の家伝文書が散逸しているため残存数が少なく、上杉側の取次に関しては不明な点が多い。しかし、上杉側から正式な使者の派遣以降の武田氏側から発給された書状は、景勝宛以外は全て斎藤朝信、新発田長敦、竹俣慶綱のいずれか、あるいは3名宛となっており、当時景勝政権中枢を担っていたこの3人が武田氏との交渉の取次を務めていたことが指摘される。
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