前期倭寇と高麗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:43 UTC 版)
『高麗史』によれば1350(庚寅)年2月「倭寇の侵すは此より始まる」という記事があり、これが当時の公式見解であったようだが、庚寅年以前にも多数の記事がある。文献によると最も古いのは『高麗史』によれば高宗10年(1223年)5月条「倭寇金州」とあるのが初出である。これ以後史料には頻繁に現れている。 1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。倭寇の被害を中心的に受けていた高麗では1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣、羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、1389年の朴葳による対馬国侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した。これ以降倭寇の侵入は激減する。 なお、『高麗史』によれば、高麗は宗主国である元や明に上奏し、元寇以降もさかんに軍艦を建造しており、日本侵攻を繰り返すことになるが、これは、対馬を拠点とする倭寇討伐や日本侵略を口実に元や明の大軍が再び自国に長期駐留して横暴を極めることをおそれたあまりの「先走り」だとされる。
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