刃傷の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 02:33 UTC 版)
長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門重共の取調べに「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので様々な説がある。主に以下のような遺恨・対立の説がある。 院使御馳走人の伊予吉田藩主・伊達宗春より付届けが少なかった、あるいは浅野は渡さなかった(『徳川実紀』、尾張徳川家の家臣朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』)もっとも一般的で、赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』の映画やドラマ、小説などで採用されているのがこの賄賂説である。吉良は賄賂をむさぼるのが好きで、長矩が賄賂を拒否したために辱められたという記述などは『徳川実紀』や『鸚鵡籠中記』にみえる。 勅使御馳走の予算を浅野家が出し惜しみした(『沾徳随筆』)水間沾徳(赤穂藩士大高忠雄・神崎則休・富森正因・萱野重実らの俳諧の師匠)の『沾徳随筆』の中にある「浅野氏滅亡之濫觴」によると「老中に費用の削減をせよと言われた浅野が勅使饗応役の費用を700両にしようと提案し、浅野は吉良が不在だった2月に、畠山義寧に相談して了承を得ていたが、3月になってから吉良がこれに異議を唱え、費用を1200両とせよと命じたことで両者が不和になり、刃傷の原因となった」とある。このうち、吉良が1200両と提案したのは1度目の御馳走人の時に対して元禄時代は大幅に物価が上がっていたためとされる。ただし、浅野が1度目を御馳走人を務めた時の費用は400両とされ、当時、2倍ほどあがっていた物価に対する費用としては800両あたりが妥当で、1200両は1度目に比べると3倍の予算にあたり、当時の物価の上昇を考慮しても高額であるといえる。 塩田を原因とする争いがあった(尾崎士郎)近年、主張されるようになった説に、三河国吉良庄の一部で製造されている饗庭塩の出来が悪いため、出来が良いことで評判の赤穂塩の製造方法を聞き出そうとしたが断られた、もしくは江戸の塩市場の争いとなったのではないかとする説を、吉良出身の作家の尾崎士郎が唱えた。しかし、実際には吉良義央の領地にあったとされる塩田の遺跡は、旗本大河内家の領地であった。塩による遺恨説は、飛び地の領地に気付かずに吉良の領地に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。 増上寺への勅使参詣のために畳替えが必要なのに、吉良は長矩にだけ教えなかった(『岡本元朝日記』、『寺坂私記』)増上寺の畳替えについては、当時の秋田藩の家老岡本元朝の日記『岡本元朝日記』、『寺坂私記』などに畳替えの件で揉めたことが書かれている。『岡本元朝日記』の元禄14年(1701年)5月27日には、「風説によると、事前に浅野が吉良に畳替えに必要か尋ねたところ、不要と言われ、先例を調べてもそのような先例がないので、浅野も納得してそのままにしておいた。だが、前日の14日になって、老中の阿部正武に尋ねたら、新しくせよと申されたと吉良が言い出し、浅野はそれを聞いて狼狽して、老中に照会すべきことであれば自分から聞き合わせたのに、あなたがそれを不要といった。だからこそ、事前に聞き合わせ、必要があればそうしたというのに。それを先日は無用といったのに、今日になってそのようなことを言うとはどういうことか。すでに今日はこうして登城しており、明日朝のことをどうしたら良いというのか。と問いただしたところ、義央はあらゆることに、吝嗇では御馳走は勤まらないと返答した。これが長矩の意趣であると取り沙汰している」 といったことが書かれている。 その他の遺恨・対立の説、並びに詳細については赤穂事件の項に説明が書かれているため、そちらを参照(信憑性が低いものは同記事5項「否定された理由」に記載。また「仮名手本忠臣蔵」などにおける脚色は「忠臣蔵」も参照)。
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