共同租界時代
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「ブロードウェイマンション」の記事における「共同租界時代」の解説
ブロードウェイマンションの建設が始まったのは1930年のことであり、1934年10月に完成した。かかった費用はメキシコドルで1000万ドルで、当時米ドルでおよそ340万ドルであった。このマンションは「もともとは1934年にイギリスの高級住宅ホテルとして建設された」という。このマンションはYe Guang地所不動産会社によって、セファルディ系ユダヤ人のヴィクター・サッスーン卿の支配する上海地所開発会社のために建築された。彼は他にもキャセイマンションや他のフランス租界に立てられたアパートを所持していた。他の二つの上海の高楼(パレスホテル、サッスーンハウス)のほか、これらの摩天楼はすべてバグダッド系ユダヤ人の所有であった。 経営をつかさどる取締役会の議長はヘンリー・エドワード・アンホールドが務めた。彼はドイツの家柄の英国ユダヤ人の家系の出身で、1879年1月16日香港で生まれ、英国で教育を受けた。また、彼はサッスーン卿の支配するArnhold & Companyの代表役員であった。1923年には駐上海イギリス商工会議所の議長を務めており、工部局(上海租界議会)の元議長の経験もある人間だった。 ブロードウェイマンションの最初の開発者と投資家はセファルディ系ユダヤ人のモーリス・ベンジャミンであった。彼は「上海の港湾建築の多くの投資建築者」であった。彼は上海でもっとも顕著な地主、経営者で不動産の玄人と考えられていた。彼は常に上海地所開発会社のメンバーを率いており、1920年から1921年にかけては上海工部局の一員であった。Maisie Meyerによれば「ブロードウェイマンションはモーリス・ベンジャミンの傑作として迎えられた」としている。 日中戦争以前、「虹口唯一の高層建築はブロードウェイマンション」であった。完成した当時「この巨大なピラミッドは上海の高層ビルの二大巨頭である」としている。営業開始日には、上海の楊浦区、虹口区に広がるリトルトーキョーとの近さから「日本の商業活動のための本部」と呼ばれた。1932年、上海共同租界全体8.3マイルのうち4.25マイルにリトルトーキョーが広がっており、3万人近い日本人が居住していた。この当時、国際共同租界とフランス租界合わせても他の外国人は2万人しかいなかった。この地域では日本軍が優位を占め、コントロールされていた。1937年8月、第二次上海事変で国民党軍と日本軍が衝突。日本側の勝利に終わり、11月には蘇州湾北部の共同租界にいた中国人は降伏した。これにより、地域はほとんど日本人に独占された。
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