人々の宗教実践
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 21:05 UTC 版)
「中世後期のスコットランド」の記事における「人々の宗教実践」の解説
詳細は「:en:History of popular religion in Scotland」を参照 伝統的なプロテスタント的歴史叙述は中世後期スコットランド教会の堕落と不人気を強調したが、より最近の研究は、教会が異なった社会集団の精神的な欲求を満たしていた方法を示してきている。歴史家はこの時期における修道院の衰退を認めている。多くの修道院はより少数の修道士を持つようになり、このような修道士はしばしば共住生活を放棄し、より個人的で世俗的な生活様式を取るようになった。有力者からの新しい修道院の寄進も15世紀に衰退した。対照的に、15世紀後半のバラにおいては托鉢修道会に属する托鉢修道士が増加し、人々に対して説教を与え聖職を司った。フランシスコ会は1467年以降スコットランド管区として組織され、1480年代にはフランシスコ会とドミニコ会は別々の管区として認識された。教会が増える傾向にあったイングランドの町とは対照的に、ほとんどのスコットランドのバラにおいては大抵ただ1つの教区教会のみがあった。しかし、この時期に煉獄の教義の重要性が増すにつれて、礼拝堂管轄区(chapelry)や聖職者、死者のためのミサの数は急速に増大した。聖人のための祭壇の数もまた劇的に増え、ダンディーの聖マリア教区教会(St. Mary's in Dundee)にはおそらく48が、エディンバラの聖ジャイルズ教会(St Giles' in Edinburgh)には50以上があった。スコットランドにおいて祝福される聖人の数も増え、アバディーンの聖ニコラス教会(St Nicholas church in Aberdeen)において使われるミサ典書(missal)には約90が加えられた。15世紀にイエス・キリストや聖母マリアと結びついた新しい崇拝(例えば「5つの聖痕」や「キリストの血」「キリストの御名」)がスコットランドに届き始め、主の奉献の祝日(聖燭祭)やエリザベト訪問、雪の聖母といった新しい祝祭も祝われるようなった。14世紀初期に教皇庁は聖職兼任の問題を縮小しようとしたが、相対的に貧しい聖職禄や、特に黒死病後は聖職者の不足によって、15世紀には2つ以上の聖職禄を持つ聖職者が急増した。このことは、教区教会の聖職者のほとんどが下位の教育程度の低い階層の出身であり、彼らの教育や能力の基準について頻繁に不満が起こったことを意味したが、兼任が実際に衰退していったことを明らかに示す証拠はほとんどない。異端はスコットランドにおいてはロラード主義の形態で15世紀初期にイングランドとベーメンから流入し始めた。しかし、異端者の火刑や反秘跡的な要素に対する明らかな支持の証拠が多数あるにもかかわらず、おそらく異端は比較的小規模な運動にとどまった。
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