中断された計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:58 UTC 版)
「デブレツェンの戦い」の記事における「中断された計画」の解説
トルブーヒンがルーマニア国内での抵抗を一掃したため、マリノフスキーは軍をハンガリーへ向かわせ始めた。フリースナーにとってありがたいことに、第2ウクライナ方面軍の単独での進撃は途中から鈍り始めていたが、このためにフリースナーはムレシュ川に脆弱ではあるが防衛線を構築するのに十分な時間を稼ぐことができた。 1944年9月初旬、マリノフスキーはクルージュ=ナポカに進撃するようソビエト赤軍最高司令部に命令された。マリノフスキーはミシュコルツ、デブレツェン、ティサ川方面へ進撃、その後、ハンガリー大平原へ進むことになっていた。一度、平原に進出したならば、マリノフスキーは配下の装甲部隊を用いて、圧倒的な攻撃を行うことが可能であった。そして、ドイツ南方軍集団を撃破してしまえば、ブダペストを突破してスロバキアまで進撃することが可能であったが、ソビエト赤軍はヤッシー=キシナウ攻勢、ベオグラード攻撃作戦などで戦力を弱めており、なおかつルーマニアの鉄道軌間が異なるため、補給上の大きな困難とも戦わなければなかった。 フリースナーはソビエト赤軍第2ウクライナ方面軍および第4ウクライナ方面軍に包囲されることを恐れ、総統大本営へ飛んで向かった。フリースナーはティサ川の沿った防衛線に部隊を撤退する許可を総統から得ようとした。フリースナーはこの撤退がソビエト赤軍による継続的な攻撃に対処し、若干の自由な活動が可能となると主張した。ヒトラーは提案を拒絶したが、フリースナーの元に増援を送ることを約束、さらに攻撃を行うよう命令した。この攻撃の狙いはマリノフスキー配下の2個軍の撃破することであった。 フリースナーは実行可能な防衛作戦を行いたかったが、結局、ソビエト赤軍第27軍、第6親衛戦車軍を撃破するよう命令されていた。その上、フリースナーはカルパチア南部の重要な峠を取り戻し、第2ウクライナ方面軍を分断することを目的としてクルージュからの攻撃を命令された。
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