上杉禅秀の乱とは? わかりやすく解説

上杉禅秀の乱

読み方:ウエスギゼンシュウノラン(uesugizenshuunoran)

室町時代前期内乱


上杉禅秀の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/19 21:31 UTC 版)

上杉禅秀の乱
戦争上杉禅秀の乱
年月日応永23年(1416年
場所:関東地方、駿河の一部
結果鎌倉公方関東管領方の勝利
交戦勢力
鎌倉公方
関東管領
幕府軍
前関東管領勢力
指導者・指揮官
足利持氏
上杉憲基
今川範政
上杉房方
足利義持
上杉氏憲(禅秀)
足利満隆

上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)とは、室町時代応永23年(1416年)に関東地方で起こった戦乱。前関東管領である上杉氏憲(禅秀)鎌倉公方足利持氏に対して起した反乱である。禅秀とは上杉氏憲の法名。

経緯

鎌倉府南北朝時代室町幕府が関東統治のために設置した機関で、鎌倉公方は関東管領によって補佐され、管領職は上杉氏による世襲状態であった。応永16年(1409年)に3代鎌倉公方足利満兼が死去すると満兼の子の持氏が新公方となった。当初、山内上杉家上杉憲定が関東管領の地位にあったが、応永18年(1411年)に憲定が失脚すると、代わりに山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉家の上杉氏憲が関東管領に就任した。氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆、満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近して若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようとした。

ところが、応永22年(1415年)4月25日の評定で氏憲と持氏が対立すると、5月2日に氏憲は関東管領を更迭され、18日には後任の管領として山内上杉家の上杉憲基(憲定の子)が管領職についた。氏憲は足利満隆・持仲らと相談し、氏憲の婿にあたる岩松満純那須資之千葉兼胤長尾氏春大掾満幹山入与義小田持家武田信満結城満朝蘆名盛政や地方の国人衆なども加えて翌23年(1416年)に持氏への反乱を起こした。

応永23年10月2日の戌の刻頃、足利満隆が御所近くの宝寿院に入り挙兵し、氏憲と共に持氏・憲基拘束に向かう。化粧坂では持氏方の三浦高明が守備に就くなどしていたが、鎌倉は混乱しその隙に持氏らは家臣に連れられて脱出していた(『鎌倉大草紙』)。その後、氏憲と満隆は合流した諸氏の兵と共に鎌倉を制圧下に置いた。当時、関東の有力武家は通常は鎌倉府に出仕して必要に応じて領国に戻って統治を行っていたと考えられているが、氏憲らは持氏を支持する諸将が鎌倉に不在の隙をついて挙兵をしたとみられている。

駿河今川範政から京都に一報が伝えられたのは10月13日で、当初持氏・憲基が殺害されたという誤報を含んでいたことと、将軍義持が因幡堂参詣のために不在であったために幕府内は騒然となった。幕府に詰めた諸大名は会合して情報収集に努めることにして夜に義持が帰還するのを待って対応を決めることとした。その後、持氏・憲基らは無事で、鎌倉を脱出した持氏が駿河の今川範政の元に逃れて幕府の援助を求めていることを知ると、義持は諸大名とともに会議を開き、義持の叔父である足利満詮の進言もあって、持氏救援に乗り出すことになった(『看聞日記』同年10月13・29日条)[1]

幕府の命を受けた今川範政・上杉房方小笠原政康佐竹氏宇都宮氏の兵が満隆・氏憲討伐に向かった。このため、氏憲らは持氏の殺害を図って駿河を攻めるが今川氏に敗れ、更に上杉氏らに押された江戸氏豊島氏ら武蔵の武士団が呼応して武蔵から氏憲勢力を排除した。翌応永24年(1417年)元日の世谷原の戦いで氏憲軍が江戸・豊島連合軍を破り、押し返すがその間隙を突いて今川軍が相模に侵攻、1月10日に氏憲や満隆、持仲らが鎌倉雪ノ下で自害した事で収束した。また、乱で敗北した事により犬懸上杉家は関東での勢力を失う(ただし、氏憲の子の何人かは出家することにより存命し、幕府の庇護を受けている)。 また、武田信満は追討軍によって自領・甲斐まで追い詰められて自害、岩松満純は捕らえられて斬首された。

禅秀の乱の波紋

室町幕府では乱に際して4代将軍の足利義持は持氏を支援するが、一方では義持の弟の足利義嗣が出奔する事件が起こり、義嗣は捕縛されて幽閉されるが、幕府内で上杉氏憲と内通していた疑惑のある人物として名前が挙がるなど波紋が広がる。

室町幕府

応永23年(1416年)10月、自分の身に対する危険を感じた足利義嗣は京都を脱出するが、間もなく義持側近であった富樫満成高雄で捕らえられ、義嗣の身柄は仁和寺から相国寺へ幽閉されて出家させられた。ところが、11月に入ると義嗣の取調べにあたった富樫満成から出された報告が問題を呼んだ。そこには義嗣とともに現管領細川満元、元管領斯波義教をはじめ、畠山満則赤松義則土岐康政山名時熙、更に公家の山科教高、日野持光らが共謀して上杉氏憲に呼応して義持打倒を計画していたと言うのである。これを受けて土岐持頼(康政の嫡子)が伊勢国守護の地位を奪われた他、満元以下有力守護や公家たちが揃って謹慎・配流を命じられた。

応永25年(1418年)に入ると、義嗣は義持の命を受けた富樫満成により殺害される。ところが、この年の11月には逆に満成が義嗣に加担し、なおかつ義嗣の愛妾・林歌局と密通しているとの疑いで追放されてしまったのである。これは件の告発によって義持と富樫満成ら側近集団に実権を奪われた細川以下の有力守護大名側の逆クーデターとも言われている。

なお、満成は高野山に逃亡したものの、応永26年2月4日(1419年2月28日)に畠山満家の討伐によって殺害されている。

鎌倉公方

室町幕府のこの反乱に対する立場は、義嗣や南朝との連携を危惧して氏憲討伐に乗り出したのであって、本心から鎌倉公方である持氏を支持していた訳ではなかった。持氏も幕府中央の混乱に乗じて関東・奥州各地に発生した武装蜂起に対して自己の政権の権限と基盤の強化に乗り出して幕府中央の権威を否定する動きを以前から見せていたからである。幕府から追討を受けている筈の氏憲の遺児が実は幕府に保護されていたという事実は、持氏が幕府に対して反抗する事態を考慮したからである。鎌倉府と敵対的でありながら室町幕府の意向を受けて禅秀討伐に加わった下野国の宇都宮持綱[2]が乱後に上総国の守護に任じられたり[3]、足利氏ゆかりの足利荘が鎌倉府から室町幕府の直接管理に移されたりしたのも、持氏に対する牽制であったと考えられている。

禅秀の死の翌年にはその旧領であった上総において上総本一揆と呼ばれる旧臣である国人達を中心とした一揆が発生している。更に禅秀方についた大名らは持氏からの報復を危惧して鎌倉への出仕を取りやめる者が相次いだ(実際にその後山入与義や大掾満幹が鎌倉出仕中に持氏の軍勢に攻め滅ぼされている)。その後、持氏は岩松氏や佐竹氏(山入氏系)などの氏憲の残党狩りや京都扶持衆の大名など関東における反対勢力の粛清などを行うと同時に(この一件を称して「小栗満重の乱」と呼ぶこともある)自立的行動を取りはじめる。その一方で、奥州南部の統治のために派遣されていた叔父の篠川公方足利満直は犬懸上杉家との関係が深く、乱後の持氏との関係の悪化とともに鎌倉府からの自立を図るようになる[4]。やがて、守護任命などを巡り幕府は鎌倉公方を警戒し、鎌倉公方と関東管領との意見対立も続き、関東地方での騒乱は永享10年(1438年)の永享の乱、永享12年(1440年)の結城合戦などに引き継がれた。

脚注

  1. ^ 吉田賢司「将軍足利義教期の諸大名―その幕政参与についての一考察―」『龍谷史壇』117号、2001年。 /改題所収:「管領・諸大名の衆議」『室町幕府軍制の構造と展開』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-02889-9
  2. ^ 禅秀軍の一員として宇都宮氏の一族とみられる「宇都宮左衛門(某)」が参加していたものの、宗家の当主・持綱は幕府軍の一員として活動していた。これは、『結城古文書写』の中に幕府軍を率いる今川範政から白河結城氏に対して応永24年正月7日に届けられた指示書が宇都宮(氏)を介していることから分かる(杉山 2014, pp. 263-264・282-283)。
  3. ^ 杉山一弥「室町幕府と下野〈京都扶持衆〉」『年報中世史研究』30号、2005年。/所収:杉山 2014
  4. ^ 杉山 2014, 「篠川公方と室町幕府」.

参考文献

  • 伊藤喜良「義持政権をめぐって―禅秀の乱前後における中央政局の一側面」『日本中世の王権と権威』思文閣出版、1993年。ISBN 978-4-7842-0781-7
  • 江田郁夫「上杉禅秀の乱と下野」『室町幕府東国支配の研究』高志書店、2008年。ISBN 978-4-86215-050-9
  • 杉山一弥『室町幕府の東国政策』思文閣出版、2014年。ISBN 978-4-7842-1739-7 

関連項目


上杉禅秀の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 08:49 UTC 版)

佐竹の乱」の記事における「上杉禅秀の乱」の解説

その頃鎌倉公方足利持氏関東管領の上杉氏憲が対立し、「上杉禅秀の乱」が起こる。関東管領罷免された氏憲に替わる管領には義理の兄義基が就任したので、山入氏は氏憲側につき、元々鎌倉府よりだった佐竹氏は持氏側についた。この乱は上杉氏憲敗れて自刃したことで乱は鎮圧山入氏足利持氏降伏したが、佐竹氏支族稲木氏や長倉氏などは持氏に反抗続け、持氏の命により佐竹義憲がこれを鎮圧常陸国はこれで安定したかに見られたが、山入氏の義憲に対す叛意しっかりと残っていた。その後山入与義は常陸守護に就任したが、鎌倉にて殺された。与義の跡は義郷が継いだがそれからしばらくして没し、祐義がその跡を継いだ

※この「上杉禅秀の乱」の解説は、「佐竹の乱」の解説の一部です。
「上杉禅秀の乱」を含む「佐竹の乱」の記事については、「佐竹の乱」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「上杉禅秀の乱」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「上杉禅秀の乱」の関連用語


2
上杉禅秀 デジタル大辞泉
100% |||||

3
清浄光寺 デジタル大辞泉
100% |||||








上杉禅秀の乱のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上杉禅秀の乱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの上杉禅秀の乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの佐竹の乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS