ピレネー越え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:16 UTC 版)
「ハンニバルのアルプス越え」の記事における「ピレネー越え」の解説
ハンニバルはサグントゥム包囲戦の後カルト・ハダシュトに戻り、そこで冬を過ごした。その間に軍を一旦解散し、兵を故郷に戻らせた。ローマへの遠征は困難なものとなるであろうことから、故郷で冬を過ごさせることで兵士の士気を可能な限り高くできると考えたのである。イベリア半島には弟のハスドルバル・バルカを残し、占領地の経営を行わせると同時にローマに備えた。加えて、イベリア人の兵をリュビア(北アフリカ)へ、逆にリュビア人の兵をイベリアへ送った。脱走兵を最小限にすることと、忠誠心を確実にするためである。また、ハスドルバルに何隻かの船を残していった。 ハンニバルはカルト・ハダシュトをローマ侵攻の橋頭堡として使う場合の問題点を予想していた。ローマの同盟国が周囲にもあることから、カルト・ハダシュトをローマに対して無防備にしておくわけにはいかなかった。イタリア半島内に侵攻した場合、軍の補給は陸路に頼るしかなく、したがってイベリア半島を完全に制圧しておく必要があった。このため、ハンニバルは、軍を3つに分けて素早い作戦によって全土を平定することとした。 偵察部隊およびアルプス周辺のケルト部族から侵攻予定路に関する情報を得た後、カルタゴ軍は行動を開始した。兵力はリュビア兵、イベリア兵からなる90,000の重装歩兵と12,000の騎兵であった。エブロ川からピレネー山脈までの間に、カルタゴ軍はイレルゲート族(Illergetes)、バルグシー族(Bargusii)、アエロノシー族(Aeronosii)およびアンドシニ族(Andosini)の四部族と対峙しなければならなかった。短期作戦が最重視されたが、ポリュビウスによるとハンニバルは多大な損害を受けたとしている。この地域を鎮圧して後、弟のハンノをこの地域の司令官とし、特にローマとの関係の深いイレルゲート族の監視を命じた。ハンノには10,000の歩兵と1,000の騎兵が残された。 この作戦の初期段階で、ハンニバルはさらに歩兵10,000と騎兵1,000を故郷に返した。その目的は二つあり、ハンニバルに共感を持つ兵士を背後においておくこと、また他のイベリア人達に作戦成功の可能性が高いと信じさせ、必要とされるときに援軍を送らせることであった。ローマ侵攻に参加した兵力は歩兵50,000、騎兵9,000であった。 三軍のうち主力となるのは右翼軍で、騎兵が随伴しハンニバル自身がこれを率いた。ハンニバルは随伴する艦艇を持っていなかったため、ローマ軍が海から上陸してきた場合にはこれを阻止できない。この場合右翼軍がローマ軍と対することになるが、ハンニバルは彼自身がこれに対応したかった。右翼軍はエデバ(Edeba、現在のアンポスタ付近)のオッピドゥム(城市)でエブロ川を渡河し、海岸沿いにタラッコ(Tarraco、現在のタラゴナ)、バルシノ(Barcino、現在のバルセロナ)、ゲルンダ(Gerunda、現在のジローナ)、エンポリアエ、イリベリス(Illiberis、現在のエルヌ)と進んだ。これらのオッピドゥムは占領され、守備兵が残された。 中央軍はモラ(Mora、現在のMóra d'Ebre)のオッピドゥムでエブロ川を越えたが、その後に関しての情報は少ない。いくつもの渓谷を通り、抵抗する部族があればこれを鎮圧するように命令されていた。この作戦を実施した後で、右翼軍に合流した。 左翼軍はシコリス川(Sicoris River)との合流点でエブロ川を越え、川沿いに山岳部に入った。その任務は中央軍と同じであった。ハンニバルは各軍ともルブルカタス川(Rubrucatus)を横切るように経路を設定していた。もしも何れかの軍が困難に陥った際には、他の軍がルブルカタス川沿いに移動することで援護をすることを可能とするためである。 この作戦全体を遂行するのに2ヶ月間を要したが、その間にハンニバルは兵力13,000を失った。
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