ダイヤ・運賃
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1925年11月の石家台 - 開原城間開業時のダイヤは1日6往復であった。運賃は三等が20銭、二等が30銭(いずれも奉天票)で、一等は名目のみで存在しなかった。 1926年5月の西豊延伸直後のダイヤでは、旅客列車は全線を通す列車が4往復、石家台 - 開原城間の区間列車が3往復、貨物列車は全線を通すものが4往復運転される予定とされていた。ただし予定であるため実際にどうであったかは不明である。運賃は石家台-西豊間が乙等が2元85銭・甲等が5元25銭であった。また貨物運賃は全線で4元90銭であった。これらの運賃は全て奉天票である。しかし既に相場の下落が始まっていたため、10日おきに運賃改正を行わなければならない状態であった。 1926年9月、水害による全線休止からの復旧後の報告書によるダイヤでは、全線を通す列車のみが判明しており、それによると2往復の運転で急行列車が設定されていた。運賃はこの頃には現大洋票に変更され、乙等が9角5分・甲等が1元7角5分、急行料金が乙等5角・甲等7角5分であった。 1935年10月には全線を通す列車が2往復、石家台 - 開原城間の区間列車が4往復設定されていた。石家台を基準とした始発は7時10分、終発は14時40分で、最終上り列車の到着は16時29分と、全体的に早じまいのダイヤであった。全線を通す列車は石家台発7時10分・12時40分、西豊発7時20分・12時50分と、上下列車が互いに両端の駅をほぼ同時に出るようになっていた。所要時間は石家台 - 開原城間が20分内外、石家台 - 西豊間が3時間40分ほどであった。運賃は不明である。 1940年8月には支線が開通しており、石家台 - 南関間の区間列車の一部がそちらへの列車となっている。本線は全線を通す列車が2往復、石家台 - 南関間の区間列車が4往復なのは同じであるが、石家台基準で始発が8時、終発が18時30分で、最終上り列車の到着が19時05分で以前よりも運行時間帯が延びている。全線を通す列車は石家台発8時・15時、西豊発8時・15時と、やはり同時に両端を発車するようになっている。支線は石家台発の始発が6時50分、終発が16時30分、東関発の始発が7時19分、終発が17時となっている。所要時間は石家台 - 南関間が17分、石家台 - 西豊間が3時間、石家台 - 東関間が25分であった。運賃は石家台 - 南関間が全線を通す列車の場合は三等2角・二等3角、区間列車・支線の列車の場合は二等1角、石家台 - 西豊間が三等1元6角・二等2元4角5分、石家台 - 東関間が二等1角5分であった。 1942年6月には開原駅に乗り入れているが、区間運転や支線の列車は従来のまま石家台発で運転されていた。本線は全線を通す列車が2往復、石家台 - 南関間の区間列車が3往復となり、石家台基準で始発が10時、終発が18時25分で、最終上り列車の到着が19時05分である。始発が遅いのは、朝の列車が支線に乗り入れているためである。全線を通す列車は開原発が8時10分・14時40分、西豊発が8時30分・15時であった。支線は石家台発の始発が6時50分、終発が16時30分、東関発の始発が7時20分、終発が17時となっている。所要時間は開原 - 南関間が37分、石家台 - 南関間が17分、開原 - 西豊間が3時間20分、石家台 - 東関間が25分であった。運賃は石家台 - 南関間が区間列車・支線の列車で二等片道1角5分・往復2角5分、開原 - 西豊間が三等2元4角5分・二等4元5分、石家台 - 東関間が二等片道2角5分・往復3角5分であった。
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ダイヤ・運賃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 00:05 UTC 版)
運行系統は第一期では一号線が牛心街-東塔間の全線運転と奉天駅前-大東辺門間の区間運転の2系統、二号線と三号線が南十條-昭安街間の直通運転の1系統の計3系統が予定されていた。運行間隔は一号線が全線運転・区間運転ともに6分間隔、二号線・三号線の直通が3分間隔であった。つまり一号線の末端部が6分間隔である以外は、全線3分間隔の運転となっていた。 第二期初期、一-四号線全通時にはこれを大幅に変更。一号線が牛心街-東陵間の全線運転と奉天駅前-大西辺門間の区間運転の2系統なのは変わらないが、二・三・四号線が互いに直通可能なのを利用してかなり複雑な系統が予定された。二号線単独運転としては永信区-瀋海区広場間の全線運転、三号線単独運転としては賽馬場-五里河子間の全線運転にしぼられ、区間運転がすべて路線間の乗り入れとなった。二号線から三号線に乗り入れる砂山-万年街間と瀋海区広場-五里河子間、二号線から四号線に乗り入れる砂山-孤家子間の3系統が設定された。運転間隔はすべて6分間隔であり、多いところで2分間隔の運転となっていた。 第二期後期の五号線一部開通時には、この複雑な運行系統が整理される。一号線が牛心街-東陵の全線運転のほか、五号線に乗り入れる奉天駅前-三家子間の区間運転の2系統になる。二号線は永信区-瀋海区広場間の全線運転と、四号線乗り入れの砂山-孤家子間の区間運転の2系統となり、三号線との乗り入れを廃止。これに伴い三号線は賽馬場-五里河子間の全線運転と万年街-五里河子間の区間運転の2系統のみになる。運行間隔は全線4分間隔まで縮められる予定であった。 運賃に関しては並等と一等の二等級制採用を予定しており、並等7銭・一等10銭での旅客収入額の試算が残されている。
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ダイヤ・運賃
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ダイヤは1918年の時点では1日8往復で、本庄発は始発8時・終発19時5分、児玉発は始発7時10分・終発18時5分となっていた。のち1925年には1日9往復となり、本庄発は始発8時5分・終発18時40分、児玉発は始発7時25分・終発17時45分となった。遅くとも19時過ぎには運行を終えることになり、全体的に早じまいのダイヤであった。 運賃は1918年の時点で全線片道19銭・往復35銭であった。しかしこの時期第一次世界大戦の影響で物価が騰貴していたため、ちょくちょくと値上がりがあり、1919年には片道21銭・往復41銭、1925年には片道27銭となっていた。
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