SZ MEMBERSHIP

巨大球体型アリーナ「スフィア」での死者(デッド)との再会

ラスベガスの巨大な球体型アリーナ「Sphere(スフィア)」でデッド&カンパニーの連続興行が数カ月にわたって開催された。長年のファンであるわたしにとって、そこでの体験は、グレイトフル・デッドという伝説と向き合う時間でもあった。
スフィアは、死ぬまで楽しみ続けるという人間の欲望を実現しようとしている。わたしは喜んで実験台になった。
スフィアは、死ぬまで楽しみ続けるという人間の欲望を実現しようとしている。わたしは喜んで実験台になった。Photographs: Michelle Groskopf for The New Yorker

5月、わたしは地下鉄の中で見つけた広告を通じて、ラスベガスの巨大な球体型アリーナ「Sphere(スフィア)」でデッド&カンパニーの連続興行が数カ月にわたって開催されることを知った。デット&カンパニーはグレイトフル・デッドの現在形であり、同バンド存命メンバーのボブ・ウィアーとミッキー・ハートに加えて、ポップスターのジョン・メイヤーが参加している。広告では、目につく「スター・ウォーズ」風フォントで「Dead Forever」と書かれていた。わたしは、デイヴィッド・レターマンが数年前にタイムズスクエアの看板でミュージカル『キャッツ』の広告を見たときに発したコメントを思い出した。「『キャッツ:ナウ・アンド・フォーエヴァー』──これは脅迫なのだろうか?」

それでもなお、わたしは1カ月後にラスベガスへ向かっていた。デッド&カンパニーがストリップ大通りのそばにある新しくきらびやかな「スフィア」で行なう30回の公演のうち、すでに12回目を終えていた。ラスベガスへ向かうフライトの乗客の半分は、「デッドヘッド」と呼ばれるバンドの熱烈なファンだった。着ている服に描かれた象形文字からそれがわかる。わたしは預けるほどの荷物はなく、手荷物だけを持ち込んでいた。初めてグレイトフル・デッドのライブを経験してから、ほぼ40年が過ぎていた。フライトの週、わたしはセントラルパークで日よけ帽をかぶった高齢の伝道師に呼び止められ、こう尋ねられた。「あなたは何に幸せを感じる?」。わたしは少し考え込んでから、「ジェリー・ガルシア」と言い放った。

深酒の合間に超越の感覚を味わうために、わたしはほぼ毎日のように古いショーを再生している(グレイトフル・デッドは、フロントマンのガルシアがかつて言ったように、「何秒も続けて」偉大であることができる)。わたしは何十年もかけて人間として成長あるいは衰退してきた。趣味の幅もが広がった。それにもかかわらず、音楽に対する興味はますます深まるばかりで、時には恥ずかしいと感じることもある。

ただし、わたしは気難しいタイプのデッドヘッドだ。時代やキーボード奏者やサウンド形態についてあれこれうるさいし、バンドシーンに対しては皮肉な見方をするし、ガルシアが1995年にこの世を去ってから生存メンバーがつくってきた音楽には居心地の悪さも感じる。いつも生ぬるいと思ってしまう。だがそれでも、大きいものも小さいものも、クラブでもアリーナでも、ビーチでもボーリング場でも、言葉にできない恍惚とスリルを求めて、あらゆるライブに通い続けた。そのたびに、これが彼らの最後になるかもしれないという予感もあった。永遠は、よく言われるように、長い時間だ。

グレイトフル・デッドの復活

グレイトフル・デッドは、オリジナル編成のころにもすでに何度か死んでいる。あるいは、少なくとも居眠り状態に陥った。74年には、最先端のサウンドシステムの高額費用とコカイン中毒のなかでのツアーという負担に耐えきれず、サンフランシスコのウィンターランド・ボールルームで一連の引退公演を行なった。ところが翌年には新しい素材に取り組み始め、ベイエリアでいくつかのライブを行ない、76年にはツアーも再開していた。

10年にわたるドラッグとタバコ、そこにホットドッグが加わり、ガルシアが糖尿病を原因とする昏睡状態に陥って、音楽活動は再び停滞した。しばらくのあいだ、カムバックは不可能だと思えた。92年にも、ガルシアがまたもやドラッグ依存を断ちきろうとしたため、数多くのライブをキャンセルした。そして95年、ガルシアはリハビリ施設で心臓発作を起こし、この世を去った。ガルシアの死をもって、グレイトフル・デッドは消滅した。

だがそれからの数年で、残ったメンバーがザ・デッド、アザー・ワンズ・ファーザーなどといった名を引っ提げ、さまざまな構成でバンド活動を再開した。何十人ものギタリストを代役として立て、そのうちの数人はガルシアのまねをした。しかし、最も明るい光を放っていたリーダー(本人はリーダーとみなされるのを嫌がっていたが)の不在により、新たな、あるいは以前は潜伏していた軋轢が明るみに出て、欲やエゴが彼らの関係を蝕んでいった。さまざまな時点で、メンバー同士の会話もなくなり、リズムギターのウィアーとベースのフィル・レッシュが、誰がリードボーカルを務めるかである種の冷戦を繰り広げた。

バンド結成から50年目の節目を迎えた2015年、コンサートプロモーターのピーター・シャピロが残りのメンバーを説得し、最後の別れを示唆する「Fare Thee Well」というタイトルで、一連のスタジアムライブを開催した。しかし、このライブにより、鉱山が閉山されるどころか、新たな鉱脈が発見された。数週間後、ギターという要のポジションにジョン・メイヤーを加えた新バンド「デッド&カンパニー」を発足すると、ウィアーが発表した。最高クラスのギタリストとして知られるメイヤーは、ガルシアの演奏スタイルと創作力に魅了されていたのだ。これを機に、レッシュは退場した。

どういうわけか、企業の思惑が見え隠れする今回の編成は成功を収め、模造品として新しいリスナーを集め、スタジアムを満席にした。一部の人は、このバンドをシミュレーションではなく本物の複製とみなした。わたしも数回、シティ・フィールドとマディソン・スクエア・ガーデンでデッド&カンパニーを見た。彼らはすぐに「デッド・アンド・スロー」の異名をとるようになった。推定上のリーダーである高齢のウィアーがゆったりとしたテンポにこだわるからだ。わたしはあの最高の力強さを恋しく思う。だが、それを感じられる瞬間があることも事実だ。ほかのメンバー──キーボードのジェフ・キメンティ、ベースのオテイル・バーブリッジ、そしてハートとともにドラムを担当するジェイ・レーン──は、誰もがすばらしいミュージシャンだ。わたしでさえ、時にはノリノリになった。しらけた顔をしてムードをぶち壊したくなかった。

メイヤーは間違いなく才能あるギター・プレイヤーで、しなやかで巧み、そしてモノマネの達人でありながら、独自の魅力も兼ね備えている。頭がよく、グレイトフル・デッドの音楽に対する情熱をとても正確に表現する。しかし、彼の歌うブルースの抑揚、ギターを弾きながら見せる表情(しかめ面を見せたり得意がったり)、手首のデザイナーウォッチ、有名人のガールフレンド、テニスシューズ──それらのすべてがどうも軽薄なのだ。糖尿病のドラッグ依存者になれと言うわけでも、ギターのフレットボードに覆い被さるように演奏することを求めているわけでもないが、若々しい顔の目立ちたがり屋と、その目立ちたがり屋がなりすまそうとしているビートニク世代の反逆者は、その態度においてもスタイルにおいても、あまりにもかけ離れている。

だが、ファンの多くは気にしないようだ。そこが好きと言う人も多い。デッド&カンパニーはこれまで9年にわたり活動を続け、250回のライブを行ない、500万枚近くのチケットを売ってきた。これには、去年の夏に行なわれたさよならツアーも含まれている。これもまた、チケット代は高騰したが、本当の終わりとはならなかった。彼らは希少性あるいは最後のライブの幻想を巧みに利用する。もはや伝統芸とも呼べるほどで、彼らの一夜あたりの平均興行収入は450万ドルにおよぶそうだ。

デッドはかつてないほどかっこよく、そしておそらく大きくもなった。加えて、ファン層も間違いなく広がった。しばらく昏睡状態が続いたのち、80年代後半にバンドは唯一のトップ10ランクイン曲となる「Touch of Grey」のヒットで大きくファンを増やした(このときファンになった人々は「タッチヘッド」と呼ばれた)が、今回のにわかファンの流入は当時のそれに匹敵する。デッドヘッドたちはよく、「われらはどこにでもいる」と言う。かつてこの表現は、ファンは潜伏していて、思わぬところで見つかるという意味で使われていたが、いまでは飽和状態、それどころか文化的な意味でのある種の疲労さえ表現している。

リスク資本を象徴する存在

いまでは、スフィアのことを聞いたことがないという人はほとんどいないだろう。正式に「スフィア」であって「ザ・スフィア」ではないことを知る人も多いだろうが、この点を気にかけている人はほとんどいない。一般的には、ケーブルヴィジョン社の相続人で、マディソン・スクエア・ガーデンのオーナーでもあるジェームズ・ドーランが23億ドルを投じて建てたと言われているが、正確には、スフィアはマディソン・スクエア・ガーデン社とベネチアン社の共同プロジェクトとして始まり、億万長者のシェルドン・アデルソンが完成前の22年にアポロ・グローバル・マネジメント社に売却した。

要するに、ドーランのお気に入りプロジェクトではあったが、リスク資本を象徴する存在でもあり、アテンションエコノミー(関心経済)の菌糸ネットワークから生じた巨大なキノコでもある。スフィアはいま、ティッカーシンボル「SPHR」を担う独立公開会社で、過去1年間で株価は11%上昇した。今後、より多くのスフィアの発芽を目指している。ロンドンは拒否した。韓国は交渉中、アブダビは実現しそうだ。

スフィアはエアコン付きの通路でベネチアン・ホテルと直結している。建物の外壁は、それぞれ48のダイオードで構成される120万のLEDが設置されているため、明るく輝く球状の看板としても機能する。要するに、丸い形をした広告スペースあるいは電子キャンバスだ。スフィアの内側は18,000席を備えたパフォーマンス会場で、その巨大なドームは世界最大かつ最高解像度のLEDスクリーンを兼ねている。サウンドシステムは16万個ほどのスピーカーで構成されているため、エンジニアは一人ひとりの観客に直接音を届けることが可能だ。シートを振動させたり、香りを漂わせたりすることもできる。オドラマとオルガスマトロンを融合させたようなものだ。

ドーランはレイ・ブラッドベリの短編小説「草原」からスフィアの着想を得たと公言している。この小説では、自宅にある仮想現実スクリーンに映し出される偽のサバンナのリアルさに夢中になった生意気な子どもたちが、両親を仮想ライオンに食べさせてしまう。ここではふたつの解釈が成立する。ドーランは人々の度肝を抜きたかったのかもしれない。あるいは父親であるチャールズ・ドーランから距離を置きたかったのか。

去年の秋、U2がスフィアのこけら落とし公演として、40回のライブを開催した。セットリストと視覚効果という点では、基本的にいつも同じだった。「すごい」といった声や「うらやましいだろう」的なコメントがソーシャルメディアを飛び交った。次にフィッシュが、それぞれセットリストと視覚効果の異なる公演を4回行なった。フィッシュ公演は、コンセプトも、ビジュアルも、アートのような何かと野心的に組み合わせられていて、バンドが大きな利益を上げるのは困難だろうと想像できたため、称賛の声はさらに強くなった。その次を飾ったのがデッド&カンパニーだ。24公演がスタートした。チケットの売れ行きは少し低調だったにもかかわらず、先月になって6回の追加公演が発表された。デッドヘッドたちは、砂漠で10回の週末と合計して1億ドル以上を費やした。

メイヤーとデッド&カンパニーはどちらもアーヴィング・アゾフがマネジメントを担当している。かつてチケットマスター社のCEOを務めていた業界の重鎮だ(アゾフのクライアントであるイーグルスがロックの殿堂入りを果たしたとき、ドン・ヘンリーが「アゾフは悪魔かもしれないが、われわれの悪魔だ」とコメントした)。U2もマネジメントしているアゾフは、マディソン・スクエア・ガーデンと事業提携を結んでいる。そして、デッド&カンパニーに続くスフィア公演にイーグルスを起用した。どうもこの「スフィア」期のデッド&カンパニーは、メイヤーとアゾフの巧みな合作であるように感じられる。

言い換えれば、長年つまずき続けてきたグレイトフル・デッドの音楽ビジネスへのアプローチ法を覆す意図があるように思える。偶然にも73年、イーグルスを担当する直前のアゾフは、デッドの運営に参加した。だが、1週間ももたなかった。「彼にはわれわれののんびりとしたライフスタイルが我慢できなかった」と、バンドのツアー移動を担当していたゲイル・へランドが文化史を扱うポッドキャスト「Good Ol’ Grateful Deadcast」で述べている。「彼はわれわれに比べてあまりにもLAだった。害もなければ、けがれてもいない。まさに、水と油さ」

5月、わたしはロサンゼルスのエル・レイ・シアターの壇上で、カナダ人小説家のレイ・ロバートソンと対談した。『All the Years Combine: The Grateful Dead in Fifty Shows(すべてのときを超えて:50のコンサートで振り返るグレイトフル・デッド)』というタイトルの本を書いた作家だ。しばらくおしゃべりしたあと、質疑応答が始まった。観客のひとりがこう尋ねた。「ジェリー・ガルシアはスフィアのことをどう考えたと思いますか?」。彼はスフィアを嫌っただろうと、ロバートソンは言った。金儲け、企業の利益、どちらも芸術の敵だ、と。

わたしは、「キリストならどう考える」的な憶測は好きではないのだが、ロバートソンほど確信はもてないと答えた。ガルシアはテクノロジー、映画、コンピューター、テレビ、グラフィックデザインが大好きだった。自らビジュアルアートも制作したし、早くからMacPaintを使っていた。そしてデッドは結成当初から繰り返しマルチメディア環境でパフォーマンスしてきた。60年代中盤はケン・キージー率いるメリー・プランクターズのLSDツアーとして知られるアシッド・テストのハウスバンドとして、デッドは光や音響あるいはサイケデリックな狂気が渦巻くなかで、まともな曲を歌ったり、でたらめなノイズを奏でたり、あるいは何もせずに突っ立ったりしたのだ。

その後、サンフランシスコのボールルームで披露した液体ライトを用いた演出から、バンドに長年奉仕し続けた照明エンジニアのキャンディス・ブライトマンが多くのアリーナやスタジアムで手がけた最先端のステージ照明にいたるまで、光のショーが主流になった。また、デッドは音響技術のパイオニアでもあった。したがって、最近のZoom越しでの取材でミッキー・ハートが使った言葉を借りるなら、「ロボット、とても賢いロボットの腹の中」で演奏する機会が得られたら、ガルシアは喜んだとも考えられるのだ(ハートは16年前にカジノ「ミラージュ」の模造火山の音響をデザインした。この火山は取り壊しが予定されている。コンサートのあった日には、ときどき変装して立ち寄り、最後の噴火を楽しんだそうだ)。

90年代後半、バンドは円形劇場とミュージシャンのホログラム演出を融合させた「テラピン・ステーション」という、スフィアと似ていなくもない常設の施設を構想したが、最終的には実現を断念した。それでもガルシアは、ツアー移動の辛さを和らげる目的で、半常設の施設をどこかにつくるというアイデアをずっと捨てなかった。ひとつのホールで30回のライブ。そこにアイスクリームがあれば、彼はきっと満足しただろう。

「いままで見たなかで、スフィアが最高だった」

わたしが初めてラスベガスを訪れたのは86年の夏、17歳のときだった。建前としては、カリフォルニアにある大学を見学したり、リノ近郊の農場でアルバイトをしたりするのが、西海岸へ向かった理由だった。「建前」と言ったのは、ベンチュラでグレイトフル・デッドに追いつき、マウンテンビューまで彼らを追いかけることが、具体的には、バンドの地元であるカリフォルニアで5つの公演を体験することが、本当の目的だったからだ。

ラスベガスへ飛ぶと、東海岸からクルマで先乗りしていた友人ふたりがわたしを空港まで迎えに来た。ゴールデン・ナゲットのカジノを数時間歩き回ったのち、深夜に西海岸へ向かった。わたしたちは全員、『ラスベガスをやっつけろ』を読んで心酔していた。エーテルもメスカリンもなかったが、ビールと質の悪い茶色い大麻と、自分たちを夜中に砂漠を疾走する反逆者とみなすロマンチックな感性はもち合わせていた。

バーストーのあたりで空腹に襲われ、デニーズに立ち寄った。ウェイターがどこへ向かっているのかと尋ねてきたので、ベンチュラでグレイトフル・デッドを見ると答えた。

「知らないのか?」と、ウェイターは言った。「ジェリー・ガルシアは昏睡状態にあるらしいぞ」。ガルシアはワシントンDCでのライブの数日後に倒れたのである。

ベンチュラ・カウンティ・フェアグラウンズの駐車場に到着したとき、夜明けの霧であたりは灰色だった。数十人のみすぼらしくて寂しげなデッドヘッドたちが徹夜をしていたが、ライブは中止となった。その夏の終わり、わたしは人生で初めて、デッドのカバーバンドを見た。

今回は木曜日の夜にラスベガスに到着した。携帯電話によると、その日は地球上で観測史上最も暑い日だった。ラスベガスでは、気温が40℃に達した。わたしがベネチアンに到着したとき、その週末の最初の公演が終わり、観客がスフィアから退場しているところだった(わたしは金曜日と土曜日のチケットを確保していた)。何千もの興奮した様子の熱狂的ファンが、カジノ・フロアの喧噪に吸い込まれていった。わたしは釣り師になったような気分で、その流れに逆らった。大ざっぱに言って、彼らは決して若くなく、エネルギッシュなタイプは少なかった。ドレッドヘアの若者よりも杖をついている老人のほうが多かったほどだ。人々の大半は中年で太り気味、昔は一般的だった自作のグッズではなく、どこかの店で買った、あるいはスフィア内で売られているファングッズを誇らしげに身につけている。だが、若い人もいた。最近興味をもった人や、ファンの家族たちだ。

観衆はほとんどが白人で、どう見ても裕福な人々だったが、これも、ここまでの旅費、宿泊費(ストリップ大通りにテントを張る人はひとりもいないと思えた)、チケット代などを考えれば当然だろう。チケットは額面価格にプレミアがついて200ドルから700ドルで取引されていた。ライブでの体験、場所の大きさ、スフィアからベネチアンへと続く宮殿のような廊下の長さに圧倒されて、人々は高揚しているというよりも、むしろくたびれ果てて呆然としているようにも見えた。わたしはまるで川の真ん中の大岩のように階段の上で立ち止まり、スマートフォンでその行列を撮影した。手を振る人も何人かいたが、中指を立てる人もいた。

カジノ・フロアの脇にあるバーで、わたしは自分と同年代の男性の横に腰掛けた。その人はサンドイッチとワインを注文していた。「ボストンから来たジョン」と名乗ったが、いまは環境汚染の浄化に携わる会社の幹部として南カリフォルニアで暮らしていると説明した。彼にとって、初めてデッドのライブは80年のボストン・ガーデンだった。うん、知っている。わたしもビデオで見た。「『He's Gone』から『Caution』へのメルトダウンがすごいんだ」とわたしは言った。ジョンは覚えていなかった。彼もすでに何回か、さまざまなスタジアムでデッド&カンパニーのライブを見たそうだ。スフィアでは最上階のシートに270ドルを支払ったが、音のいい場所を求めて動き回り、最終的には車椅子席で落ち着いた。「本当にすごかった」。彼は言った。「大麻を吸って、本物のマッシュルームも食べた」

ジョンの友人で69歳のマティ・Kはビデオポーカーで遊んでいた。医療技術会社を売却して余生を過ごしている人物だ。ふたりは数年前にカリフォルニアのあるバーで、テレビに映し出されるニューイングランド・ペイトリオッツの試合を眺めているときに出会った。両者には、マサチューセッツ州出身で、日差しの強いカリフォルニアに移り住んだという共通点があった。マティが初めてデッドを体験したのは、73年のボストン・ガーデンでのことだ。いまもラミネート加工したチケットの半券を財布に入れていて、そのチケットをトイレの前で見せると、まるでそれがVIPカードであるかのように、人々が彼を行列の先頭に立たせてくれた。

ガルシアの生前、マティは100回ほどライブに足を運んだにもかかわらず、「いままで見たなかで、スフィアが最高だった。おれは完全にしらふで、ビール1杯すらも飲んでいなかった。これまでのどのライブにも負けていなかった」と語った。わたしにとってバンドの黄金時代を知る者がそのようなことを口走るのは、バンドに対する冒涜にほかならない。しかし、わたしは以前にもメイヤーの熱狂的なファンに遭遇した経験がある。また、スフィアには、わたしが味わったことがないほどの説得力のようなものが備わっているのかもしれない。

ガルシア世界のあからさまなコモディティ化

わたしは旅に出る前、ラスベガスでは中年の人々が「ラスベガスをやっつけろ」的な混乱を引き起こしていると想像していた。デザイナーズドラッグ世代も、かつてのように激しい退廃に陥ると考え、ケタミン・ゾンビやフェンタニル汚染の発生を心配していた。フィラデルフィアから来ていた男性が、彼の友人がどこかに電話をかければ、20分以内に黒いゴミ袋に入った亜酸化窒素のボンベがホテルのロビーに届けられると言った。彼と複数の友人で、昨日の夜すでに部屋で1缶消費したそうだ。だが、その男性自身は電話番号を知らなかった。

実際のところ、この何もかもが完璧に分量調節された時代では、混乱は起こりにくい。チョコレート、カプセル、ミント、炭酸水、クッキー、カートリッジ。サンドイッチの具を除けば、あらゆるものに何かが注入されていた。誰もがおしゃべりになり、あるいは疲れ果て、ときには足元がおぼつかなかったが、幸い誰も階段を転げ落ちたり、バルコニーの手すりを超えて転落したりしなかった。また、こちらはむしろ残念だったのだが、誰もスロットマシンの列の上に飛び乗って裸で踊ったりもしなかった。

カジノフロアに面した「ルカ」というバーで、ウィンストン・セーラムで生命科学コンサルタント業を営むマイクという人物が、ビデオ・ブラックジャック・マシンに複数の100ドル紙幣を投入した。彼の妻で、押収処分された商品の管理に携わるステファニーが、夫婦でデッドのカバーバンド──ジャム・イン・ザ・サンドとダーク・スター・ジュビリー──や、ジャムグラス・ギターの名手であるビリー・ストリングスなどを見に行くと話してくれた(ストリングスは、デッドの曲をカバーするのを2年前にやめた。「乳首に群がってくる子ブタが多すぎる」と彼は書いている)。そのほかにも、わたしは個人的に、毎年冬になるとカリブ海のジャムクルーズで1週間を過ごし、きらびやかな衣装を着てさまざまなパウダーやピルを楽しみながら、ライブからライブへと移動するわたしと同世代の人も知っているし、コロナ禍以降は引退し、ジャム・バンドの追っかけに専念するようになった人も知っている。いわば、余暇と低い税金、ゴルフとバンド「グース」のある生活だ。

スフィアのそれは、ただのライブではなかった。それはいかにもラスベガス的なショーであり、コンセプトとストーリーと回顧で満ちていた。注目されて当然だった。そこにいたのはデッドでも、デッドの粗悪品でもなかった。生存メンバーが参加しているため紛らわしいのだが、むしろデッドに関するプレゼンテーションのようなものだった。南北戦争の様子を再現する際、本物「らしさ」を追加するために、ヴィックスバーグ戦を生き残った退役軍人を出演させるような、あるいは、ミュージカル『ビートルマニア』にリンゴ・スター本人が登場するような感覚だ。

街ではほかにも大きなショーが開催されていた。デッド&カンパニーのファンの多くも、ビートルズをオマージュした(リンゴ・スター抜きの)シルク・ド・ソレイユの興行や、シーザーズで行なわれたアデルのライブなどにも足を運んだ。メキシコのグアダラハラから来ていたジーナという女性は、アデルのライブ帰りにベネチアンのバーでデッド・ファンの群れに囲まれることになった。ジーナはヒューレット・パッカード社の幹部で、その週は会社が会議に使うためにスフィアを予約していた。しかも、デッド&カンパニー相手にプライベート演奏の契約も交わしていた。ジーナはあまり喜んでいなかった。「イマジン・ドラゴンズを呼ぶこともできたのに」

今回の連続公演は、「デッド・フォーエヴァー・エクスペリエンス」というポップアップ展示会の一環として開催された。この展示会はファンに、ブランドとしてのバンドへのディズニー的な没入体験を提供する。言ってしまえば、ガルシア世界のあからさまなコモディティ化だ。ベネチアンでの展示会の目玉は、広大で輝かしいバンド関連商品の売り場、そしてカーブする階段をのぼった先にある展示フロアだ。そこは博物館と見本市が融合したかのような場所だった。ポピュラー音楽の世界で、これほど豊かなアイコンをもつアーティストはほかにいないだろう。スケルトン、スカル、バラ、カメ、クマ、列車、ポーカー札、稲妻、加えて、おびただしい数のジェリー・ガルシア。右手の中指がないものも含めて、あらゆるガルシアがそこにあった。それらすべてが、店舗のあるいは神棚の材料となる。

わたしは午前の遅くに、エクスペリエンス会場に立ち寄った。下の階のバザールは賑わっていた。ある売り場で店員をしているケイティが、25ドルのデッド&カンパニー・マグカップの陳列を整えていた。彼女の見積もりでは、その売り場だけで一日の売上げはおよそ20万ドルとのことだった。「U2のお客さんよりも太っ腹ですよ」。彼女は言った。「みなさん、チケットがU2よりも安くて満足しているので、グッズにお金を使ってくれます」。そう言って、手の込んだ包装をしたポスターの筒を運んでいる2名の男性を指さした。「彼らはプロです。ポスターをたくさん買って、ネットで転売するんですよ」(転売行為を阻止する目的で、バンドはひとり一度に5枚までしかポスターを買えないようにしていた)。

上階の聖遺物の展示フロアは静かだった。壁の1面では、プレキシガラスの奥で、バンド公認の保管責任者であるデイヴィッド・レミューが所蔵する海賊版カセットが展示されていた。その横には、50年前のウォール・オブ・サウンドのスピーカー・アレイをもとに、コネチカット州の職人がつくったミニレプリカが設置されていて、そこからおそらくレミューのコレクションに含まれるノイズの多いカセットテープから集めたプレイリストが流されていた。ポスターの筒を握りしめた人々が、その前に立っていた。

展示フロアの一画に行列ができていた。お目当てはおしゃべりで好戦的な公演マネジャーとして知られるスティーヴ・パリッシュ。シリウスXMラジオとYouTubeで、ビッグ・スティーヴとしてトークショーの司会もしている(アミール・バーレフがグレイトフル・デッドを題材にして17年に制作した6部構成のドキュメンタリー『Long Strange Trip(長く奇妙な旅)』において、誰がバンドの主導権を握っているのかという永遠の疑問について、しわがれた声で「状況こそがボスだ」と述べているのがパリッシュだ)。彼は、ガルシアの末娘であるキーリンとボビー・ブラームズというニューヨークの実業家が立ち上げたジェリー・ガルシア・ウェルネス社が製造するCBDグミを宣伝していた(ブラームズはかつてわたしに、「わたしは検索エンジンの開発者だった」と語ったことがある。「Googleよりも先だった」と)。デッド&カンパニーについて、ブラームズは「何だか、母のいる実家に戻るような感覚がする。ただし、シーツは新しい」と語った。

ミッキー・ハートの描いた絵画のギャラリーもあり、色がダイナミックに渦巻いていた。別の壁一面には、カメラマンのジェイ・ブレイクスバーグと、ブレイクスバーグのもとで修行をしているボブ・ウィアーの娘クロエ・ウィアーが撮影したデッド&カンパニーのオーディエンス写真のコラージュ画が掲げられていた。ところどころ、有名人ファンの顔写真も見つかった。テレビ局「Bravo」の幹部であるアンディ・コーエン、テレビドラマ『一流シェフのファミリーレストラン』で便利屋を演じるマティ・マシソン、数週間前に他界した、おそらくデッド・ファンのなかでも最も目立つ存在であったバスケットボールスターのビル・ウォルトン。マーサ・スチュワートとフレイヴァー・フラヴは前週のライブでとった写真を投稿していた。フラヴはグッズを身につけていたが、スチュワートはつけていなかった。

近くには「アン・アメリカン・ビューティ」と題したコーナーへの入口があり、そこではブレイクスバーグとその娘が厳選したジェリー・ガルシア健在時代の写真が数百点展示されていた。ブレイクスバーグはスフィアでもライブの様子を撮影し、週末ごとに人々を集めては、写真展示場を案内していた。そこでは、時系列順にバンドのキャリアが明るく陽気に描き出されていた。わたしがそこに来たときは、ブレイクスバーグがある人に、メリー・プランクスターズのメンバーだったニール・キャサディが赤い革のブーツをはいている写真について説明していた(ブレイクスバーグは、初めてその写真を見つけたとき「思わず泣いてしまった」と語った)。まもなく50人を超える人々が彼のまわりに集まってきて、その説明に耳を傾けた。

62歳でニュージャージー州出身のブレイクスバーグは長い巻き毛が特徴的で、前面に「Owsley」とプリントされた(霞がかった)紫色のTシャツを着ていた。LSD化学者で、バンド初期の音響担当者でスポンサーでもあったオーズリー・スタンリーへのオマージュである。「わたしが、ここがわたしのいるべき場所だと悟った理由がわかりますか?」。彼は昔のツアーの話をしながら人々に問いかけた。「いまもまだここにいるのが何よりの証拠です! いまだに、あんた方変人たちの写真を撮り続けているんですから」。わたしは展示写真にいまよりももっと過激な姿で写っている変人たちの何人かと話した。まだ若造としてデッドのライブに通っていたころのわたしにとっては、彼らハードな連中は恐怖を覚える存在だった。

太鼓腹ではげ頭、65歳でカメラバッグを携えていたラッセル・レヴィーンは、76年以降、607回もデッドのライブを訪れたが、入場料を払ったことは一度もないと言う。82年、彼はライブ後にホテルに戻ったバンドメンバーのもてなし役を担当するようになった。「その経緯はこうだ。おれは大麻のディーラーだったんだが、ある夜、彼らがビールをきらしたんだ。すると、ボビー[ウィアー]がおれに、『二度とこんなことがあってはならない』と言って、ジェリー・ガルシアのアメリカン・エキスプレス・カードを差し出し、『ビールがきれることがないように、おまえが気をつけてくれ』と言ったんだ。クルーのなかには、バンドに対して完全なアクセス権を得て裏方ではなくなったおれに対して嫉妬するやつもいた。ライブの音源を欲しがる人々のために機材を持ち込んで、その見返りに彼らからコカインをもらって、バンドと分け合った」

92年時点で、彼は完全にドラッグに依存していた。「宿泊はもうホリデイ・インではなかった」。彼は言った。「マンハッタンのフォーシーズンズに寝泊まりしていたのに、おれは突然涙が止まらなくなったんだ。自分が世界で最も孤独な男だと気づいてね。コカインとアルコールの影響で、脳の配線がおかしくなっていた。聴衆が『ジェリー、ジェリー、ジェリー』と叫ぶと、『ラッセル、ラッセル、ラッセル』に聞こえた」。彼はデッドを去り、依存を断ち、いまはフロリダで依存症から立ち直ろうとしている人々をサポートしながら暮らしている。

レヴィーンの友人で1歳年下のR・Lはマドラスチェック柄のラルフ・ローレンのボタンダウン、白いショーツ、老眼鏡を身につけ、いまだに悪魔のような眉毛をしていた。ヘルズキッチン出身で、もとはコカインのディーラーをしていた。昔は、ツアーを見に来るコアなファンのなかで最もハードな連中よりもはるかに恐ろしいマンハッタンのギャング団「ウェスティーズ」とも付き合いがあった。「昔は、こんな写真ばかり撮るブレイクスバーグはFBIに違いないと思っていた」とR・Lは言った。彼は自分が訪れたライブ回数を最低700回と見積もった。3人目の悪人の名はイグナツ。立派な体格をしたイグナツがハーレーダビッドソン・ブダペストのTシャツを着て歩み寄ってきたことで、闘争史は重みを増した。彼らの立場からは、「フォーエヴァー・エクスペリエンス」はシーツが新しい実家というよりも、むしろ芝生が新しくなった戦場のようなものだった。

「本物と代替物の奇妙なミックス」

ほかのファンはまだ手遅れにならないうちに離脱し、生活を築き、そしていま、維持する価値があるかもしれないものに戻ってきた。ソニック・ユースという、一見デッドの真逆と思えるノイズ系バンドを結成したリー・ラナルドは、だいたい毎年、ハイスクール時代の友人である3人のデッドヘッドと集まるそうだ。今年はデッド&カンパニーを理由にラスベガスで集結した。74年の夏、ラナルドはVWバスを駆って大陸を横断し、カリフォルニアでデッドのライブを見た。「そのときもラスベガスに立ち寄ったが、あまり興味もなかったので、先を急いだ」らしい。

彼が最後にラスベガスを訪れてから12年以上が経つが、ここはひどい場所だと改めて感じたそうだ。かつて存在した怪しげな魅力の痕跡は、高級ショップや息苦しいモールで置き換えられてしまった。彼ら4人はシカゴの「Fare Thee Well」ライブも訪れたが、ラナルドにとってデッド&カンパニーは今回が初めてだった。ぱっと見たところ、メイヤーがこのバンドにはフィットしないと思ったからだ。「詳しいことはわからないが、断絶のような印象を覚える」とラナルドは言った。

彼らはルクソール・ホテルに滞在していた。砂漠をハイキングしながら、クルマでやってきた。売り切れとなった最初の公演である6月初めの金曜日に、スフィアのライブを体験した。「本物と代替物の奇妙なミックスだった」とラナルドは言う。「本物? それともメモレックス? という感覚だった」。メイヤーに関しては、「テクニカルな面で言えば、彼以上に演奏できるギタリストは多くない。でも、彼にはジェリーがもっていたソウルが完全に欠けている」。だが、ウィアーには魅了された。「ウィアーがステージ上で最も興味深い人物だった。彼は、おそらくミッキーもそうだけど、役を演じていなかった。いまとなっては、すべてが琥珀に包まれているが、このふたりだけは生きた音楽をやっていた」

ライブの2日後、ラナルドたちはストリップ大通り脇の駐車場で行なわれたロナルド・トランプの集会に向かった。とても暑い日だった。トランプはサメとヘビの話をした。彼らは、集会参加者のなかにデッドのTシャツを着ている人がいないのを見て、どことなく安心したそうだ。

デッドのことを記事に書くな

12年前にこのページでデッドとその遺産について記事を書いたわたしに対して、デッドの熱烈なファンで、かつてバンドとビジネス上のつながりもあった友人が、もう二度とデッドのことを記事に書くな、バンドと職業的なつながりをもつなとアドバイスした。仕事と趣味をごちゃ混ぜにすべきではない、と。しかし、どうしても引き寄せられてしまうわたしは、何度もこのテーマに立ち返り、ライナーノーツを書き、ポッドキャストやラジオで言及し、アンソロジーにエッセイを投稿した。ほかのどの仕事よりも、『Long Strange Trip』のスクリーン上でコメントしたことが、世間でわたしを知る人が増えるきっかけとなった。「あなた、あの男でしょ!」が増えた。

そうしていままでやってきた。だが、「あの男」はそろそろ前に進まなければならないのかもしれない。おそらくいまのわたしは、コンテンツクリエイターとして生まれ変わり、何らかのかたちでグレイトフル・デッドをビジネスにして利益を得ている長年のファンのひとりに過ぎない。乳首に群がっているのは、ミュージシャンだけではないのだ。

「規制の虜」と呼ばれる現象も生じている。デッドはリーダーのいないグループとされていたが、政治は絡んでいたし、いまでは才能とマネジメントに対する敬意が、暗い影を落とすようになった。誰も自分の立場を危険にさらしたくない。金とステータスはあまりに大切だ。内部の誰かが突然ハブられたとか、追放されたなどという醜い話も聞こえてくる。業界の重鎮たちと、自己中心的なロックスターのどちらのほうが情け知らずなのか、わからないほどだ。ゴシップを信じるなら、彼らの妻がいちばん厄介なのかもしれない。そうしたことすべてに落胆せずにいるには、音楽を本当に愛していなければならない。

しかし、フィッシュのギタリストで、9年前に偽デッドでジェリーの代わりを務めていたトレイ・アナスタシオが『Rolling Stone』で最近コメントしたように、「過去への郷愁だけ」では、音楽を愛したり守ったりする根拠として弱すぎるのだ。古いファンたちが今回の再現プロジェクトに興奮しているのは、本人たちが意識しているかどうかはわからないが、嗜好だけでなく商業性も大いに関係しているような気がする。これはあくまで褒め言葉として言うのだが、ステージ上で最も笑顔が少ないのがオリジナルメンバーのふたりであるというのが、その証拠だろう。メイヤーらほかのメンバーが発散する満足感は、どうもパフォーマンスめいていて、自己満足的に感じられる。まるで、第7シーズン第1話の放映開始を宣伝する登場人物たちの集合写真のようだ。

スフィアの巨大な胎内へ

スフィアは、死ぬまで楽しみ続けたいという人間の欲求を、最先端技術を用いて実現するためにつくられた忘却の巨像だ。いわば、巨大なVRヘッドセットであり、ファーザー・ジョン・ミスティの歌詞を借りるなら、「永遠に続く完全なエンターテインメント」を実現するためのもの。脂肪をまとい、うっとりとした表情を浮かべながら、映画『ウォーリー』の宇宙船内の移民のように仮想空間を漂うわたしたちは、すべてが消えてなくなるまで、サウンドと映像で自らの感覚を混乱させる。

50年前、ロバート・ノージックという哲学者が、「経験機械」という思考実験を考案した。ある機械に接続すれば、脳の快楽中枢が刺激され、自分にとって最も楽しいと思えるものの幻想を死ぬまで、あるいはそれ以上味わえると想像してみよう。その場合、プラグを抜こうとする者がいるだろうか? そんな機械があるのなら、ぜひ実験台になってみたいものだ。

わたしの昔からの親友は不動産金融業界で働きながらデンバーで暮らしている。パンクロック好きで、デッドは71年からつまらなくなったと言いながらも、ライブには欠かさず足を運んできた。ライブが始まる1時間前、わたしたちはべネチアンから続くカーペットを敷いた廊下を歩き、数分だけ外の暑さに身をさらして、いよいよ球体の中に飛び込んだ。その場所の大きさにはどことなく神に対する冒涜も感じられたが、薄暗い照明で照らされたスフィアの巨大な胎内にエスカレータで続々と運び込まれてくる何千もの人々の熱気には伝染性があった。「映画『タワーリング・インフェルノ』を思い出す」と親友が言った。わたしたちはいちばん上まで行き、その空間の大きさを眺めた。スタンドの傾斜は、昔のヤンキースタジアムにあった断崖のような上階席を彷彿とさせた。まもなく、わたしたちは席を見つけ、25ドルのクラフトビールを手に、どこか疑いを覚えながらも、おなじみのワクワク感を味わった。7時35分、ホッケーの試合のように、時間きっかりにバンドがステージに登場した。

巨大なスクリーンにスフィアの骨格らしきものが映し出され、砕け、継ぎ目が稲妻の形になり、アシュベリーストリート710番地の映像に場所を譲った。サンフランシスコ・ヘイト地区にあったデッド最初の本拠地だ。視点が上昇してサンフランシスコの街と港を俯瞰し、大気圏を抜けて宇宙へと出た。それは、かつてのツァイス・マークⅣダブルエンド投影機を備えたプラネタリウムが映し出した壮麗さをしのぐほどの天空ビジョンだった。そうした視覚効果はおもにメイヤーが考えた非常に漠然としたストーリーにもとづいて、インダストリアル・ライト&マジック社が制作した。それらのほぼすべてがソーシャルメディアに出回っている。

だが、ライブのスピリットみたいなものが伝わった往年の観客収録の海賊版音源とは違って、スマートフォンで撮影した巨大な球体の断片と、その下でノミのサーカスのように映るバンドを眺めたところで、現場で感じる天空のごとく壮大なスケールと驚きは伝わらない。セットとセットの合間に映し出された淡いオレンジ色の輝きでさえ、まるで火星で夕暮れを眺めているようで、じつに美しかった。

そうしたアイコンのすべては、スフィアの壮大さを際立てる素材だ。それらの多くはありきたりで、無数のクマが踊りながら渦を巻くシーンなど、ダンシング・ベアが嫌いなわたしたちにとってはまさに悪夢だったが、ありきたりな要素がずうずうしさのおかげでよみがえったケースもあった。墓場から這い出てきたスケルトンがチョッパーにまたがり、奇怪な風景の中を疾走するシーンなどだ。

「グレイトフル・デッドの正典とは何かと考えるとき、音楽的な正典と同時に、視覚的で美的な正典も意識にのぼる」とメイヤーは『Variety』誌に語ったことがある(彼は正典の代わりに「ルックブック」と呼ぶこともあった)。演奏するバンドメンバーの様子をばかばかしいほどの倍率で撮影した映像も出回っていて、それを見た人は、見なければよかったと思うかもしれない。世の中には、見るよりも聞くほうがいいものも存在するのだ(イーグルスがやってきたら、もっと恐ろしいことになるかもしれない)。ミュージシャンたちは、カメラに映えるように黒とグレイの服を着ていた。カラーを担当するのはスフィア側だ。

曲が続いた。曲によって特定の視覚効果が伴うため、デッドがこれまでやってきた多くのライブとは異なり、視覚効果がセットだけでなく、各曲の長さも決めていた。多くのバンドにとってはすでに慣れ親しんだ制約なのだろうが、デッドにとっては想像を絶する拘束だ。それでも彼らは見事にやってのけた。演出は厳格に決まっていたが、それでもなお、音楽は生き生きとしていて、即興的で、うまく絡み合っていた。勢いのあるジャムセッションに、夜の砂漠の風景が重ねられる。これはバンドが78年に行なったエジプト・ツアーを示唆しているのだ。月明かりの下、270度に大きなピラミッドが並び、スフィンクスの影の下でコウモリが羽ばたいた。次に、深紅のベゴニアが咲き乱れるなか「Sugaree」が披露され、メイヤー・ファンたちが喜んだ。「目立ちたがり屋が」と、わたしの後ろにいた男性がののしった。

「もっと目立て」と別の人が返した。

観客の問題児たち

ファンのあいだでは、ライブの最中におしゃべりすることは「チョンピング」と呼ばれている。わたしの経験では、チョンピングする人は最近特に増えていて、同時に、それに文句を言う人も増えている。

同じ夜、こんなこともあった。わたしの後方で30代ぐらいの若い女性がふたり、けっこうな音量で結婚式について話していた。「China Doll」、「Terrapin Station」、「Dear Prudence」などといった繊細な曲のときに、特に気になった。ミッキー・ハートが担当する「Drums-Space」と呼ばれるパートは、サブウーファーの力強さ、激しいパーカッション、そして巨大なスクリーンに映し出された回転する万華鏡の効果が相まって、おそらくその夜でも最も魅惑的な時間だったのだが、その最中もおしゃべりが続いた。「Drums-Space」の演奏が続くなか、わたしは彼女らのサンダルについていくつかの情報を得た。ライブの終わり近く、ガルシアが最も輝く曲のひとつだった、核戦争後をテーマにしたボニー・ドブソンのフォークソング「Morning Dew」の最も静かな部分で、ふたりは夏の予定について話していた。こいつらはいったい何者だ?

「そんなことはどうでもいい」と、ガルシアほどの重みは備わっていない気の抜けた言い回しでウィアーが歌っている。いや、どうでもよくはない。わたしの横に座っていた男性が女性たちに顔を向けて、静かにしてくれとやさしく頼んだ。わたしも半分ほどそちらのほうを向き、両手のひらを下に向けて、ジェスチャーで静かにするよう求めた。

「何、聞こえないわ!」。女性のひとりが叫んだ。

「わたしたちはライブを楽しんでるだけよ!」と、もうひとりが言った。

「あなたたち何? ライブの風紀委員?」

「ここはオペラじゃないのよ!」

その曲の残り時間、視点が宇宙から地球へ、ベイエリアへ、そしてアシュベリー・ストリート710番地へと戻るなか、彼女らはわたしたちの後頭部へ向けて悪態を吐き続けた。彼女らの怒りが赤道直下の太陽のように、わたしのはげ頭を焦がした。雰囲気は最悪だった。

次の夜の問題児は酔っぱらった男たちだった。ゴルフ、ブラックジャック、ウィンホテルのプールなど、テーマは昨日とは違っていたが、昨日と同じで抵抗する手段は限られていた。ドームが暗かったことが原因だろうか? それとも、サウンドがクリーンで、ほぼ完璧だったため、逆におしゃべりがしやすかったのだろうか?

じつは、チョンピングは感染性のあるウイルスで、研究室から漏洩したのかも? 食べ物から来ている? それとも、マナーが悪くなった? 公共の場でスクリーンの映像を大音量で眺めている人々が頭に浮かんだ。誰もが聞かなくてもいいことを聞き、聞くべきことを聞けずにいる。

目と耳にとって極上のごちそう

「どうだった?」折り目など一切ついていないきれいな状態のスフィア公演最終週のシートマップを見つめながら、ライブへ行かなかった仲間たちが、この気難しい野郎の評価を聞きたがった。すごかったと、わたしは言った。スフィアは最先端のコンサートホールで、エンジニアリングとテクノロジーの奇跡であり、目と耳にとって極上のごちそうだ。これまで見てきたものとはまったく異なり、まさにライブエンターテインメントの新しい最前線で、2夜ともに、サウンドとスクリーンのコンビネーションがあまりにすばらしいため、デッド・ファンですらない人々にさえ電話して、編集長がわたしに言ったのと同じ言葉を伝えたいと思う瞬間が何度かあった。「行け!」と。だがそうしなかった。2日目の夜が終わりに近づくにつれて、感動は弱まり、大きなスクリーンにも慣れつつあった。音楽そのものに集中すると、セントラルパークでわたしに何が幸せかと尋ねてきた女性のことを思い出した。永遠に生き続けるものは存在しない。

だが、カジノのカーニバルのようなムードを、止めどない陽気さを、余分な酸素を、ムッとするタバコの煙を、誰が憎めるだろうか? ほかの客たちとともに、友人とわたしは、どんなライブなら、この会場を埋め尽くし、しかもこの目を見張るような装置を野心的に活用できるだろうかと考えた。トゥール、メタリカ、ビヨンセ──候補者リストは短かった。午前3時、隣のウィン・ホテルで、サングラスとベースボールキャップを着用してカードテーブルに座っているレブロン・ジェームズに遭遇した。友人が横に腰掛けようとしたが、セキュリティスタッフに止められた。「ジェームズは“戦争”というカードゲームをしていた!」と、友人は言った。

翌朝のフライトもファンでいっぱいだったが、今回は熱狂ではなく疲労が支配していた。見た目では、誰がギャンブルで数千ドルを失ったのか、あるいは笑気ガスを吸ったのかを言い当てるのは難しい。資産は減り、経験が増えた。飛行機は模造品ではなく本物のグランドキャニオンの上空を、数時間後には夕暮れのニューヨーク上空を飛んだ。それなのに、乗客の誰ひとりとしてブラインドを上げて見ようとしなかった。

ニック・パウムガーテン|NICK PAUMGARTEN
2005年から『The New Yorker』誌のスタッフライターを務めている。以前は『Talk of the Town』の編集員だった。政治、経済、芸術、音楽、食、テクノロジー、登山、スポーツ・トークラジオ、エレベーター、ボクサー兼バーテンダー、通勤者、カヌーなど、幅広い話題について寄稿してきた。

(Originally published on The New Yorker, translated by Kei Hasegawa/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)

※『WIRED』による音楽の関連記事はこちら。


Related Articles
article image
米津玄師 6th ALBUM「LOST CORNER」の発売を記念して東急プラザ原宿「ハラカド」にて行なわれた「LOST CORNER AR LIVE in HARAKADO」。同プロジェクトの成功をテック面で支えたのが、VPS(Visual Positioning System)という技術の存在だ。
article image
Perfumeのステージでのパフォーマンスをリアルタイムに空間ごと“伝送”し、リアルとバーチャルが融合したライブ配信を実現する──。NTTの最新技術を用いた驚きの実証実験は、いかにして実現したのか。その奇跡のパフォーマンスは何を歴史に刻んだのか。Perfumeの3人をはじめとする立役者たちが『WIRED』に語った。
article image
21世紀に創作されたラップやポップミュージックを聴いたことがあるなら、“プラグインの教祖”がつくった最も有名な作品「Tribe」の金属的なパーカッション・サウンドを耳にしたことがあるに違いない。ジョン・レームクールへのインタビュー。

雑誌『WIRED』日本版 VOL.54
「The Regenerative City」 好評発売中!

今後、都市への人口集中はますます進み、2050年には、世界人口の約70%が都市で暮らしていると予想されている。「都市の未来」を考えることは、つまり「わたしたちの暮らしの未来」を考えることと同義なのだ。だからこそ、都市が直面する課題──気候変動に伴う災害の激甚化や文化の喪失、貧困や格差──に「いまこそ」向き合う必要がある。そして、課題に立ち向かうために重要なのが、自然本来の生成力を生かして都市を再生する「リジェネラティブ」 の視点だと『WIRED』日本版は考える。「100年に一度」とも称される大規模再開発が進む東京で、次代の「リジェネラティブ・シティ」の姿を描き出す、総力特集! 詳細はこちら。