原爆の日 核廃絶への「願い」と「現実」との狭間で。
「原爆の日」も、時代とともに変わってきたなぁ、と思う。
原爆被害者への黙祷を捧げた後に「核抑止力」を唱えた田母神氏の講演の外では、「核武装発言糾弾」のシュプレヒコールを、静かに黙祷を捧げる広島市民を無視してまでも、高らかにあげた人たちがいた。
秋葉広島市長の「田母神講演の日程変更要請」は、自身が被爆者である日本会議の中尾建三氏は「この日だからこそ意義がある」という反論をもたらした。
麻生発言は、原爆被害者からすれば、聞くに堪えないものだとは思うが、日本を取り巻く環境は、残念ながら原爆被害者の感情など考慮しない。麻生発言は、残念だが正解である。
単に「核兵器をなくせ」だけで核廃絶が実現するなら、北朝鮮やイランの核開発どころか、米ソの核開発競争すらなかっただろう。
本当に核廃絶を望み、その道に進むのであれば、麻生首相の「現実をそのまま述べた」発言をベースに、それを出発点にして、核廃絶へのプロセスを構築する以外にない。
現在の核保有国は、「核兵器製造技術」を持ってしまった。
一時的に核を全廃したとしても、材料と財源があれば、秘密裏に作ることができることを意味する。
6カ国協議のテーマは「核とミサイル」である。『核抑止力などない』と唱える人がいるが、本当に核抑止力が妄想ならば、北朝鮮が核ミサイルを何発持とうが、6カ国協議など開催する必要もないし、国連の非難決議もいらない。いや、それ以前に、核開発すらやらなかったであろう。
つまり、『核抑止力は妄想である』ことが事実ならば、絶対に起こり得なかったことが、今の国際政治では起こっているのである。
人間は感情の生き物である。
しかし、あまりに感情に走り過ぎて失敗した例を、日本は1945年の8月に経験したはずである。
日本で最も戦争を嫌悪し、日本で最も争いのない世の中を切望している人たちが、日本で最も「感情先走り」の思考プロセスを抱いているというのは、歴史の皮肉なのかも知れない。
原爆被害者への黙祷を捧げた後に「核抑止力」を唱えた田母神氏の講演の外では、「核武装発言糾弾」のシュプレヒコールを、静かに黙祷を捧げる広島市民を無視してまでも、高らかにあげた人たちがいた。
秋葉広島市長の「田母神講演の日程変更要請」は、自身が被爆者である日本会議の中尾建三氏は「この日だからこそ意義がある」という反論をもたらした。
麻生発言は、原爆被害者からすれば、聞くに堪えないものだとは思うが、日本を取り巻く環境は、残念ながら原爆被害者の感情など考慮しない。麻生発言は、残念だが正解である。
単に「核兵器をなくせ」だけで核廃絶が実現するなら、北朝鮮やイランの核開発どころか、米ソの核開発競争すらなかっただろう。
本当に核廃絶を望み、その道に進むのであれば、麻生首相の「現実をそのまま述べた」発言をベースに、それを出発点にして、核廃絶へのプロセスを構築する以外にない。
現在の核保有国は、「核兵器製造技術」を持ってしまった。
一時的に核を全廃したとしても、材料と財源があれば、秘密裏に作ることができることを意味する。
6カ国協議のテーマは「核とミサイル」である。『核抑止力などない』と唱える人がいるが、本当に核抑止力が妄想ならば、北朝鮮が核ミサイルを何発持とうが、6カ国協議など開催する必要もないし、国連の非難決議もいらない。いや、それ以前に、核開発すらやらなかったであろう。
つまり、『核抑止力は妄想である』ことが事実ならば、絶対に起こり得なかったことが、今の国際政治では起こっているのである。
人間は感情の生き物である。
しかし、あまりに感情に走り過ぎて失敗した例を、日本は1945年の8月に経験したはずである。
日本で最も戦争を嫌悪し、日本で最も争いのない世の中を切望している人たちが、日本で最も「感情先走り」の思考プロセスを抱いているというのは、歴史の皮肉なのかも知れない。