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2011年10月19日水曜日

新・平成歌謡塾で恥ずかし歌唱タイム・・10月23日

毎週日曜日の朝6時55分〜7時25分という、ものすごい時間にBS朝日で放送中の『新・平成歌謡塾』。ま、毎週観てるひとはいないでしょうが、ずいぶん前にこのブログで、この番組にゲスト出演したジム・オルークの『矢切の渡し』を覚えているひともいるのでは。


鏡五郎の「なみだ川」や北原ミレイの「新宿海峡」、そしてなにより「浪花節だよ人生は」(木村友衛ほか)で知られる台作曲作詞家の四方章人先生をコーチに、アマチュアのカラオケ好きとゲストがみっちり歌のレッスンをつけてもらうという、シリアスな歌番組。それに、あろうことか僕も呼ばれてしまいました・・・。レッスンをつけてもらったのは美川憲一の『お金をちょうだい』。もう、単なる羞恥プレイでしたが、担当してくれた方が「どうしても告知してくれ!」と言うので、やむをえずお知らせします。ま、ぜったい起きれないと思うので、気にしないでください。

厳しいレッスン風景

四方先生(左)、山本あきさん(右)と

ちなみに収録当日、レッスン・アシスタントを務めてくれたのが山本あきさん。実は2008年に月刊『カラオケファン』誌で、お宅までお邪魔して取材させてもらった若き人気歌手です。ものすごくフレンドリーな人柄が、そのまま顔に出てますが、東京に出てきていらい、ずっと暮らす大田区の御嶽(おんたけ)商店街ではアイドル的存在。街を歩くと、有線からも彼女の歌が流れてきます。こちらの記事もずいぶん前に出たきりで、単行本にも未収録なので、この機会に読み直していただけたらと思い、ここに再録します。よろしければ、彼女の歌もどうぞ!


東京の下町のはずれの小さな駅で待ち合わせしていたら、商店街の有線放送から演歌が流れてきた。わざわざ改札口まで迎えに来てくれた山本あきさんに聞いてみたら、「あ、これ、あたしの歌なんです!」 えーっ、商店街で自分の歌が流れてるんですか、すごいですねぇ、と感心したら、「もう3年もここに住んでるんで、みなさん顔なじみで、バイトもここでやってたし、お腹すいたらお蕎麦屋さんで食べさせてもらったり、最高ですよー」と、かわいらしく笑ってる。石川県鶴来町(現・白山市)に昭和53(1978)年に生まれ、2004年にプロ歌手目指して上京した彼女が、いまでは東急池上線御嶽山の歌姫だ。

 ワンルームのわが家で夢を語るあきさん

本のセレクションにも感心

お父さんはサラリーマンだけど週末は手品師!、お母さんも地元でプライベート盤を出す演歌歌手という恵まれた(?)家庭環境に育ち(ちなみに芸名はお父さんが「マジカル功」、お母さんが「港あかり」)、”あき”という名前もお母さんが大好きな八代亜紀から取った(「あっ、姉の”まり”も天知真理さんからなんです」)、ある意味、歌手になるべくしてなったという感じの山本あきさん。小学生のころからチビッ子歌番組に出場するなど音楽への道を順調に歩み、中学校2年生にしてロックバンドを結成。ドラムスとヴォーカルを担当して、プリンセスプリンセス、リンドバーグあたりの曲とオリジナルをまじえて演奏するようになった。
高校に入るとクラスメイト4人で作ったバンドで、今度はギターとヴォーカル担当。「あたしはそのころから、音楽で生きていく!って気持ちだったんですけど」、ほかのメンバーが「卒業したらやっぱり就職」みたいなことになって、高校卒業と同時にバンド解散。それからはひとりでアコースティック・ギターを抱えて、金沢のライブハウスで歌うようになった。
「正直言って、演歌なんてダサい」と思っていたロック少女が目覚めたのは、金沢市役所が音頭を取った町おこしイベントで、一日だけ”流し”をやってみないかと誘われたのがきっかけ。流しならロックじゃなくて演歌だろうと、ライブハウスの人が演歌のスタンダードを選曲したテープを作ってくれて、美空ひばりの『悲しき口笛』や美川憲一の『柳ヶ瀬ブルース』などといっしょに入っていた藤圭子の『夢は夜ひらく』を聴いたら「涙が止まらなくなっちゃったんです」。すでに自分も20歳になっていて、子供のころは20歳になったら自分の夢は叶ってるもんだと信じ込んでたのが、ぜんぜん叶ってない。そんな自分と「15,16,17と あたしの人生暗かった」という歌詞が重なっちゃったんですね・・と当時を振り返ってくれたが、ライブハウスの人の選曲もよかったんですねえ。
イベントは一晩だけだったけれど、予想もしていなかった反応の強さに演った本人が驚き、「おもしろくなっちゃって、それから3ヶ月ぐらい流しを続けました」。
それまで毎月出演していたライブハウスでは、別にお客さんが聴いてくれなくても、自分が歌いたい歌をそこで歌っていられればいいと思っていたのが、焼鳥屋のカウンターで目を瞑りながら聴き入ってくれるおじちゃんとか、スナックの片隅で自分の歌に涙を流してくれて、「ねえちゃんなら絶対、歌手になれるから! 応援するから、ときどき来てや」って言ってくれた人とか、「そんなふうに喜んでくれる人たちを見た瞬間、あたしはこういう世界で生きていこうって決めたんです!」
地元のテレビや新聞で記事になった”流しの少女”のことを見て、お母さんの歌友達が作曲家の聖川湧先生を紹介してくれ、月にいちど金沢に教えに来ていた先生にレッスンをつけてもらうようになった。
石川県のお隣の富山県に生まれて、小学生の時に両親が離婚、さらには父親の失踪で天涯孤独の身となって、18歳で金沢のヘルスセンターの専属バンドから音楽活動をスタート。苦労の果てに香西かおりの『雨酒場』や成世昌平の『はぐれコキリコ』で作曲家として大成功した聖川湧という格好の師を得て、ひたすら発声練習に励みつつ、「焼き肉屋さん、お弁当屋さん、喫茶店…食費を浮かせようと思って食べ物屋さんばっかり選んで」バイトしながら、3年かかって上京資金を貯めた。それで先生が来てくれたカラオケ大会のとき、打ち上げの後に、「やってだめなら仕方ないけど、やらずにダメというのでは悔しいから、最後のチャンスだと思って東京に行きたいんです。発声練習でもいいので、先生の近くに居させてください。お金も貯めましたし、近くに来月からアパートも借りちゃいました。お願いします!ってお願いしたら、先生、ぽかーんってされちゃったんですけど、いつかはそう言われるかって予期もしていたみたいで」。
「実はそのとき、まだお金も足りなかったし、アパートも借りてなかったんですけど」(笑)、急いで先生のお宅のそばに部屋を探して、「行ってらっしゃい!」と送り出してくれた家族のもとから東京にやってきたのが2004年のこと。それからは「もう、朝5時からお昼の12時半まで商店街のコンビニでがっつりバイトして、2時から先生のところで夜までレッスン、長いときはお酒のお付き合いで夜中2時頃まで帰れなかったりして、先生のお話聞いてるつもりが、目が開けてられなくて・・なんてこともありました」というハードなトレーニングの日々が始まった。
上京して半年たった2005年4月26日に、キングレコードのオーディションに合格。ところがなかなかデビュー曲が決まらず、『哀しみ模様』でデビューできたのが2006年6月21日。キングレコード創立75周年記念新人として全社的なバックアップ体制のもと、同年末には“第48回輝く!日本レコード大賞”で新人賞を受賞することになるのだが、オーディション合格からデビューまで1年2ヶ月も待たなくてはならなかったのは、「もしかしたら白紙に戻っちゃうんじゃないかって、悩みに悩んで。小さな部屋で、友達も身内もだれもいないし、ちょっと精神状態おかしくなりました」。
プライベート盤を出している演歌歌手だけで200人以上いるという、石川県はかなり音楽が盛んな土地。そういうところから、みんなに応援されて送り出されて、「もう戻れない!」みたいな気持ちでがんばってきたから、デビュー後に全国をキャンペーンで回って石川県に行けたときには、ほんとうにうれしかったそう。
1年後の2007年5月には2枚目のシングル『幸せの行方』が発売されて、現在はそのキャンペーンで大忙しの毎日。もう早朝バイトはないけれど、「休みの日があると、この町から出たくなくて。銀行もジャスコも、薬屋さんも病院も歯医者さんもあるし、ちょっと遠くも自転車があるから、東京じゃなくて鶴来町みたい!」と笑う、地元密着マインドは変わらない。そんなふうに自然に毎日を送れて、いま大好きな演歌と、昔大好きだったプリプリみたいなロックと、いつかコンサートでも自然にあわせて歌えるようになれたら、いいですねえ。

2011年9月7日水曜日

『演歌よ今夜も有難う』特設サイト、リニューアル!


すでにツイッターなどでご存じの方もいらっしゃるでしょうが、『演歌よ今夜も有難う』発売にあわせて平凡社で設けていた特設サイトが、JASRACからのお達しにより、継続できないことになってしまいました。

本書の中で取り上げた17人のアーティストは、いずれもインディーズ演歌歌手として活動を続けてきたひとびとです。ロックやヒップホップなら、大きなCDショップに行けば「自主制作盤コーナー」があるし、インディーズの取次会社もあるので、自分たちでCDさえ焼いてしまえば、日本全国に流通させることが可能です。

しかし演歌の場合は、タワーレコードのような大手CDショップはもちろん、どんどん数を減らしている昔ながらの演歌専門レコード店でも、基本的に取り扱ってくれることはありません。つまり演歌の世界でインディーズであるということは、自分でカネを出して作ったCDやカセットテープを、ほとんどすべて手売りで捌かなくてはならないという事実を意味します。

キャンペーンで回るカラオケ喫茶やスナックや、健康ランドやお祭りのカラオケ・コンテストで、あるいは路上で(!)ステージを終えたあと、汗をぬぐう暇もなく両手いっぱいにCDやカセットテープを抱え、お客さんのあいだを笑顔で歩き回り、握手の手を差し出し、頭を下げつづける演歌歌手たちを、僕はどれくらい見てきたことでしょうか。


『演歌よ今夜も有難う』という本をまとめたのも、そんな厳しい現実を「歌の持つチカラ」だけを信じてサヴァイヴしている彼らの生きざまを、ひとりでも多くのひとたちに知ってもらいたかったからですし、出版社に特設サイトを作ってもらったのは、そんな彼らの歌が、ほかの音楽作品のように店で買えたり、ダウンロードすることが基本的に不可能だからです。自分のウェブサイトも、ブログすら持っていない年配の歌手がほとんどですし。

このサイトには、インタビューさせてもらった17人すべての歌手たちが賛同してくれ、こころよく音源や動画を提供してくれました。でも、そんな彼らの思いはJASRACには通じなかったようで、音源をアップしたサーバーであるyoutubeの画面を、特設サイト中に直接貼るのであれば、歌手がなんと言おうが、JASRACに規定の料金を払え、ということでした。

しかし、よく話を聞いてみると、youtubeの画面をサイトに貼るのではなく、リンク先を表示するだけなら、推奨はできないがオーケーということなので(そこにいったい、どんな違いがあるんでしょう!)、急遽新しいサイトを自分で作ってみました。インディーズ演歌に興味を持ってくれたみなさまは、ぜひこちらのサイトで彼らの、ときに拙い、ときに熱すぎる、でもひたすらまっすぐな歌声に耳を澄ませてください。そしてそれが少しでもこころにひっかかったら、本書でそのソウルフルな人生を知ってください。


2011年8月11日木曜日

みどり・みき@なかの小劇場

8月5日、なかの小劇場において開催された、インディーズ演歌歌手たちの競演コンサート。『演歌よ今夜も有難う』に登場してくれた「エノケソ」さんなど、おなじみの顔ぶれが揃いましたが、なかでも表紙を飾ってくれた「みどり・みき」さんの絶唱が、あまりにすさまじかったので、youtubeにアップしました! ふだんにも増しての咆哮に、満員の観客も驚愕、騒然。このリンクからのみ視聴可能です。これぞ演歌という名のソウル・ミュージックかも! 



書中に登場する17人、すべての歌手の音源はこちらで視聴可能!
http://blog.heibonsha.co.jp/enka/



2011年8月3日水曜日

『演歌よ今夜も有難う』特設音源サイト開設!



先週まで平凡社のブログ上でお送りしてきた、『演歌よ今夜も有難う』の登場インディーズ歌手たちの音源紹介。このほど17人全員の音源(ひとによっては動画もあり!)をまとめてチェックできるサイトを用意しました。


レコード店でも買えないし、ましてやダウンロード販売もなし、入手方法はキャンペーン、ライブ会場での手売りのみという歌手さんたちがほとんどなので、これははっきり言って貴重なサイトです! ロックやヒップホップに負けないインディーズ魂にあふれた熱唱を浴びながら、本に収められたインタビューを読んでもらえれば、効果倍増。笑って、泣いて、勇気をもらってください!


そして緊急お知らせ! 8月5日の金曜日、午後1時半から中野サンプラザ・・の向かいの「なかの芸能小劇場」というすごく小さなホールで、インディーズ演歌歌手たちが出演するイベント「お笑い演芸寄席」が開催されます。

出演は、いか八郎! エノケソ! みどり・みき! 他豪華ラインナップ(ある意味)。僕もちょっとだけトークやらされる予定・・涙。金曜の昼間、お暇な方は、のぞいてください。入場料わずか1000円ですし! http://t.co/evEyyVA

2011年6月30日木曜日

青山ブックセンター六本木店でトーク:7月13日(水)

『演歌よ今夜も有難う』刊行を記念して、きたる7月13日、水曜日の午後7時から、青山ブックセンター六本木店でトークをやります。


「都築響一ワイドショー」なる、恥ずかしい名前のついたこのトーク・シリーズも、今度で7回目。いつものように、売り場の一角を片づけてのトークなので、ちょっとしかない椅子は早い者勝ち! すでに予約はスタートしていますので(詳細は以下の、お店のサイトを参照ください)、できればご予約の上、余裕を持ってご来店ください。


お会いできるの、楽しみにしています。

また先週お知らせしたように、版元・平凡社のブログでは、平日毎日更新で、書中に登場してくれたインディーズ演歌歌手たちの曲と画像(動画もあり!)を紹介中。アマゾンやiTuneでは買えない音源も多いので、こちらで歌声に浸りながら、本を読んでいただけるとうれしいです。

2011年4月20日水曜日

というわけで、出番前に楽屋で寛ぐオールスター・キャスト


『いじめストップ』をぶちかます合格さん

『神様は泣いた』をバックダンサーつきで披露してくれた、みどりみきさん。ちなみに左側の星条旗をマントにしたおじさんは、「大衆派パーフォマンスカントリー」(と名刺に書いてありました)のジミー与作さんです!

2011年1月26日水曜日

ジム・オルークになにが起きたのか! 『矢切の渡し』レッスン風景



ツイッターを見てくれてないかたがたのために、ふたたび報告。


友人から教えてもらって悶絶したのがこのYoutube映像。ジム・オルークが『矢切の渡し』をレッスンしてもらってる・・・なぜに??? しかも超真剣! 母国アメリカのファンたちにこの勇姿(?)を見せてあげたい。




ソニックユースのメンバーでもあったジム。ウィキペディアによれば、「好きなアーティストはジョン・フェイヒー、ヴァン・ダイク・パークス、デレク・ベイリー、武満徹、小杉武久、高柳昌行、メルツバウ、細野晴臣、加藤和彦、はちみつぱい、金延幸子、ハナタラシ、戸川純、若松孝二」だそうだが・・・演歌まで手を伸ばしていたとは。そしてレッスンをつけてくれている四方章人さんは、演歌カラオケ界では有名な先生であります。


ちなみに司会進行の瀬口侑希ちゃんは、大阪の有線放送会社で営業職しながらレッスン重ねて歌手デビューした、がんばりやさん。僕も過去に『月刊カラオケファン』で自宅訪問インタビュー、『エスクワィア』で、レコード屋キャンペーン取材をさせてもらってます(ずいぶんちがう2誌だが)。どっちもしばらく単行本にならなそうなので、ここに写真と文章、再録しておきます。


月刊カラオケファン 2007年11月号 わが家にようこそ♪ 瀬口侑希



演歌歌手といえば旅回り。レコード屋の店頭からカラオケ喫茶まで、唄えるところはどこでも行ってキャンペーン––そういう苦労がまず思い浮かぶ。でも「キャンペーンで回れるだけ、いまは幸せ、キャンペーンしたくてもできないのって、いちばんつらいですから」と言うのは瀬口侑希さん。神戸から出てきて、今年が東京9年目。今年の春に待望のファースト・ミニ・アルバムを出して、いよいよこれからブレイクか、というタイミングだ。
昭和45年生まれというから、今年32歳になる瀬口さんは、当然ながら演歌じゃなくてアイドル世代。「聖子さんに明菜さん、マッチやトシちゃん、それにおニャン子とチェッカーズ!」という少女時代を送っていた。
小さいころから歌うのが大好きで、神戸放送合唱団に入っていたが、家の近所に歌謡学院があるのをお母さんが発見。それが松山恵子さんと同じ学校を出て、杉良太郎さんのお師匠さんだったという先生が教える教室だった。
「アイドルとか習いたいな」と門を叩いた少女に、先生は「貴臣ちゃん(たかみ=本名)の声はね、歌謡曲のほうが向いてるんだよ、いちど演歌みたいなものを持っておいで、レッスンしてあげるから」という意外な反応。「有名な先生だし、説得力あるし、あたしの声だけでそう判断してくれたのだから(先生は盲目だった)」と、半信半疑のままレコード屋に行って相談したら、「こういうのが合うよ」って選んでくれたのが『あばれ太鼓』。それに神野美伽さんの『男船』。小学生の女の子に、渋い選曲しましたねー、レコード屋さんも。
お父さんが船乗りで、航海に携えていく演歌系のレコードはいっぱいあったけれど、それまで特に聴いたことなかった貴臣ちゃんは、中学に入っても勉強と部活と唄の勉強をかけ持ち。そうして高校1年生の時に、兵庫県猪名川町にやってきたNHKのど自慢に出場、見事チャンピオンに輝く。
そのとき歌ったのは島津亜矢さんの『出世坂』だったという。「高校生なのに本格的な演歌志向だったんですねえ」と聞いたら、「舞台映えのする歌はどんな曲なのか、研究に研究を重ねて。とにかく目立つのを選んだんです!」とのお答え。そりゃ高校一年生で、歌に込められたこころを・・とか言っても、無理だしねえ。
その勢いで年末、渋谷のNHKホールで開かれたグランドチャンピオン大会にも出場、ところが「優勝どころか、なんの賞ももらえなくて、それが悔しくて!」。その悔しさで、自分はやっぱり歌が好きなんだなあと再確認したそうだ。
高校を出たあとは大学に進学。学校の休みには東京に出て歌のレッスンに励んでいたが、いざ卒業、就職という時期になり、先生に「就職先のひとつとして歌手はないですかって言ったら、歌手って職業はね、自分がなりたいだけではなれないんだよって、厳しく諭されました」。



やむなく大阪で有線放送の会社に就職、営業で飛び回っているうちに、歌の先生からラジオの文化放送のオーディションがある、と教えられる。おそるおそる上司に言ってみたら、その部長さんがもともと音楽家志望で、「僕は夢を諦めた。でも会社員として部長まで来た。だから満足してるし、部長としては言えないけど、人生の先輩としては、夢を追いかけている後輩を見たら、今ならまだ間に合うんじゃないかと言ってあげたい。家と会社の往復では、結局なにも見つからないよ。、チャンスがあるならいけば!」と励まされ、OLを辞めて「ラジカセとスーツケースひとつ持って」上京する。
オーディションを待ちながら、同じ文化放送でアルバイトも始め、そこでたくさんの先輩歌手や芸能人にもアドバイスをもらえるようになった。オーディションに受かったあとは『走れ! 歌謡曲』で、今度は裏方から出演する側に回り、24歳の終わりになって歌手デビュー。それからは年1枚のペースで新曲発表、「ずーっと忙しいまま」で突っ走ってきて、「丈夫な体に生んでもらって、感謝してます!」という毎日。この部屋で過ごせる時間もほとんどないけれど、「少々家に帰れなくても、苦でもなければ逆にうれしいくらい。この仕事で家にずっといるようじゃ、しょうがないですし」。
CDジャケットの写真を見ていくと、1作ごとにすごく雰囲気がちがう、多彩な顔を持つ瀬口さん。ミニアルバムでは『骨まで愛して』なんて意外な曲にも挑戦してるので、ぜひご一聴あれ。

ESQUIRE 2009年1月号 東京秘宝 第2回 商店街のレコード店と店頭キャンペーン



♪乱れた文字です 最後の手紙
女の祈りが 届くでしょうか
かもめも飛ばない 港に着いて
「あなた」と叫べば 雪になる・・・

賑やかさと場末感が微妙に入り交じる秋の暮れの商店街。肌寒い風の中を家路に急ぐ人々が行き交う街角に、一群の中高年の男女が肩を寄せあっている。そのかたまりの中心に立つ、場違いなドレスに肩まであらわにしながらマイクを握りしめ、絶唱する女性歌手。ここは北区東十条商店街のレコード店・ミュージックショップ(MS)ダン。今宵はいま売り出し中の若手演歌歌手・瀬口侑希(せぐち・ゆうき)の店頭キャンペーンなのだ。
神戸に生まれ、高校一年生でNHKのど自慢チャンピオンになった。一時はOL生活に入るも歌への夢が捨てきれず、ラジカセとスーツケースひとつ持って上京。文化放送でアルバイトしながらオーディション挑戦をくりかえし、24歳の終わりになってデビュー。それからすでに9年目で、文化放送の『走れ!歌謡曲』の隔週レギュラーを担当するなど、ようやくスター歌手への道を走りはじめたいまも、「店頭キャンペーンは1回でも多くやりたいんです!」と真顔で話す。
レコード店の前に立って、道行く人に向かって歌いかけること。それは歌手を目的にお客さんが来るリサイタルとは根本的に異なる、厳しい時間だ。家や駅に向かって、あるいは夕食の買い物にあわただしく歩き、自転車のペダルをこぐ人々の足を、自分の歌声で立ち止まらせ、30分かそこらの時間、引き留めておかなくちゃならない。自分のことを知って、聴きに来てくれてるわけじゃない。おもしろくなければ、いきなり立ち去ってしまう。からかい半分、見世物見物気分の野次馬だって、ときにはからんでくる。お客さんとの距離は数十センチ、なにが起こっても、逃げ隠れする場所はない。それでも演歌の歌い手は、ひとつでもたくさんの店頭キャンペーンをスケジュールに入れたくて、みんな必死だ。
TOWERとかHMVとかTSUTAYAとか、レコード店がアルファベットの巨大店舗を意味する前の時代、店の前に立って道行く人に新曲を聴いてもらう店頭キャンペーンは、ごくあたりまえの風景だった。商店街のレコード店という存在自体が滅亡の危機にあるいま(この商店街にもレコード店はMSダン1軒のみ、書店にいたってはひとつも残っていない)、演歌歌手にとって新曲をプロモーションできる機会は、極端に限られている。巨大レコード店はJ−POPのアーティストは呼んでくれても、演歌歌手のインストア・ライブなんて許してくれないから。
MSダンは、都内に数軒しか残っていない、「店頭キャンペーンのできるレコード店」だ。月におよそ15回、ほぼ1日おきにキャンペーンが組まれ、いまや演歌歌手の登竜門として、業界では知らぬもののない名店である。
昭和24年、現在の山中喜三雄社長のお父さんが東十条商店街に開いたレコード屋が、MSダンの始まりだった。「あと継がないんだったら閉めるから」とお父さんに言われ、武田薬品に勤める営業マンだった喜三雄さんが店を継いだのが、昭和43年ごろ。「もともとレコードはけっこう高額商品でしたから、お客さんは限られてたし、音楽産業は景気に関係ない業種でして、再販商品で定価は守られてるし、レコード屋にはいい時代だったんですね」と当時を懐かしむ山中さん。サラリーマンより給料はいいし、不安はなかったそうだが、「これだけ音楽業界が変わるとは、予想もしなかったですねえ」。
大阪のバンドマンだった井上大佑が、8トラックのカラオケを発明したのは昭和46年。東京のFMラジオ局J−WAVEが”J−POP”なる造語を使い出したのが昭和63年、時代が平成にかわる前年だ。このふたつの出来事が、日本の歌謡音楽業界を大きく変えることになった。
いまや品揃えの9割が演歌というMSダンも、お父さんの代にはごくふつうのレコード店だったという。それが「カラオケが台頭してきて、J−POPもでてきて、これからどうしていけばいいんだろうと思ったときに、小さな店なら対面販売しかないだろうと思ったのね」と山中さん。
対面販売できる音楽のジャンルは、3つある。クラシックとジャズと演歌。それに対してJ−POPは、飾っておけば黙ってても売れる、コンビニ商売だ。お客さんが店に入って、買って出ていくまで、ひとことも言葉を交わさなくてもいい。そういう商品を、大規模店舗と競っても勝ち目はないだろう。「それで3つのうちのどれをやろうと考えたときに、ジャズとクラシックは、生半可な知識ではお客さんに負けてしまうけど、演歌なら身の丈のもので大丈夫」と、店の奥の棚を演歌の対面販売用にしたのが、”演歌の登竜門・MSダン”の始まりだった。
ときはバブル真っ盛り、「小室さんとかのCDが3000円でも飛ぶように売れる時代に、1200円とかの演歌のシングルCDを、手間暇かけて売る、それを我慢してやってきたんで、いまがあるんです」。伍代夏子、坂本冬美、藤あやこ・・いまや大スターとなった数多くの歌い手が、そんな演歌・冬の時代にMSダンの軒下に、間に合わせで作られたステージから旅立っていった。
そしてバブルは弾け、景気に関係なかったはずの音楽業界も店舗大型化と貸しレコード店の登場、音楽配信の普及という激震の中で、どんどん店舗数が減っていった。「だからいろんな店がいまはね、緊急避難として演歌をやろうとしてるんですよ」。ぬるいビールを注いだときの泡みたいに、ふわふわ業界を覆っていたJ−POPがなくなって、底に残っていた演歌というコアな音楽ジャンルが、表層に見えるようになってきた––––いまはそういう時代なのかもしれないと山中さんは語るが、それまでJ−POPばかり売っていたレコード店が、いまになって演歌歌手のキャンペーンに来てくれといっても、根っこを支え続けてきたMSダンのような店にはかなわない。それだけの時間をかけて人間関係を築いてきたのだし、「よその店は、キャンペーンなんて”売れたら来てよ”だったでしょ(客寄せに)、うちは売れない時代から、ずっと一緒でしたから」。それではようやく演歌にも春到来かと思いきや、「いまの演歌は聴く演歌じゃなくて、残念ながら歌う演歌なんですよ、うちのお客さんは音楽を探しに来るんじゃなくて、教科書を探しに来るんですから」と、教えてくれた。
いま、カラオケで歌いにくい曲は売れない、と演歌業界人は口を揃える。山中さんの意見も同じだ––––「昔は好きな人のレコードを買ってましたよね。いまは、自分はこの歌手は嫌いだけど、歌えるからって買うんですよ。そうすると素人の歌える域で、曲を作るじゃないですか。難しくしないから、みんな同じ曲調の歌になっちゃう。それでますますCDが売れなくなっちゃう。だから聴かせる歌というのを我慢してみんなに歌ってもらって、聴かせるものに徐々にスライドしていけば、もっとパイは広がるはずなんですけど。それができないのが、いまの苦しさですねぇ」。
店を演歌専門にシフトするとき山中さんと、”ダンママ”と呼ばれる業界名物・博子さんのふたりがまずやったのは、「曲をいっぱい聴くこと」。徹底的に曲を勉強して、来てくれたお客さんの好みを把握したら、「レコード探してるでしょ、そのときに”これ聴いてみて”って、ほかのも薦めちゃうんです」。こういう商売は新興宗教みたいなもので、「ダンさんに行けばいいレコードを教えてくれる、って信じてもらっちゃえばいいんですから」と山中さんは笑うが、その信用のバックには膨大な知識のストックがあり、歌手とレコード会社との信頼関係があり、さらに独自のサービスがある。
「うちね、僕の代になったときに、レコードの配達を始めたんですよ。本屋さんはやってますよね、配達。レコード屋はなんでやらないんだろう?って。ちょど8トラックのカラオケ・カセットが出てきたときに、スナックからよく注文があったんですけど、お店の人は買いに出てこれないでしょ、届けてよと言われて始めました」。僕も子供のころからずいぶんレコード店にはお世話になってきたが、配達してもらえるお店というのには、いままでひとつも出会わなかった。「ほかにやってる店ないからね、ずいぶん不思議がられたけど。いまみたいに近所にレコード屋がなくなると、遠くから来てくれるお客さんに在庫がないからって二度来てもらうのも大変でしょ」。
いまでもCDシングル1枚から注文を受けて、山中さんはみずからオートバイに乗って、都内全域に配達して回っている。中古盤屋じゃないからLPはないが、意外に多いのがカセットテープ。店の入口にも生カセットがずらりと積んであるし、店内の品揃えでもカセットが棚をいくつも占領している。いまだにカセット、買う人いるんですかと尋ねたら、演歌のカラオケ・レッスンではいまだにカセットが主流なのだそう。「レッスンだと曲の一部分を抜き出して歌ったりすることが多いんだけど、CDだと巻き戻しの操作が難しくて、覚えられない人が多いんだよね」。なるほど・・・お稽古用にまとめて300本購入、なんて先生がいるそうだから、AV機器メーカーはちょっと考えたほうがいいのかもしれない。
「僕らが作ってるんじゃなくて、お客さんが勝手に写真撮って、額装までして持ってきてくれちゃうんですよ」という、演歌歌手たちの写真が天井から無数にぶら下がり、もちろん壁という壁はサイン入りのポスターで埋め尽くされ、小さいながらも演歌の殿堂というべき貫禄たっぷりの店内。「店頭キャンペーンで人が集まるか、集まらないか、それは歌い手の力量だけど、とりあえず歌いに来てもらったのにイヤな思いをさせて帰したくない、それだけは気をつけて、お客さんがあまり来なくてもフォローするようにしてます」という山中さん。温かい飲み物を用意したり、「商店街の催しが重なったから、あまり集まらなかったんだよ」と声をかけたり、「若いときによくしてもらったお店よりも、辛い思いをさせられた店の名前はぜったい忘れないって、ベテランさんはみんな言いますから」と笑うが、同時に「店先で歌ってるのを見てて、売れる子っていうのはよくわかる。お客さんにも関係者にも、ちゃんと気配りできる子ですね。ちょっと売れて勘違いする子は、やっぱり業界で長生きできない」と、クールな評価眼を忘れてはいない。
「水森かおりさんだって、もともと近所で高校生のころからうちに遊びに来てたけど、デビューから紅白歌合戦まで10年近くかかってるでしょ、それが最高に順調なほうですから」という演歌業界。最短距離を走っても売れるまで10年、”苦節”という言葉が当てはまらない歌手が、たぶんひとりもいない厳しい世界で、MSダンのような存在は、どんなメディアよりも貴重なサポーターであるはずだ。


2011年1月13日木曜日

足立区が誇るインディーズ演歌歌手みどり○みき at なかの芸能小劇場

年も押し詰まった12月27日、中野サンプラザ向かいにある、なかの芸能小劇場というコミュニティ・センターで、激渋インディーズ演歌歌手の祭典が開かれました。なんたって司会からして「いか八郎」(今年77歳!)さんですから、そのアンダーグラウンド・レベルがわかろうというもの。

『演歌よ今夜も有り難う』というウェブ連載をきっかけに、この2年ほど取り組んでいるインディーズ演歌の世界を、今年の夏に単行本化するための追加取材でしたが(平凡社より刊行予定)、なかでも最注目のシンガーが「みどり○みき」さん。こちらのサイトでまだロング・インタビューがお読みいただけますが、



足立区のカラオケ喫茶をベースにしながら、毎月浅草の東洋館で歌うなど、積極的な活動を続けているベテラン・インディーズ歌手です。

みどりさんの最大のヒット曲は、平成12年に発表された『神様は泣いた』(英語版もあって『ゴットクライド』!)で、ご本人によればすでに40万枚!を売り上げたそう。なかののリサイタルでも、もちろん古コーラスを、お得意のジェームズ・ブラウンばりのシャウトを交えながら歌い込んでくれました。あまりに素晴らしいステージだったので、思わず撮影した動画をこちらでご覧ください!


さらに驚いたのは、みどりさんご本人の歌唱後、「サポーター」の女性陣が登場、ひとりずつ持ち歌を披露してくれたのですが、みどりさんと同じ『神様は泣いた』を歌った方がいたこと。それも御本家みどりさんとはまた微妙に違う、ハートフル&ソウルフルな絶唱。途中で感極まって泣いてしまい、しかし泣きながらも手のひらに隠した歌詞カードをチェックするという、インディーズならではのステージが堪能できました。なので、こちらも動画でどうぞ!(どちらの動画も、Youtubeのホームページからは見られません。こちらからご覧ください)


ビートたけしも育った老舗ストリップ劇場・浅草フランス座だった、現在の浅草東洋館では、今年も定期的にみどりさんのステージが見られるはず。ご本人の公式ブログで、予定をチェックしてみてください(1月12日現在、まだ今年分は発表されてませんでしたが)。ビョークよりもレディガガよりもハードコアな、日本屈指のソウル・シンガーをぜひステージでナマ体験していただきたいです!

公式サイト:
http://www003.upp.so-net.ne.jp/ENGEI/miki.html

2011年1月5日水曜日

湯島・ミュージックバー道:1月10日に演歌世界を語るトーク

というわけで10日の月曜日には、湯島のミュージックバー「道」にて、『roadside spirits』と題してお送りしている連続トークの、第2回セッションをお送りします。

前回は「田舎のヒップホップ」がテーマでしたが、今回は「インディーズ演歌」、そして演歌のディープな詩(詞)の世界! 業の深さではだれにも負けないロードサイドの演歌師たちと、ジャリタレが垂れ流すJ-POPの百億光年先を行く演歌のポエトリーについて、2時間たっぷり語らせてもらいます。こちらも20人ほどしか入れないので、予約はお早めに! DOMMUNEとちがって、ネットじゃ見られませんから。

トークは夜6時スタート。「道」はドリンクだけでなく、フードも充実してるので、お腹空かせて来てくれても大丈夫です!
予約はこちらまで http://miti4.exblog.jp/

こんなひとたちのこと、たくさんしゃべります!

2010年9月15日水曜日

秋祭りの演歌歌手

前にブログでちょろりと書きましたが、いまインディーズでがんばる演歌歌手たちを追いかけています。来年春までには単行本になりそうですが、先週は横浜のはずれの大六天神社という、小さな神社の秋祭りに行ってきました。


以前、平凡社のウェブマガジンで連載していた『演歌よ今夜も有難う』のなかで取材させてもらった若き男性演歌歌手・千葉山貴公(ちばやま・たかひろ)さんが、当夜のゲスト歌手。小さな神社の境内の、ゴザを敷いた上にお客さんがパラパラ。地元の歌自慢たちのカラオケ大会が延々続き、それから日本舞踊とかがあって、最後に登場した千葉山さんは、夜が更けて帰り支度をしはじめているお客さんたちに向かって、あくまでも明るく健気に、全力で歌い、語りかけていた。ステージが終わったら、舞台脇のテーブルに並べたCDとカセットを売りながら、サインと握手。こういうふうに音楽業界を下支えするひとたちに、僕も寄り添いながら記録していきたい。

これから日本は秋祭りの季節。地元のお祭りに歌謡ショーの看板を見つけたら、名前を聞いたことのない歌手だからといって、素通りするのはもったいない。無名の歌手だからこそ、こころに迫ってくるなにかが、きっとあるはずですから。



千葉山さんのインタビュー http://webheibon.jp/enka/2009/06/post-2.html

公式ブログ http://www.geocities.jp/hamanasuaika/

2010年8月25日水曜日

カラオケファン:歌手が直接指導するカラオケ教室

ときどき楽しい特集があるので、つい見てしまう『月刊カラオケファン』。このブログを読んでるみなさまで、愛読者のかたがどれくらいいるのでしょうか・・・。

今月のカラオケファンは、巻頭特集が「プロの歌手に学ぼう! 歌手が直接指導するカラオケ教室」。名前を貸してるんじゃなくて、プロ歌手がちゃんとレッスンしてくれるカラオケ教室ガイドです。しかし表紙の五木ひろしさん、今年62歳とは思えない若々しさですねー。

特集のほうは、三船和子にさくらと一郎(『昭和枯れすすき』のデュエットね)、畑中葉子まで、なかなか多士済々なプロたちが、こんなに教室やってるんだと、読んでみてちょっとびっくり。だって、自分が先生になってるんですから。

演歌、歌謡曲がなかなか売れない現状をあらわしているといえばそれまでですが、生徒も含めてみなさんハッピーそうで、読んでいても楽しいです。写真にちらり写っているレッスン室の様子も、なかなか興味深いので、カラオケ・ファンならずとも一読をおすすめします。

2010年4月15日木曜日

演歌よ今夜も有難う:最終回・木曜アップ!

 昔 昔の 物語り
 神と私の お話じゃ
 若いピチピチ 可愛い私
 神は私に ラブコール
 ああ 私はおねだり お金がほしい
 遊ぶにお金を ちょうだいな

 可愛私に 貧乏神
 金が無かった 哀しいね
 若いピチピチ 可愛い私
 年齢(とし)をもらった プレゼント
 ああ ふられた神様 悔しい泣いた
 金無し 辛いと 泣いた雨
 
 雨はそれから 降ったのだ
 神の涙は 本当かな
 若いピチピチ 可愛い私
 ヘルプ シルバー 年齢(とし)を取る
 ああ 何でもするから お金がほしい
 老後もお金が かかるのよ

    『神様は泣いた』 天の川一歩:作詞作曲

東京のはずれ、足立区の団地裏の居酒屋で、入ってみると実はカラオケ喫茶&スナック、しかも朝8時に開店という店内で、ショッキング・ピンクのかつらにショッキング・レッドの口紅にショッキング・グリーンのドレスを身にまとったおばさまが、激しいアクションとともにこんなコミカルでシュールな歌を絶唱する場面に遭遇したら・・・それだけで「生きててよかった!」ってなっちゃいます。

平成12(2000)年に発表した代表曲の『神様は泣いた』が、すでに40万枚突破! 2008年には英語バージョンの『ゴットクライド』まで発売! もう15年ほども浅草東洋館で定期出演! いままで通信カラオケで配信された持ち歌が13曲! なんでこんな大物が、なんでこんな場末(失礼!)に隠れていたのかと訝りたくなる、それが知られざるビッグ・アーティスト、みどり・みきさんだ(正式には「みどり」と「みき」のあいだに、ちいさな白丸が入ります)。


去年から隔週で月にふたりずつ、20回にわたってお送りしてきた、インディーズ演歌の現在を伝えるレポート。今回が最終回になりますが、やっぱり最後ですから・・・とびきり強力なアーティストをご用意しました。東京都足立区を拠点に活動する、みどり・みきさん。すごいですよ、このひと!!!!

詳しくはロング・インタビューを熟読していただきたいのですが、彼女はもうずっと毎月定例で、浅草東洋館に出演しています。その迫力満点、ほとんど鬼気迫るステージングはぜひライブで観ていただきたい! ちなみに4月は20日の火曜日なので、みなさま万障お繰り合わせの上、浅草に走るように!!! どうしてもダメな方は、ファンによる無許可動画がYoutubeにアップされてるので、とりあえずサワリをどうぞ。でも、見たらぜったい、行きたくなります!

2010年3月31日水曜日

演歌よ今夜も有難う:湖本恭子さんの「クラ歌謡」


 急な夕立ち朝顔市で 偶然出会ったあの日のように
 見知らぬ町で又会えそうな そんな気がして 旅に出ます
 窓の向こうは周防灘 あなたと旅した あの思い出の町を
 今通り過ぎて行きます・・・
    『ASAGAO』(作詞・作曲:倉岩正)

水森かおりみたいな若手演歌歌手が歌ったら似合いそうな曲を、ピアノの弾き語りでさらりと歌ってみせる湖本恭子さん。曲調は演歌っぽいけど、演歌じゃない。声の感じは小坂明子みたいなフォーク系の弾き語りに近いけれど、フォークでもない。ピアノはものすごくうまいけれど、さりとてクラシックのピアノとはちがう。演歌でもフォークでもクラシックでもない、「クラ歌謡」という独自のジャンルを確立すべく、このひとは去年デビューしたばかりの新人歌手なのだ。そしてデビュー曲の『ASAGAO』と『国東半島』の2曲を作詞作曲したのは、恭子さんのお父さん。「クラ歌謡」というコンセプトを考え出したのもお父さん。そんなお父さんに育てられ、尊敬したり反発したりしながら、歌手になったのが娘の恭子さん。このひとのデビューには、いろんな思いがこめられているのだった。

http://webheibon.jp/enka/2010/03/post-16.html

2010年3月3日水曜日

演歌よ今夜も有難う:ストリートにいたる道


巣鴨駅の改札を出た通路脇に、きょうもあのひとが立っている。きょうも革のジャケットに革パンツで、マイクにかぶさるようにしながら、しわがれ声を振り絞っている。


言いたい奴には 言わせておけと
黙って飲み干す 手酌酒
ひたすら人生 生きてきた
路地裏 ちょうちん 影法師
笑顔のおまえが 心のささえ

      『ひたすら人生』 作詞:ないとうやすお 作曲:長浜千寿


裕力也さん、67歳。老舗材木屋の長男としてなに不自由なく育ちながら、どうしても学校制度になじめず、中学、高校を転々としたあげく、ドロップアウト。歌手を目指して歌謡学院に通うが、親のコネでゼネコンの熊谷組に入社。21年間勤めたあと、自身の会社を興し、バブルの波に乗って成功するも、バブル崩壊と共にすべてを失い、家族とも別れて、いまはひとり。失った夢を取り戻そうと、数年前からストリートに立って、雨の日も風の日も歌いつづける。毎日、朝から晩まで。

道行く人のカンパと年金で命をつなぎながら、ストリートに生きつづける。音楽のジャンルとしてではなく、生きかたとしてのブルース・シンガーという存在が日本にあるとするならば、それはこのひとのことを言うのだ。


http://blog.heibonsha.co.jp/enka/

2010年2月16日火曜日

演歌よ今夜も有難う:「行動する演歌歌手」京一夫・後編


亀戸天神の宮司さんに請われて、天神様のイメージ・ソング『亀戸天神様』を自作自演でCDにしたことがきっかけで、障害者福祉センターで歌の会を開くことになり、そこで「飢饉で苦しむソマリアの子どもたちに、コップ1杯のコメを贈る運動」を始めることになった京一夫さん。演歌歌手&シンガーソングライターだった彼の半生は、40歳を越えて大きな転換点を迎えることになったのだった。

歌謡教室が開かれるごとにコメが、ときには一日で100キロほども集まるようになった。歌手仲間で有志を募り、銀座・数寄屋橋公園や都内各地の広場、コミュニティ会館などで『ソマリア難民支援コンサート』を何度も開き、ついに1トンものコメを集めることに成功したのだった。


当時、東京にはすでに外務省、農水省、運輸省の支援によって立ち上げられた援助団体「ソマリアにコメを送る会」があった。京さんたちは、当然ながらその会に集まったコメを託して、いっしょに送ってもらおうとする。寄付したひとたちからは、「ほんとうに困ってる子どもたちに届くの?」といった疑問が出て、それに京さんは軽い気持ちで「大丈夫、信用してください、わたしが届けます」と答えてしまう。その、何気ないひと言が、各方面には「ソマリアにコメを送る会の代表として、京一夫がコメを届けにソマリアに飛ぶ」という発言に誤解されるようになって、政府のお墨付き団体である「コメを送る会」から「うちはそちらと関係ないですから」と抗議を受けるという、予想外の展開になった。

売れない演歌歌手の売名行為、みたいに誤解されて京さんは困惑するが、最終的には腹をくくり、独力でソマリアに飛ぶことを決意する。


 93年 ソマリア
 94年 エチオピア 
 95年 スーダン
 96年 ジンバブエ
 97年 北朝鮮
 98年 モンゴル
 99年 ユーゴ
 2002年 アフガニスタン

そしていま、病身をおしてふたたびハイチへ飛ぼうと密かに計画中の京一夫さん。彼は動きつづけている。ほかのだれよりも。そして苦しむひとたちに最終的に届いていくのは、理念でも資金でもなく、活動しつづけるこころ、愛しつづけるエネルギーだと、このひとはわかっているにちがいない。

2010年2月3日水曜日

演歌よ今夜も有難う:「行動する演歌歌手」京一夫・前編



京一夫さんは演歌歌手であり、カラオケ喫茶経営者であり、ボランティアの専門家である。いま、千葉県我孫子の近く、湖北駅前のカラオケ喫茶<鬼平>で目の前に座っている京さんは、まぎれもなくスナックか喫茶店マスターの顔だし、最近発売されて話題の、流しの演歌師を集めたCD『演歌師稼業』で聴く京さんの歌声は、あくまでも正調演歌歌手だし、『きょうはボランティア日和』という自著で語られるスリリングなアフリカ・ボランティア行は、筋金入りのボランティア活動家にも負けない情熱とフットワークの産物だ。



芸能界には杉良太郎や八代亜紀など慈善・福祉活動に熱心な歌手が少なくないが、京一夫さんはそういうだれともちがう異質のマルチ・タレント、というより異質のマルチ・アクティヴィストなのだ。激動の半生、今週はその前編をどうぞ。



2010年1月20日水曜日

演歌よ今夜も有難う:秋田・パブやすらぎ訪問記




演歌歌手が歌を生かした副業を始めようとすれば、カラオケ教室かカラオケ・スナック経営しかない。ときには「昼はカラオケ教室、あるいは昼カラ喫茶、夜はカラオケ・スナック」という形態になったりもする。


プロの歌手がママさんやマスターを務めるのだから、そういうカラオケ・スナックは、飲んでいてすごく楽しい。ショーのチャージなんかなくて、キープ・ボトルを飲むだけのお金でプロの歌を堪能できるのだし、そういう店にはたいてい歌自慢のお客さんが集まってくる。ママやマスターのファン、というひとばかりが常連になるのだから、酒癖のわるい客や、酔って騒々しすぎる団体も来なくなる。演歌歌手のスナックって、実はすごく居心地いい遊び場なのだ。





今回はいつもと趣向をかえて、そんな演歌歌手の経営するカラオケ・スナックの典型をご紹介しよう。この連載の第9回でインタビューした、秋田の歌姫・あずさ愛さんが経営する「パブやすらぎ」だ。

2010年1月12日火曜日

アサヒ芸能連載:最終回・伍代夏子


今年デビュー25周年を迎えた伍代夏子の、最大のヒットは50万枚を超えた1991(平成3)年の『忍ぶ雨』だろうが、僕が最初に引っかかったのはその少しあとの『恋ざんげ』だった。あの「シュルル、シュルル、シュルル・・」というリフレインが印象的なヒット曲である。

 あれは七月 蝉しぐれ
 瀬音したたる いで湯宿
 ふたり渡った あの橋は
 女と男の 紅い橋




冒頭の4行までは普通の演歌の歌詞なのだが、そのあと唐突に

 ああシュルル シュルル シュルル
 明かりをつけても 暗すぎる
 ああシュルル シュルル シュルル
 淋しさばかりが 群がって
 夜更けのテレビは 蝉しぐれ

そうか、シュルルってのはテレビの放送が終了したあとのサンドストームのことなのかと思ったりするのだが、3番の最後になって

 ああシュルル シュルル シュルル
 帯とく音さえ せつなくて
 夜更けに泣いてる 恋ざんげ

と明かされる。そうか、シュルルとは、帯をとく音だったんだ! ひとり、寝る前に着物を脱ぐときの音で、別れた男を思い出す。そんな深い歌詞を書いたのは、石川さゆりの『天城越え』や大川栄作の『さざんかの宿』でも知られる文芸演歌の巨匠・吉岡治。いま、とにかくわかりやすくて、歌いやすい曲ばかりがヒットチャートを賑わすなかで、こういうディープな歌を聴くと、ほっとする。「カラオケでうたえる歌」じゃなくて、「じっくり聴きたい歌」。伍代夏子は、そういう古風な演歌を愛し、歌いつづける歌手である。

2010年1月6日水曜日

アサヒ芸能連載:田川寿美


このひと、ほんとに演歌歌手?――田川寿美さんをはじめてテレビで観たときは、驚いた。NHKの歌謡番組だったと思うが、豪華なステージに着物姿であらわれて、歌ったのは『島唄』。あの難しい歌を、へんに演歌っぽく味つけせずに、きれいに歌いきったのだが、胸声(ファルセットではない実声)から、ファルセット(頭声)へとナチュラルに移行するその歌いかたは、むしろオペラ歌手のベルカント唱法を思わせる、演歌歌手としてはかなり異質なものだった。でも、いでたちはこれぞ「ザ・演歌」みたいな着物に、アップのヘアスタイル。そのアンバランスな魅力に、すごく興味がわいた。





田川寿美は、いま30代から40代にかかる世代の女性演歌歌手のうちで、もっとも技術的にすぐれたひとりだ。ものすごくテクニカルで、それをさらりとやってみせる。だからいざカラオケで歌おうとして、はじめてその難しさに気がついたりする。

そしてシロウトがカラオケで歌いやすい曲ばかりがヒットする時代にあっては、こんなにうまいのに、セールスが実力についてこない。もっと売れていいはずなのに・・・彼女のステージを観ていると、いつもそう思ってしまう。いま、この時代の演歌界に生きることの幸と不幸を、このひとは両方いっぺんに背負い込んでいるのではないだろうか。


しかし表紙のタイトルもろもろ、興味深いですねー(笑)。

2009年12月24日木曜日

アサヒ芸能連載:水森かおり




当代「ご当地ソングの女王」水森かおり。今年も間もなく、紅白歌合戦で『安芸の宮島』を熱唱する姿が見られるはずだ。
水森かおりの歌う女は、いつも恋に破れて旅する女である。「ご当地ソング」というよりも、「旅うた」と呼ぶほうがふさわしい、傷つきさまよう女のこころをうたう歌。1999(平成11)年の『竜飛岬』をスタート地点に、その旅は『尾道水道』→『東尋坊』 →『鳥取砂丘』 →『釧路湿原』 →『五能線』 →『熊野古道』 →『ひとり薩摩路』 →『輪島朝市』と10年かかって、今年もまだ傷心のまま『安芸の宮島』にたどりついた。
演歌と呼ぶにはずいぶん透明な声で、そんなに苦しい女ごころばかりを、もう15年以上歌ってきた彼女を、テレビ画面ではなく、いざコンサートで観てみると、歌のイメージと本人のギャップに唖然とする。とにかく元気なのだ、このひとは。