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【その②】新国立競技場建設問題
その③
2020年東京五輪・パラリンピックのメーン会場となる新国立競技場について、政府は再検討中の整備計画で全天候型の開閉式屋根の設置は断念する方針を固めたことが27日、関係者への取材で分かった。
収容人数は8万人規模とする。スポーツの国際大会に対応できる規模の確保を優先し、必要でない設備はそぎ落として工期・工費の圧縮につなげる。
政府の関係閣僚会議(議長・遠藤利明五輪相)は整備費の上限などを詰めたうえで・・・
2015/7/28 2:00
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASDG27HDM_X20C15A7MM8000/
ギャグだよギャグ
最初から無理だって
あんだけ言われていた「屋根」
昔、細木数子が自宅の屋根だけで「一億」って言ってた記憶が
屋根って高いんだな
そんな風に思った思い出w
こんな屋根
作るのもアレだけど
維持費がどんだけかかるか
ド素人でもわかる
開かなくなったら大変
重みで傾いだり
錆びたりなんだり
停電したり
落下しないか
配線がショートしないか
色んな事が必要になる
あのさ
デザイナーがね
デザインだけ頼まれたって
予算の事は関与していないっていうけど
建築家でしょ?
考えればわかるだろって思うわけ
2020年東京五輪・パラリンピックのメーン会場となる新国立競技場について、政府は再検討中の整備計画で全天候型の開閉式屋根の設置は断念する方針を固めたことが27日、関係者への取材で分かった。
収容人数は8万人規模とする。スポーツの国際大会に対応できる規模の確保を優先し、必要でない設備はそぎ落として工期・工費の圧縮につなげる。
政府の関係閣僚会議(議長・遠藤利明五輪相)は整備費の上限などを詰めたうえで・・・
2015/7/28 2:00
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASDG27HDM_X20C15A7MM8000/
ギャグだよギャグ
最初から無理だって
あんだけ言われていた「屋根」
昔、細木数子が自宅の屋根だけで「一億」って言ってた記憶が
屋根って高いんだな
そんな風に思った思い出w
こんな屋根
作るのもアレだけど
維持費がどんだけかかるか
ド素人でもわかる
開かなくなったら大変
重みで傾いだり
錆びたりなんだり
停電したり
落下しないか
配線がショートしないか
色んな事が必要になる
あのさ
デザイナーがね
デザインだけ頼まれたって
予算の事は関与していないっていうけど
建築家でしょ?
考えればわかるだろって思うわけ
お知らせ
暫く、更新休みます
黙って休むと
暗殺説wなどが流れるので
いつも通りの
試験勉強の為です
年取ってからの試験勉強って
想像を絶するほど大変なんです
記憶力がー
脳みそがー
老眼がー
って
三重苦のヘレンケラーです
でわ
黙って休むと
暗殺説wなどが流れるので
いつも通りの
試験勉強の為です
年取ってからの試験勉強って
想像を絶するほど大変なんです
記憶力がー
脳みそがー
老眼がー
って
三重苦のヘレンケラーです
でわ
岩手中二自殺の生活ノート事件
岩手県矢巾やはば町で、同県紫波しわ郡の中学2年の男子生徒(13)が電車に飛び込んで死亡した事故で、男子生徒が4月からクラスの担任と交わしていた「生活記録ノート」の全容が8日、明らかになった。
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20150708/20150708-OYT1I50034-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20150708/20150708-OYT1I50036-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20150708/20150708-OYT1I50035-L.jpg
別の生徒からの暴力や、体調不良を繰り返し訴え、助けを求める「叫び」が記録されている。
SOSはなぜ届かなかったのか。学校側は死亡にいたった経緯などの調査を始めた。
クラス替えが終わり、2年生としてのスタートを切った4月。ノートの書き出しは7日で、
「学年がスタートした1日。この今日を大切に、でだしよく、終わりよくしたい」と
意欲的な記述で始まっていた。異変が起きたのは、4月中旬だった。
〈最近、「いかれてる」とかいわれ、けっこうかちんときます。やめろといってもやめない。
学校がまたつまんなくなってきた〉(4月17日)
父親によると、生徒は4月上旬頃から「(別の生徒に)ちょっかいを出されてうざい。学校に行きたくない」
などと話すようになったという。
その後、生徒は「イライラする」「だるい」「つかれました」と徐々に体調不良を訴えるようになる。
具体的ないじめの記述と共に、心理的不安も書くようになる。
暗闇の中で人が迷っているイラストを添え、孤立感を訴える記述も出てきた。
別の生徒からの仕打ちについて「しつこい」との記述が続き、
6月3日には「けんかしました。ボクはついに、げんかいになりました」とつづった。
そして担任に直接助けを求める記述が現れる。
〈次やってきたら殴るつもりでいきます。そうなるまえに、ボクを助け……〉(6月5日)
〈実はボクさんざんいままで苦しんでたんスよ?なぐられたり、けられたり、首しめられたり、
悪口言われたり!〉(6月8日)
6月中旬には、担任が「きのう話しができてよかったです」と記載し、生徒と話をした形跡もある。
しかしその後、テストに関する記述が続くが、約2週間後に突然自殺をほのめかす。
〈生きるのにつかれてきた。氏(死)んでいいですか?〉(6月28日)
最後の記述は死の6日前だった。
〈ボクがいつ消えるかはわかりません。もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね〉(6月29日)
これに対し、担任は学校行事についてのコメントしか書いていない。
この日を最後に、記述は途絶える。
7月5日、生徒は祖父に「買い物に行ってくる」と言って外出したまま、帰らぬ人になった。
校長は7日の記者会見で、「ノートの内容について担任から報告がなかった」と述べた。
担任は体調不良だとして7日から休んでおり、生徒が記載した後にどう対応したかや、
生徒との間でどんなやりとりがあったかなどについて、学校側は把握できていない。
(盛岡支局 福元洋平、安田英樹)
2015年07月08日 16時05分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150708-OYT1T50157.html
岩手県矢巾町(やはばちょう)のJR矢幅(やはば)駅で中学2年の村松亮君(13)が列
車にひかれ死亡した事故で、村松君がいじめ被害をほのめかす内容をノートに記述し自殺した
とみられることについて、飲食店を営む父親(40)が9日、産経新聞の取材に応じた。死体
検案書には「鉄道自殺」と明記されており、長男の死について「真相を明らかにしてほしい」
と訴えた。
ノートは村松君の自宅で見つかった。担任に提出していた「生活記録ノート」で、いじめの
苦しみや自殺をほのめかす内容が随所につづられていた。
「先生に助けを求めていたのに…。無視された」。父親が最も衝撃を受けたのは、村松君が
亡くなる6日前の6月29日に書かれた内容だった。
「ボクがいつ消えるかはわかりません。ですが、先生からたくさん希望をもらいました。感
謝しています。もうすこしがんばってみます。ただ、もう市ぬ場所はきまってるんですけど
ね。まあいいか」(原文ママ)。「市ぬ」は「死ぬ」の意味とも読める。遺書ともとれる深刻
な内容だが、7月1、2日に秋田県仙北市で予定されていた1泊2日の宿泊研修の直前で、担
任の女性教諭は「明日からの研修たのしみましょうね」と記しただけだった。
「髪の毛をつかんで顔を机に打ち付けられていた」「複数の男子生徒に殴られていた」「し
つこく砂をかけられていた」
村松君の死後にノートの存在を知った父親のもとには、村松君の悲痛な訴えを裏付ける証言
が、同級生や保護者からもたらされた。
父親は4年前に飲食店を開店。当初は経済的に苦しく、給食費を期日に納められなかったこ
ともあったという。村松君は、昼も夜も懸命に働く父親に心配をかけたくない思いからか、苦
しみを吐露したのは同居する祖父だけだった。父親によると、「おじいちゃんに言って少し楽
になった」と話していたという。
産経新聞:http://www.sankei.com/affairs/news/150709/afr1507090043-n2.html
無くならない「いじめ」による自殺
この自殺の問題点は
①担任の対応+学校環境
②親の対応+家庭環境
の二つが焦点。
①担任の対応+学校環境
●他殺の可能性大の大津の時の担任
●葬式ごっこで自殺の鹿内君の時の担任
事件の新旧であげるとすると
この二大事件
まだ全容がすべて解明されているわけではないから
これだけの情報で結論付けることは早いけど
学校がだね
担任を休ませたまんまにしていることや
それを理由に「把握していない」と発表することが
オカシイ
「暴行」や「恐喝」といった犯罪の可能性云々を問う前に、
自殺に至るまでの「関わり」が
担任と少年との間に交わされた「生活ノート」のやり取りが証拠としてあって、
そこでのやりとりがある以上
担任は、這ってでも学校に行き
校長や親、関係者と詳細な話をすべきだろう?
教育者として
1人の人間の死に関わった可能性があろうとなかろうと
自分の生徒が死んだ
「関わり」
それを、放棄した態度でいる状態が
もうね
既にね
オカシイ
これって
汚職を追及された議員が
入院という逃亡手段を取るのと同じだろう
体調が悪かろうと
授業をせずとも
事情聴取の為に
学校に出てくるのが
人としての筋
担任としての責任
この担任自身の
教師として
人として
最低限のすべき事を、全く出来ない人間が
人間を教育する最前線にいるという現実
教師でもなければ、人でもない、
これは卑怯者だ
卑怯者が教育現場で指導する立場にいる問題
そして、その卑怯者を養護する学校
過去の事件も同じだけど
これだけ複数の目撃があるのに
把握していないなんて
あり得ない
あり得ない上に
生徒に目撃証言しないよう口止めしたり脅したり
という更なるあり得なさ
こういう学校環境の中では
目撃した生徒たちに
打つ手がなかったことが問題
大手企業なんかに設置されている
セクハラパワハラ110番のような
こういうのを
学校「外」に設置する
それは、学校外だけではない
大津のような在日地区だと
通報したら放火されたり、
警察や病院、教育委員会や市議や知事までグルだったり
地域そのものが組織として問題があることから
市町村の教育委員会や
都道府県警察の青少年指導部等ではなく
それぞれの地域に根ざさない
全国統一的な独立した別組織があっていいのでは?と
何処に引っ越そうと、逃げ隠れしようとも、
加害者についても被害者についても県を跨いでもわかるように、
全国網で情報を共有するシステム
警察って、馬鹿だから役に立たない
生徒が目撃情報を通報したら
「警察だ!誰々からこれこれな通報があった」
と公言しながら
づかづかやってくる
それやられると、生徒らがいじめや暴行の目撃通報なんか出来ないだろう
そういうね、
他の子供や本人、他の保護者や本人の親からの電話や申し出を受け付ける組織
学校や地域を通さないで済む
地域とは全く別の通報を受け入れる「平等で安心安全」な組織の設置の有無
これ必要だと私は思う
②親の対応+家庭環境
いじめを苦にした自殺の中で
鹿内君だったか
親に打ち明けたら
父親が「やりかえしてこい」って言って
翌日だかに
結果を聞いたら
息子は
「やりかえした」「もういじめられなくなった」というような答えをして
それを聞いた父親は「そらみろ、言ったとおりだろう」と安心した翌日だったか
息子は首つり自殺をした
父親は、勝ったと聞いていたのに、なぜだと涙ながらにインタビューに答えていたけど
息子が嘘をついているって
気付かない親
この事は大津のエントリーでも確か書いた
やさしいんだ
自殺した息子は
親を心配させないっていう
だけどね
そのやさしさというのは
気弱さでもあるわけで
言えない自分っていうのを
その子は知っている
何故言えないか
親を心配させると感じるのが原因ならば
この場合の
親の心配というのは
二つの見方があると私は考える
一つは
親が自分を心配する姿というのは、
子ども自身の本当の姿=いじめられる弱さや欠点
これを
拒絶している姿として、子供が受け止めている可能性
要するに、弱い自分を親が拒絶する、しているという風に感じている
とすると、
親が今まで、そういう弱い子供の姿を否定している経緯があるはず
と私は思う
こうでなきゃいけない
こうあるべき
そういう親の理想を
言葉や態度で子供にみせてきたのではないだろうか
と
極端な言い方をすれば
子どもは、親に拒絶されることを恐れている
だから
言えない
それが、親を心配させない
という大義名分にすり替わる
二つ目は、
いじめの被害者の親だから
世間はなかなか言えないかもしれないが
親が見せてきたそういう態度の中に
親のパニックやヒステリーも含まれる
つまり
親自身の弱さ
それが、子供に対する「無関心」「無責任」という態度の他に
対応力の無さ
それが作用しているのではないだろうか
もし
親に
我子の弱さを受け入れる寛容さと
経験値を生かした対応力があれば
子どもが暴力を振るわれていることを打ち明けた時の状況が変わってくる
今回の事件で
父親は、担任を責めるが
この父親は自身でこう供述している
父親によると、生徒は4月上旬頃から「(別の生徒に)ちょっかいを出されてうざい。学校に行きたくない」 などと話すようになったという。
生活記録ノートのいじめに関する記述は、4/17から始まったとされている
この状況からだと、
親に訴えているのが先だ
その時、この父親はどのような対応をしたのか?
そのことに触れた記事はあるのか私は知らないが
もし、親に、現実の我が子を受け入れる器と
あるべき対応力があるのなら
子どもの訴えに、何をしたのか
鹿内君の時のように
「やりかえしてこい」
等という拒絶の態度はとらず
学校内での力関係で負けていることを
親が受け入れてあげたのだろうか?
そして、担任と学校に親自身が関わりを持ったのだろうか?
SOSを伝えた我が子に、無関心だったのではないか?
子どもの訴えを
聞いてやる
耳を傾けてやる
そして
具体的な対応策を
一緒に考える
心配するのではなく
能動的に前向きな大人の考えを提示てやる
例えば、学校を変えたり、転居などというのは
親の力なくして成立しない対応策
担任に助けを求めたのなら
担任の対応を聞き
子どもの代わりに
親が担任の対応能力を判断してやるのだ
私自身、娘のことで学校と掛け合ったことがある
私の判断では、正直、「使えない担任」だった
担任に対応してもらう事があり
校長と掛け合い、半年かけて解決するよう交渉し、
協力を得た結果、解決に至った
今回の事もそうだけど
親が忙しくて、学校に任せっきりにしていること
これが問題の一つなんだってこと
使えない担任なんていくらでもいる
営業が出来ない営業マンや
管理が出来ない管理職がいるように
やっぱり
子どもを守るのは
親の責任なのだ
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20150708/20150708-OYT1I50034-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20150708/20150708-OYT1I50036-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20150708/20150708-OYT1I50035-L.jpg
別の生徒からの暴力や、体調不良を繰り返し訴え、助けを求める「叫び」が記録されている。
SOSはなぜ届かなかったのか。学校側は死亡にいたった経緯などの調査を始めた。
クラス替えが終わり、2年生としてのスタートを切った4月。ノートの書き出しは7日で、
「学年がスタートした1日。この今日を大切に、でだしよく、終わりよくしたい」と
意欲的な記述で始まっていた。異変が起きたのは、4月中旬だった。
〈最近、「いかれてる」とかいわれ、けっこうかちんときます。やめろといってもやめない。
学校がまたつまんなくなってきた〉(4月17日)
父親によると、生徒は4月上旬頃から「(別の生徒に)ちょっかいを出されてうざい。学校に行きたくない」
などと話すようになったという。
その後、生徒は「イライラする」「だるい」「つかれました」と徐々に体調不良を訴えるようになる。
具体的ないじめの記述と共に、心理的不安も書くようになる。
暗闇の中で人が迷っているイラストを添え、孤立感を訴える記述も出てきた。
別の生徒からの仕打ちについて「しつこい」との記述が続き、
6月3日には「けんかしました。ボクはついに、げんかいになりました」とつづった。
そして担任に直接助けを求める記述が現れる。
〈次やってきたら殴るつもりでいきます。そうなるまえに、ボクを助け……〉(6月5日)
〈実はボクさんざんいままで苦しんでたんスよ?なぐられたり、けられたり、首しめられたり、
悪口言われたり!〉(6月8日)
6月中旬には、担任が「きのう話しができてよかったです」と記載し、生徒と話をした形跡もある。
しかしその後、テストに関する記述が続くが、約2週間後に突然自殺をほのめかす。
〈生きるのにつかれてきた。氏(死)んでいいですか?〉(6月28日)
最後の記述は死の6日前だった。
〈ボクがいつ消えるかはわかりません。もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね〉(6月29日)
これに対し、担任は学校行事についてのコメントしか書いていない。
この日を最後に、記述は途絶える。
7月5日、生徒は祖父に「買い物に行ってくる」と言って外出したまま、帰らぬ人になった。
校長は7日の記者会見で、「ノートの内容について担任から報告がなかった」と述べた。
担任は体調不良だとして7日から休んでおり、生徒が記載した後にどう対応したかや、
生徒との間でどんなやりとりがあったかなどについて、学校側は把握できていない。
(盛岡支局 福元洋平、安田英樹)
2015年07月08日 16時05分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150708-OYT1T50157.html
岩手県矢巾町(やはばちょう)のJR矢幅(やはば)駅で中学2年の村松亮君(13)が列
車にひかれ死亡した事故で、村松君がいじめ被害をほのめかす内容をノートに記述し自殺した
とみられることについて、飲食店を営む父親(40)が9日、産経新聞の取材に応じた。死体
検案書には「鉄道自殺」と明記されており、長男の死について「真相を明らかにしてほしい」
と訴えた。
ノートは村松君の自宅で見つかった。担任に提出していた「生活記録ノート」で、いじめの
苦しみや自殺をほのめかす内容が随所につづられていた。
「先生に助けを求めていたのに…。無視された」。父親が最も衝撃を受けたのは、村松君が
亡くなる6日前の6月29日に書かれた内容だった。
「ボクがいつ消えるかはわかりません。ですが、先生からたくさん希望をもらいました。感
謝しています。もうすこしがんばってみます。ただ、もう市ぬ場所はきまってるんですけど
ね。まあいいか」(原文ママ)。「市ぬ」は「死ぬ」の意味とも読める。遺書ともとれる深刻
な内容だが、7月1、2日に秋田県仙北市で予定されていた1泊2日の宿泊研修の直前で、担
任の女性教諭は「明日からの研修たのしみましょうね」と記しただけだった。
「髪の毛をつかんで顔を机に打ち付けられていた」「複数の男子生徒に殴られていた」「し
つこく砂をかけられていた」
村松君の死後にノートの存在を知った父親のもとには、村松君の悲痛な訴えを裏付ける証言
が、同級生や保護者からもたらされた。
父親は4年前に飲食店を開店。当初は経済的に苦しく、給食費を期日に納められなかったこ
ともあったという。村松君は、昼も夜も懸命に働く父親に心配をかけたくない思いからか、苦
しみを吐露したのは同居する祖父だけだった。父親によると、「おじいちゃんに言って少し楽
になった」と話していたという。
産経新聞:http://www.sankei.com/affairs/news/150709/afr1507090043-n2.html
無くならない「いじめ」による自殺
この自殺の問題点は
①担任の対応+学校環境
②親の対応+家庭環境
の二つが焦点。
①担任の対応+学校環境
●他殺の可能性大の大津の時の担任
●葬式ごっこで自殺の鹿内君の時の担任
事件の新旧であげるとすると
この二大事件
まだ全容がすべて解明されているわけではないから
これだけの情報で結論付けることは早いけど
学校がだね
担任を休ませたまんまにしていることや
それを理由に「把握していない」と発表することが
オカシイ
「暴行」や「恐喝」といった犯罪の可能性云々を問う前に、
自殺に至るまでの「関わり」が
担任と少年との間に交わされた「生活ノート」のやり取りが証拠としてあって、
そこでのやりとりがある以上
担任は、這ってでも学校に行き
校長や親、関係者と詳細な話をすべきだろう?
教育者として
1人の人間の死に関わった可能性があろうとなかろうと
自分の生徒が死んだ
「関わり」
それを、放棄した態度でいる状態が
もうね
既にね
オカシイ
これって
汚職を追及された議員が
入院という逃亡手段を取るのと同じだろう
体調が悪かろうと
授業をせずとも
事情聴取の為に
学校に出てくるのが
人としての筋
担任としての責任
この担任自身の
教師として
人として
最低限のすべき事を、全く出来ない人間が
人間を教育する最前線にいるという現実
教師でもなければ、人でもない、
これは卑怯者だ
卑怯者が教育現場で指導する立場にいる問題
そして、その卑怯者を養護する学校
過去の事件も同じだけど
これだけ複数の目撃があるのに
把握していないなんて
あり得ない
あり得ない上に
生徒に目撃証言しないよう口止めしたり脅したり
という更なるあり得なさ
こういう学校環境の中では
目撃した生徒たちに
打つ手がなかったことが問題
大手企業なんかに設置されている
セクハラパワハラ110番のような
こういうのを
学校「外」に設置する
それは、学校外だけではない
大津のような在日地区だと
通報したら放火されたり、
警察や病院、教育委員会や市議や知事までグルだったり
地域そのものが組織として問題があることから
市町村の教育委員会や
都道府県警察の青少年指導部等ではなく
それぞれの地域に根ざさない
全国統一的な独立した別組織があっていいのでは?と
何処に引っ越そうと、逃げ隠れしようとも、
加害者についても被害者についても県を跨いでもわかるように、
全国網で情報を共有するシステム
警察って、馬鹿だから役に立たない
生徒が目撃情報を通報したら
「警察だ!誰々からこれこれな通報があった」
と公言しながら
づかづかやってくる
それやられると、生徒らがいじめや暴行の目撃通報なんか出来ないだろう
そういうね、
他の子供や本人、他の保護者や本人の親からの電話や申し出を受け付ける組織
学校や地域を通さないで済む
地域とは全く別の通報を受け入れる「平等で安心安全」な組織の設置の有無
これ必要だと私は思う
②親の対応+家庭環境
いじめを苦にした自殺の中で
鹿内君だったか
親に打ち明けたら
父親が「やりかえしてこい」って言って
翌日だかに
結果を聞いたら
息子は
「やりかえした」「もういじめられなくなった」というような答えをして
それを聞いた父親は「そらみろ、言ったとおりだろう」と安心した翌日だったか
息子は首つり自殺をした
父親は、勝ったと聞いていたのに、なぜだと涙ながらにインタビューに答えていたけど
息子が嘘をついているって
気付かない親
この事は大津のエントリーでも確か書いた
やさしいんだ
自殺した息子は
親を心配させないっていう
だけどね
そのやさしさというのは
気弱さでもあるわけで
言えない自分っていうのを
その子は知っている
何故言えないか
親を心配させると感じるのが原因ならば
この場合の
親の心配というのは
二つの見方があると私は考える
一つは
親が自分を心配する姿というのは、
子ども自身の本当の姿=いじめられる弱さや欠点
これを
拒絶している姿として、子供が受け止めている可能性
要するに、弱い自分を親が拒絶する、しているという風に感じている
とすると、
親が今まで、そういう弱い子供の姿を否定している経緯があるはず
と私は思う
こうでなきゃいけない
こうあるべき
そういう親の理想を
言葉や態度で子供にみせてきたのではないだろうか
と
極端な言い方をすれば
子どもは、親に拒絶されることを恐れている
だから
言えない
それが、親を心配させない
という大義名分にすり替わる
二つ目は、
いじめの被害者の親だから
世間はなかなか言えないかもしれないが
親が見せてきたそういう態度の中に
親のパニックやヒステリーも含まれる
つまり
親自身の弱さ
それが、子供に対する「無関心」「無責任」という態度の他に
対応力の無さ
それが作用しているのではないだろうか
もし
親に
我子の弱さを受け入れる寛容さと
経験値を生かした対応力があれば
子どもが暴力を振るわれていることを打ち明けた時の状況が変わってくる
今回の事件で
父親は、担任を責めるが
この父親は自身でこう供述している
父親によると、生徒は4月上旬頃から「(別の生徒に)ちょっかいを出されてうざい。学校に行きたくない」 などと話すようになったという。
生活記録ノートのいじめに関する記述は、4/17から始まったとされている
この状況からだと、
親に訴えているのが先だ
その時、この父親はどのような対応をしたのか?
そのことに触れた記事はあるのか私は知らないが
もし、親に、現実の我が子を受け入れる器と
あるべき対応力があるのなら
子どもの訴えに、何をしたのか
鹿内君の時のように
「やりかえしてこい」
等という拒絶の態度はとらず
学校内での力関係で負けていることを
親が受け入れてあげたのだろうか?
そして、担任と学校に親自身が関わりを持ったのだろうか?
SOSを伝えた我が子に、無関心だったのではないか?
子どもの訴えを
聞いてやる
耳を傾けてやる
そして
具体的な対応策を
一緒に考える
心配するのではなく
能動的に前向きな大人の考えを提示てやる
例えば、学校を変えたり、転居などというのは
親の力なくして成立しない対応策
担任に助けを求めたのなら
担任の対応を聞き
子どもの代わりに
親が担任の対応能力を判断してやるのだ
私自身、娘のことで学校と掛け合ったことがある
私の判断では、正直、「使えない担任」だった
担任に対応してもらう事があり
校長と掛け合い、半年かけて解決するよう交渉し、
協力を得た結果、解決に至った
今回の事もそうだけど
親が忙しくて、学校に任せっきりにしていること
これが問題の一つなんだってこと
使えない担任なんていくらでもいる
営業が出来ない営業マンや
管理が出来ない管理職がいるように
やっぱり
子どもを守るのは
親の責任なのだ
【追記版③】皇室の行方~DNAの恐怖de乱歯
追記版③
334 名前:名無しの心子知らず@無断転載禁止 [sage] :2015/07/12(日) 07:44:15.28 ID:vm/rKls/
聞いた話。
陛下が愛子さんの振舞いについて注意したら、雅子妃が逆上して手が付けられなくなった。
長男に当たる(物理的に)のでそれ以降、陛下は何もおっしゃれなくなった。
それで「選択」に愛子さんの躾について側近にご下問、と記事が載った。
具体的だったので関係者の間で話題になった。
皇宮警察は早くからわかっていたみたいだけれどね。
入内間もない頃から
こういうエピ聞いたことあるわ
例の
子どもを国民は待ってますよに
私の周りにそんなこと言う人いませんっ!!!
陛下に食って掛かった雅子の子作り拒否エピ
両陛下は
雅子に対して
腫物に触るかのようになった
という話
愛子が生まれる前から
こうだった
怒鳴れば
喚けば
叫べば
暴れれば
周りは自分に従うという
おかしな学習をしてきた雅子
幼児のダハンと同じ
それを20数年続けてきただけの話
御所の敷地内を
逆上した雅子が車で爆走して
脱輪事件
これも
愛子が生まれる前でしょ
何か注意されると
皇太子妃辞めマッス!発言も
小和田汚職別荘に籠城事件もだし
震災の時も、避難を廃妃と誤解して自分の部屋に籠城w
どんな馬鹿かと誰もが思うけど
これが現実の馬鹿女雅子の実情
そういう意味ではね
徳仁と愛子は
凶暴な雅子の「人質」状態
今年の御料牧場での弟宮との件で
徳仁一家の宿泊先の部屋の襖か障子に
大きな穴が開いていたというスネーク
愛子の突撃か
雅子が徳仁を投げ飛ばした跡か
と
色々憶測が飛んでたけど
どれもこれも
雅子だろうと言われている
だけどね
もうね
事は動いたわけで
アレラの進退についての権限は
実質、安倍総理の手中にある
ゴビョウキガーを理由にした時点で、
事実上の病院送り=廃太子廃妃
の判子が即行押される
逆上して
徳仁のデコに灰皿ぶつけても
もう
誰も
困らない
行く先は
どっちに転んでも
病院だから
礼子も怪我させた雅子
手が付けられないヒステリー
愛子の左頬のビンタ跡
誰が怪我しても
誰も困らない
雅子が自分のヒスで自分が困るだけ
それならそれで
逆上の状況を作った方が
早急に追い出せるのではないか
尻に火がついて
呼ばれもしない場に
ワサワサワサワサ出てくる度に
失点失敗を繰り返す
敷地内で爆走して脱輪しても放置でいい
車を失わせればいい
何処に行くのも徒歩で外出させればいい
自分でしたことなのだから
徳仁のヅラを投げ捨てたのならそれでいい
拾うのも
直すのも
自分でやるだけだ
トンガで針金が後頭部から飛び出したのも
装着を自分でやるしかなかったからだろう
トンガ出迎えの愛子の表情から
雅子に対する恐怖を垣間見てもいいだろう
人としてさえ扱ってもらえない
愛子の顔が腫れあがったのなら
誰がそうしたか
誰もがわかるだけなのだから
334 名前:名無しの心子知らず@無断転載禁止 [sage] :2015/07/12(日) 07:44:15.28 ID:vm/rKls/
聞いた話。
陛下が愛子さんの振舞いについて注意したら、雅子妃が逆上して手が付けられなくなった。
長男に当たる(物理的に)のでそれ以降、陛下は何もおっしゃれなくなった。
それで「選択」に愛子さんの躾について側近にご下問、と記事が載った。
具体的だったので関係者の間で話題になった。
皇宮警察は早くからわかっていたみたいだけれどね。
入内間もない頃から
こういうエピ聞いたことあるわ
例の
子どもを国民は待ってますよに
私の周りにそんなこと言う人いませんっ!!!
陛下に食って掛かった雅子の子作り拒否エピ
両陛下は
雅子に対して
腫物に触るかのようになった
という話
愛子が生まれる前から
こうだった
怒鳴れば
喚けば
叫べば
暴れれば
周りは自分に従うという
おかしな学習をしてきた雅子
幼児のダハンと同じ
それを20数年続けてきただけの話
御所の敷地内を
逆上した雅子が車で爆走して
脱輪事件
これも
愛子が生まれる前でしょ
何か注意されると
皇太子妃辞めマッス!発言も
小和田汚職別荘に籠城事件もだし
震災の時も、避難を廃妃と誤解して自分の部屋に籠城w
どんな馬鹿かと誰もが思うけど
これが現実の馬鹿女雅子の実情
そういう意味ではね
徳仁と愛子は
凶暴な雅子の「人質」状態
今年の御料牧場での弟宮との件で
徳仁一家の宿泊先の部屋の襖か障子に
大きな穴が開いていたというスネーク
愛子の突撃か
雅子が徳仁を投げ飛ばした跡か
と
色々憶測が飛んでたけど
どれもこれも
雅子だろうと言われている
だけどね
もうね
事は動いたわけで
アレラの進退についての権限は
実質、安倍総理の手中にある
ゴビョウキガーを理由にした時点で、
事実上の病院送り=廃太子廃妃
の判子が即行押される
逆上して
徳仁のデコに灰皿ぶつけても
もう
誰も
困らない
行く先は
どっちに転んでも
病院だから
礼子も怪我させた雅子
手が付けられないヒステリー
愛子の左頬のビンタ跡
誰が怪我しても
誰も困らない
雅子が自分のヒスで自分が困るだけ
それならそれで
逆上の状況を作った方が
早急に追い出せるのではないか
尻に火がついて
呼ばれもしない場に
ワサワサワサワサ出てくる度に
失点失敗を繰り返す
敷地内で爆走して脱輪しても放置でいい
車を失わせればいい
何処に行くのも徒歩で外出させればいい
自分でしたことなのだから
徳仁のヅラを投げ捨てたのならそれでいい
拾うのも
直すのも
自分でやるだけだ
トンガで針金が後頭部から飛び出したのも
装着を自分でやるしかなかったからだろう
トンガ出迎えの愛子の表情から
雅子に対する恐怖を垣間見てもいいだろう
人としてさえ扱ってもらえない
愛子の顔が腫れあがったのなら
誰がそうしたか
誰もがわかるだけなのだから
【サトシゴト⑤】アラシゴトサトシゴト2015
かつて
嵐さんがまだまだ大人の階段上り始めたころの冠番組で
笑点コント
智さん
「うそだろう
ロナウジーニョが
いっこ上」
という
偉大で
かつ
何故か
恥ずかしさ感漂う
名句を発表したのが
懐かしい
復帰でマヲタ全開中な毎日の中
スケート雑誌のバックナンバーを見てたら
当時全く眼中に入らなかった羽生君の色々なインタビューが載ってることに
今更ながら気が付いた
まだ16で
このしっかり感
自分の言葉で話しているのがひしひしと伝わる
最新刊は
更に成長して
人生の未来から今を見据えている
と言ってもいいくらいの
大人だ
羽生君
19、20にして
既に成熟した大人
素晴らしいね
欠点ない子だわ
そんな羽生君を賞賛する海外スケーター達
勿論、皆、彼より10歳以上も年上の先輩たちだ
そんな海外のアスリートの記事も読む
羽生皇子を大絶賛するマヲタのプル皇帝は、
羽生君のコーチをやりたいと言ってる
ソチ前に引退予定が
ソチ出場の為に国から依頼されて出場➡棄権
そして
三度復帰
貧しい環境から
スケートで立身出世
政治家でもあり
現役でもあるアスリート
自身のブランドを持ち
男の子ばかり子供が4人のパパ
貫録の32歳
32歳
え?
「うそだろう
プルシェンコが
大野智の
ふたっつ下」
衝撃が走るw
以下
シャンプー的男子フィギュア三大イケメン
ジェフリー・バトル1982年9月1日
ブライアン・ジュベール1984年9月20日
ステファンランビエール1985年4月2日
え?
羽生的男子
"ジョニー"・ウィアー1984年7月2日
え?
シャンプーマニア的男子
大野智1980年11月26日
皇帝男子
プルシェンコ1982年11月3日
激震w
大野智>2才>ジェフリー&プル>ジョニ子&ジュベ>ステファン
何がどうしてこうなった?
嵐さんがまだまだ大人の階段上り始めたころの冠番組で
笑点コント
智さん
「うそだろう
ロナウジーニョが
いっこ上」
という
偉大で
かつ
何故か
恥ずかしさ感漂う
名句を発表したのが
懐かしい
復帰でマヲタ全開中な毎日の中
スケート雑誌のバックナンバーを見てたら
当時全く眼中に入らなかった羽生君の色々なインタビューが載ってることに
今更ながら気が付いた
まだ16で
このしっかり感
自分の言葉で話しているのがひしひしと伝わる
最新刊は
更に成長して
人生の未来から今を見据えている
と言ってもいいくらいの
大人だ
羽生君
19、20にして
既に成熟した大人
素晴らしいね
欠点ない子だわ
そんな羽生君を賞賛する海外スケーター達
勿論、皆、彼より10歳以上も年上の先輩たちだ
そんな海外のアスリートの記事も読む
羽生皇子を大絶賛するマヲタのプル皇帝は、
羽生君のコーチをやりたいと言ってる
ソチ前に引退予定が
ソチ出場の為に国から依頼されて出場➡棄権
そして
三度復帰
貧しい環境から
スケートで立身出世
政治家でもあり
現役でもあるアスリート
自身のブランドを持ち
男の子ばかり子供が4人のパパ
貫録の32歳
32歳
え?
「うそだろう
プルシェンコが
大野智の
ふたっつ下」
衝撃が走るw
以下
シャンプー的男子フィギュア三大イケメン
ジェフリー・バトル1982年9月1日
ブライアン・ジュベール1984年9月20日
ステファンランビエール1985年4月2日
え?
羽生的男子
"ジョニー"・ウィアー1984年7月2日
え?
シャンプーマニア的男子
大野智1980年11月26日
皇帝男子
プルシェンコ1982年11月3日
激震w
大野智>2才>ジェフリー&プル>ジョニ子&ジュベ>ステファン
何がどうしてこうなった?
【追記③版】皇室の行方~キタコレ
追記③
秋篠宮ご夫妻 「結婚25年にあたって」全文
6月29日 7時06分
秋篠宮ご夫妻は結婚から25年の「銀婚」を迎えるにあたって、対談形式の文書で感想を表されました。その全文です。
【出会い】
秋篠宮さま
今年は結婚をしてから25年が経つようです。時間は常に経過していますので、取り立てて25年に意味づけをするものではないと思いますが、少し振り返ってみるのも記憶と記録を整理する上でよい機会かもしれませんね。
紀子さま
はい。私たちの今までを整理する方法のひとつとして、対談の形もあるのではないかとのお話になりました。このような形に慣れておりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
秋篠宮さま
もっとも、結婚する前にしばらく付き合っていた時期があるので、そのあたりから始めましょうか。いつのことか覚えていますか?
紀子さま
30年位前になりますでしょうか。私が大学1年生の春、本を探しに大学内の書店に立ち寄りましたとき、初めてご挨拶をさせていただきました。
秋篠宮さま
私の記憶に間違いがなければ、1985年の5月のことです。ちょうどそのころ、各地の文化や自然を楽しむことを目的としたインター・カレッジのサークルを作ったので、そこに誘ったところ喜んで入ってくれました。白川郷の合掌集落などずいぶんあちらこちらに出かけましたね。
紀子さま
はい。いろいろなところを旅行して、地域の豊かな文化や多様な自然にふれることができました。
秋篠宮さま
そして1986年、ある集いがあった後、あなたを送っていく途中に・・・。
紀子さま
二人で信号を待っておりましたとき、突然、将来のことについてのお話があって、びっくりいたしました。大学卒業後は、海外の大学院に行くことを考えていましたので、どのようにお返事をしたらよろしいかと迷い、考えさせてくださいとお話しさせていただいて。 .
【結婚にむけた準備】
秋篠宮さま
少し時計の針を進めましょう。私が大学を卒業したのが1988年ですが、その年の夏から暫くの間英国に滞在しました。この間、昭和天皇のご不例と崩御があったことから、しばしば日本に帰ることになりました。日本にいる間は、諸行事に参列するためだったのですが、そのおりに、将来のことについていろいろと話す機会にもなりました。そして、1989年の9月に公表するに至りました。これはいわゆる結納に当たる正式な婚約ではなく、皇室会議の議を経て婚約が内定したということを発表する機会でした。服喪中のこうした発表は異例なことと思った人がいたようですが、1951年7月の順宮(現池田厚子)様の発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後で、しかも当時参考としていた旧皇室服喪令によると、私たちの発表時期より一段階重い服喪期間中でしたので、手続きを終えたという発表は前例にもあり問題ないと宮内庁は判断したわけです。
そして、私たちの結婚の時期についてです。秩父宮両殿下のご婚儀が1928年9月末で、昭和天皇の即位の礼が同年の11月初旬。その間は2ヶ月もなく、大変だったことを両陛下が聞いていらしたそうです。そのようなことから、私たちのときには、結婚から同じ年の11月予定の即位の礼までにある程度の時間があったほうがよいとのことで、私が帰国した直後に式がおこなわれることになりました。
紀子さま
とてもありがたい思し召しを賜り、感謝申し上げております。
秋篠宮さま
話が少し前後しますが、昭和天皇の一周年の行事が終わり、私は1990年の1月から6月にかけては英国に滞在していたわけですが、その間、新たに住む家については、あなたに任せきりでした。もっとも、改築の平面図を見てもイメージすることができない私より、多少は空間認知に優れているあなたが見る方がよかったのは明らかでしたが。
今のは自分にとって都合のよい言い訳なのですが、実際のところ帰国したのが6月21日で、6月29日の結婚式までは約1週間しかなかったことを考えれば、新居での生活の準備は完全にあなたへ依存していたわけで、このことについては申し訳なかったとしか言いようがありません。
紀子さま
いいえ。むしろ、英国よりのご帰国を待っていたのかのように、式までの約1週間、宮中行事の習礼をはじめ、関係者とのこまかい打ち合わせが多くおこなわれましたが、時差がある中、大変ではありませんでしたか。
秋篠宮さま
幸いなことに、私は一般的に言われていることとは逆で、若いころは東へ向かうほうが時差の影響が少なかったため、それで大変ということはなかったと思います。
紀子さま
新しい生活にむけての準備や支度は初めてのことばかりで、新居について、相談をしたいと思いましても、当時は連絡手段としてメールはまだ普及していなくて、電話やファクシミリで、英国との時差もあり、すぐには連絡がとれない状況でした。式までに考えるべきこと、決めるべきことがたくさんあり、大学院の講義も受けていましたので、時間が経つのが早く、準備を終えられるか心配でした。
そのような中、宮内庁の職員が、改築や内装をはじめ、よく考え、提案してくれました。そばにいらしてくださったら、どんなに心強いかしら、と思うことはありましたが、いろいろな人の助けを借り、用意をある程度進めることができました。
帰国されたときは、本当にうれしく、それまでの不安もどこかにいってしまうくらいでした。
【結婚の日と新居】
秋篠宮さま
さて、1990年6月29日の結婚の日は、結婚の儀にはじまり朝見の儀、その他の諸行事が朝からたくさんあり、夜の10時頃でしょうか、一息ついたときにようやく結婚したことを実感した記憶があります。もっとも、その翌日からもいろいろと行事があったので、何となく慌ただしかったですけれどね。
紀子さま
はい。このよき日の行事を滞りなく終えたときは、安堵いたしました。
大学院生としての日々から、公的な仕事をする生活となったことは、大きな変化でした。そうした中で、折にふれて、両陛下が導いてくださり、あたたかくお見守りくださいました。各宮妃殿下方にも、行事の所作や服装などを丁寧に教えていただきました。さまざまな形で多くの人から支えられましたことを、ありがたく思っております。
秋篠宮さま
少しばかり新居となった家のことを話しましょうか。というのは、私にとって10年ほど過ごしたこの家には、けっこう思い出があるからです。
当初、宮内庁は新婚の我々のために、仮住まいではあるけれど同じ場所に新たな家を建てることを考えていました。しかし、いずれ何処かに居を構えるのに、仮住まいのために立て直すその計画は無駄が多いように思い、現存している建物を一部改築して使いたい旨伝えました。たしかに大勢の人とそこで会うのには適当ではありませんでしたが、こぢんまりとしていたぶん、非常に落ち着く場所でもありました。玄関を入って少し大きな声で呼べば、どこにいても大抵聞こえたのではないでしょうか?
結婚後の生活をあの家でできたことはよかったと思っています。
紀子さま
約60年の木造家屋を、二人で過ごせるように直して、新しい生活がはじまりました。そして、娘たちの誕生にあわせて部屋を増やしました。その中で、娘たちは成長していき、子どもたちの元気な声が響き、ギターやピアノの音もよく聞こえる、温もりの感じられる家でした。
秋篠宮さま
今の家からは近くにあるので、この前行ってみたのですが、子供たちが小さい頃に遊び回っていたことを想い起こし懐かしく感じました。彼女たちも気に入っていましたよね。
紀子さま
はい。今の家に移りましてから、またあちらの家で住みたい、と娘たちが話していたこともありましたね。
【日本国内・海外の訪問などに関連して】
秋篠宮さま
ところで、結婚後には公的私的は別にして、日本の各地や海外を訪問する機会がたびたびありました。また各種の行事にも出席をしてきました。訪問場所や行事そのものというより、それらに関連して何か印象に残っていることはありますか?
紀子さま
この25年の間に、日本国内、国外でいくつもの場所を訪問し、行事に出席いたしました。そして、さまざまな出会いがあり、多様な分野の人のお話を伺ったり、取り組まれている活動を見せていただいたりするなど、貴重な経験をいたしました。
秋篠宮さま
そうですね。各地で温かく迎えてくださる方たちがいることは、うれしいしありがたいことです。
紀子さま
また、健康作り、子育て支援や食育など、幼児から一人暮らしの高齢者まで地域の人々の暮らしを見守っている方々にも多くお会いしてきました。心強い活動と感じています。
秋篠宮さま
私の場合には、たとえば学術や環境関係の授賞式等でご縁のあった人や団体が、その後さらに発展した形で社会への貢献をしたときなどは、とてもうれしく感じます。
公的ということに関連して、あなたもよく知っているように、皇族には国事行為の臨時代行以外に公務は存在しません。あくまで公的な行為もしくは活動であり、言葉としてきちんと区別するべきものと考えます。そのような公的な仕事は、公務と異なりある程度自分の裁量で取捨選択ができてしまう。そのようなことから、声をかけていただき、それらが適当と判断されたものについては、できるだけ応えるように心がけてはいます。
紀子さま
私もそのように努めてまいりました。そして、公的な活動でも、生活の中でも、宮家に関わる宮内庁や皇宮警察の職員をはじめ、さまざまな形で支えてくれる人たちがいることを大切に思っています。
秋篠宮さま
いっぽう、これは私的なことになりますが、国内外であなたとは一緒でなく訪れている場所もけっこうあります。なかには、一緒に行ってみたい場所もありますので、近い将来の楽しみとして考えることにしましょうか。
ちなみに、この時は眞子と一緒だったのですが、かなりの悪路ではあるものの、マダガスカルのチュレアールからムルンベへ行く途中に3種類のバオバブやパキポディウムを見ることができ、コーデックス好きにとっては素晴らしい12時間半のドライブを楽しみました。もちろん、ほぼ同じ時間をかけて帰ってきたのですが、ムルンベのバオバブの景観は本当に素晴らしいですよ。
紀子さま
いつか見てみたいですね。
【子どもたちのこと】
紀子さま
子どもたちが小さいときは動物園や博物館にでかけ、また、一緒に旅行もしました。その他にも、子どもたちとはたくさんの思い出がありますね。
秋篠宮さま
先日、英国にいる眞子から父の日のカードが送られてきました。普段は必要最小限の連絡事項をメールでしているだけなので、妙にうれしい気分になりました。久しぶりだったからかな。
紀子さま
すてきですね。私も眞子より母の日に羊の親子のカードを受け取りましたときは、胸が熱くなりました。
秋篠宮さま
佳子とは比較的最近のことですが、珍しく一緒に買い物に出かけたことがありました。父親にたいしてつっけんどんな態度のことが多いのですが、意外と優しいところもあり、私が自由に選んだものについて、代わりに会計をしてくれました。もっとも、帰りに彼女にそのまま荷物を持たせていたら注意されましたけれどね。
紀子さま
ほほえましいですね。佳子が小さかったとき、誕生日によく手作りのものを贈ってくれました。幼稚園のときだったでしょうか。私の誕生日に2つの贈り物を考えていたのですが、先に作った貝殻の贈り物を私に見せたくて、早めに渡してくれました。そのあと、誕生日にもうひとつの贈り物をもらい、お祝いを2回してくれた、かわいらしい思い出もあります。
秋篠宮さま
悠仁もしばしば折り紙などの作品を届けてくれます。上の子どもたちと同様、もらったものには年月日を付して、飾ったり、保存したりしています。最近は、絵も上手になってきましたね。自分が絵を描くことが下手なので言うわけではありませんが、何かを観察してそれを絵として表現できると旅をしたときの記録として意味が出てきますので、どんどん描いてほしいものです。
紀子さま
絵を描いたりするほかにも、切り紙をしたり、厚紙で入れものをつくったりしながら、いろいろなものを創り出すことを、悠仁は楽しんでいますね。
私たちの手許には、子どもたちの小さいときからの作品がいくつもあります。どれも大事な宝物。普段なにげなく描いた絵から、本に登場する主人公や生き物などを描いたものが廊下の壁にかかり、折り紙やペーパークラフトが部屋に飾られています。
【結婚したころと今と】
紀子さま
ここで、結婚したころと、それから25年たった今のお気持ちを伺ってもよろしいでしょうか?
秋篠宮さま
このような機会がないと考えることもないですからね。
1990年というのは、ついこの間のことのように思えますが、やはり相応に時間がたっているということを感じることはあります。仕事や研究などでいろいろな事柄を解釈・判断するときに、若いころでは思い至らなかったことが多々あると感じます。そのことで、ずいぶんと周りに迷惑をかけたことがあるように思います。
もちろん、いまだに不十分で、反省と後悔すること多々ありです。精神年齢が未だ20代から進化していないのでしょう。
紀子さま
私も結婚をしたころは、慣れないことや戸惑うことがあり、考えすぎることや力を入れすぎて、ご迷惑をおかけしたことがいろいろあったのではないでしょうか。今は遅ればせながら、力を抜くこつが少しずつわかってきたように感じていますが。
このようなことにも「進化」という見方があるのですね。今でも、20代のときのような探究心や若々しい感性や創造性をおもちになっているのではないでしょうか。例えば、研究会に参加されているときには、そのように強く感じることがあります。
秋篠宮さま
たしかに研究会等への出席は、今まで自分がもっていなかった知識を得る機会にもなり、有意義に感じることが多くあります。まだまだ好奇心は残っているなと。出かける前と帰ってきた後とでは、テンションが違うと感じることがあるでしょう?
紀子さま
はい。お話しくださる様子から、心がはずむ時間を過ごされたのではないかと感じることがあります。
秋篠宮さま
いっぽう、フィジカルな面は劣化していますね。走り回ることについては、佳子が小学生の時にリタイアしてしまいましたが、最近不便に感じているのが老眼。もともと遠視があったので遠からずそうなるだろうと予想はしていましたが、眼鏡が放せなくなってしまいました。まあ、いたしかたないことではありますが。
紀子さま
私も小さい字が急に見えにくくなりました。また、疲れたとき、回復する時間が以前に比べてかかるようになりました。
毎朝のように散策をされたり、休みの日には庭仕事をされたり、よく身体を動かされていますね。週末は、散策に私も誘ってくださいますので、四季の移り変わりを感じながら歩くこの時間は、健康のためにも、楽しみのためにもありがたいです。
秋篠宮さま
25年というと、親・兄妹と過ごした年月より長く一緒にいたことになります。それだけの期間をともに過ごしていれば、共有することができた貴重な経験は数多くあります。また、誰かの言葉を借りれば導火線が短い私ですので、口論も多々あるのはごく普通のことでしょう。そのようななかで、ほとんど言葉に出さないので不満かもしれませんが、感謝の気持ちもきちんともっていますよ。
紀子さま
それはうれしいです。
秋篠宮さま
さまざまな書類、私の所に届くまでに不明な点などを整理しておいてくれますね。これは非常に助かっています。
紀子さま
まだまだ至らないところもあると思いますが、そういう面でもお役にたっておりますなら、幸せです。
秋篠宮さま
また、昔から何故か階段を踏み外しやすいことから、階段のあるところでは、滑り落ちないようにさりげなく支えてくれていますね。周囲から見ると、私があなたを支えているように見えているかもしれないけれども。
紀子さま
こちらこそ、いつもこまやかにお教えくださり、また健康面も気遣ってくださり、深く感謝しております。
また、一緒に生活をするようになってからわかったことですが、食べ物の好き嫌いがほとんどありませんね。私は、いくつか苦手なものがありますが・・・。食材を自由に選ぶことができて、助かっています。旅先でもいろいろな郷土料理を一緒に楽しむことができ、食文化に親しむ機会が増えたように思います。
ほかにも、用事が立て込んでいましても、余裕をもって時間を守られていることには敬服しております。私は自分の時計の針を早く進めても、遅れ気味になってしまいます。もっとも、行事の前に私のところにいらして、あと何分と言われると、プレッシャーを感じますが・・・。
お互いの気づきや発見がいろいろあり、自分と違う考え方だなと感じるいっぽうで、共有できる見方もありました。また、理解するのが難しかったこともあれば、言葉を交わさずとも心が通じ合うようになり、助けられたことも多々ありました。
秋篠宮さま
そうですね。結婚するまでまったく異なるところで暮らしてきたわけですから、考え方などで共有できるところとそうでないところがあるのは当然のことでしょう。その上で、我が家の場合に限って言えば、経験を共有することと趣味を共有しないことがよかったと思います。経験は共有することで将来的に発展しますが、趣味、たとえば、あなたが瓢箪に興味をもってそれを共有したとすると競ってしまいますので、良好な関係でなくなる可能性大です。趣味はそれぞれ楽しみましょう。
紀子さま
それぞれの趣味もありますが、一緒に音楽を聴いたり、自然に親しんだり、旅行にでかけたりという時間も楽しいですね。
【夫、妻、親として】
秋篠宮さま
さて、ときどき夫もしくは親としてどのように認識されているのか気になることがあります。あなたも同様でしょう。最後に評価でもしてみませんか?
紀子さま
気にしているかどうかわかりませんが、面白そうですね。
秋篠宮さま
本来であれば、第三者、まったくの第三者というわけにもいかないので、私以外の家族に委ねなくてはいけないのでしょうが、それをするにはまず自らを振り返ることが必要です。とはいうものの、あなたと子どもたちから私の評価を聞くことは、今までの自分の行いを考えると少し怖い気もするので、今回はあくまで自己点検・評価でいきましょう。
きちんとした項目立てをして、優・良・可・不可で客観的に点検および評価をしたわけではありませんが、漠然としたメルクマールからすると、私の場合には限りなくボーダーラインに近い「可」といったところでしょうか。
紀子さま
私も仲良く「可」にいたします。いろいろな可能性を秘めている「可」ということでいかがでしょうか。
秋篠宮さま
おたがい、改善点が多いということですね。「良」や「優」は、今後の努力目標とすることにしましょう。
紀子さま
はい。これからも、可能性を大事にしつつ、努力目標にむけて一緒に年を重ねていくことができれば幸せに思います。
秋篠宮さま
それでは、このあたりで終わることにしましょうか。
紀子さま
そうですね。ありがとうございました。
いいですね
自然です
嘘偽りのない姿
親子の愛情
夫婦の絆
そんなことを大袈裟にせずとも
会見の言葉の端々に
しっかりとあらわれている
その根底にあるのは
自分らの生き様を
隠し立てすることなく
言葉にできるからこそ
ということである
その正反対にアレラがいる
アレラの嘘偽り・虚栄・傲慢・錯覚・驕り
そういう記事や噂が出てくるたびに
秋篠宮ご一家の「正常」さがよりはっきり見える
そう
これだけハッキリ見えているのに
異常なアレラの方ばかり見て
不安になって
両陛下をバッシングしている人たちがいる
アレラが最も恐れているのは
周囲から注目されなくなることである
出掛ける先々にサクラを動員するのも
参内するのにマスコミ呼んでお手ふりパレードするのも
出掛けた先に
陛下に
用があるのではない
目立つため、注目を浴びるため
”だけ”
のパレード
それだけの為に
アレラの目的がある
だから
いつでも
笑っている
だから
いつでも
手を振るのである
アレラが流す演出が
如何にバカバカしい虚偽まみれかは
今迄の記事を見ればわかるだろう
アレラが自身の本当の姿を話すのは
自身の「スライド」を紀子妃や皇后陛下の噂として流すこと
672 野火 sage New! 2015/07/03(金)23:43:34 ID:BGR
この言い方が正しいかどうかわからないが
ヒデンカさんの顔のまわりに見えない壁か膜のようなものがあって、
それは本人の思考で出来ているのだ
だからこの人は常に自分の思考の膜を透して世界を見ているし
膜のせいで半分ぐらいしか世界は正しく見えていない
この外側の膜にエネルギーが使われ過ぎて、本来あるべき内側の思考が砕けて作動しなくなっている
(これをオッサンは「裏返った」という)
赤ん坊のような表情を見せるのはそのためだ
記憶力も判断力もない
目は思考の膜に映る幻覚を見ている
瞳がやたらと動くのはそのためだろう
これをいわゆる統合失調というのだろうと思うが定かでない
病的にアッパーなときと激しくダウナーなときがあるだろうと予測する
なぜ今回外国に行かせたかは、恐らく刺激を与えたら治るのではないかとオワダ両親が考えたのだろう
治らんがね
677 野火 sage New! 2015/07/04(土)00:35:38 ID:vpe
皇太子は説明が難しい
この人はある意味「投げ出して」しまっておる
自分では判断も決断もできんので
「どうなるか知らないがなるようになれ」と言った具合だ
それだけでない
嫁さんの両親から双方の業を受け取ってしまっているらしい
洗脳と言えばまだ聞こえは良い
己の高貴な生まれを引きちぎって、あちらに婿入りしたような具合だ
誠に現代日本の象徴
文字通り血を立場を内側から乗っ取られている
二匹の貪欲な蛇が身体を喰い千切って血に入り込んだ
この人の内側にはオワダ思考、オワダエネルギーがギッシリ詰まっているのである
(嫁ではない、両親である)
にも関わらず無能ゆえに投げ出してもいるのだ
どす黒い表情は、投げ出したものの行方を冷めた目で見ているからである
いまや皇統に伝わる考え方や秘伝はきれいさっぱり消え失せた
オッサンは断言するがこのオワダの業からくる冷えて捻れた思考エネルギーは体内で癌化する
内臓の下部と予測する
ああ
これ
これを
ハッキリ聞きたかった
アレラの病理
抽象的に視える人たちは語っていた
私は
雅子の病理を表現する際の統合失調症というものが
脳の病気という場合、どういう症状がどういう風なものなのか
そこを知りたかった
徳仁の血の病、内臓疾患と
この人の過ち=魂レベルと
具体的なつながりを知りたかった
これでわかった
癌との関係も
なるほど
そうだったのか
私の中で、絡まった糸がほどけた
秋篠宮ご夫妻 「結婚25年にあたって」全文
6月29日 7時06分
秋篠宮ご夫妻は結婚から25年の「銀婚」を迎えるにあたって、対談形式の文書で感想を表されました。その全文です。
【出会い】
秋篠宮さま
今年は結婚をしてから25年が経つようです。時間は常に経過していますので、取り立てて25年に意味づけをするものではないと思いますが、少し振り返ってみるのも記憶と記録を整理する上でよい機会かもしれませんね。
紀子さま
はい。私たちの今までを整理する方法のひとつとして、対談の形もあるのではないかとのお話になりました。このような形に慣れておりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
秋篠宮さま
もっとも、結婚する前にしばらく付き合っていた時期があるので、そのあたりから始めましょうか。いつのことか覚えていますか?
紀子さま
30年位前になりますでしょうか。私が大学1年生の春、本を探しに大学内の書店に立ち寄りましたとき、初めてご挨拶をさせていただきました。
秋篠宮さま
私の記憶に間違いがなければ、1985年の5月のことです。ちょうどそのころ、各地の文化や自然を楽しむことを目的としたインター・カレッジのサークルを作ったので、そこに誘ったところ喜んで入ってくれました。白川郷の合掌集落などずいぶんあちらこちらに出かけましたね。
紀子さま
はい。いろいろなところを旅行して、地域の豊かな文化や多様な自然にふれることができました。
秋篠宮さま
そして1986年、ある集いがあった後、あなたを送っていく途中に・・・。
紀子さま
二人で信号を待っておりましたとき、突然、将来のことについてのお話があって、びっくりいたしました。大学卒業後は、海外の大学院に行くことを考えていましたので、どのようにお返事をしたらよろしいかと迷い、考えさせてくださいとお話しさせていただいて。 .
【結婚にむけた準備】
秋篠宮さま
少し時計の針を進めましょう。私が大学を卒業したのが1988年ですが、その年の夏から暫くの間英国に滞在しました。この間、昭和天皇のご不例と崩御があったことから、しばしば日本に帰ることになりました。日本にいる間は、諸行事に参列するためだったのですが、そのおりに、将来のことについていろいろと話す機会にもなりました。そして、1989年の9月に公表するに至りました。これはいわゆる結納に当たる正式な婚約ではなく、皇室会議の議を経て婚約が内定したということを発表する機会でした。服喪中のこうした発表は異例なことと思った人がいたようですが、1951年7月の順宮(現池田厚子)様の発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後で、しかも当時参考としていた旧皇室服喪令によると、私たちの発表時期より一段階重い服喪期間中でしたので、手続きを終えたという発表は前例にもあり問題ないと宮内庁は判断したわけです。
そして、私たちの結婚の時期についてです。秩父宮両殿下のご婚儀が1928年9月末で、昭和天皇の即位の礼が同年の11月初旬。その間は2ヶ月もなく、大変だったことを両陛下が聞いていらしたそうです。そのようなことから、私たちのときには、結婚から同じ年の11月予定の即位の礼までにある程度の時間があったほうがよいとのことで、私が帰国した直後に式がおこなわれることになりました。
紀子さま
とてもありがたい思し召しを賜り、感謝申し上げております。
秋篠宮さま
話が少し前後しますが、昭和天皇の一周年の行事が終わり、私は1990年の1月から6月にかけては英国に滞在していたわけですが、その間、新たに住む家については、あなたに任せきりでした。もっとも、改築の平面図を見てもイメージすることができない私より、多少は空間認知に優れているあなたが見る方がよかったのは明らかでしたが。
今のは自分にとって都合のよい言い訳なのですが、実際のところ帰国したのが6月21日で、6月29日の結婚式までは約1週間しかなかったことを考えれば、新居での生活の準備は完全にあなたへ依存していたわけで、このことについては申し訳なかったとしか言いようがありません。
紀子さま
いいえ。むしろ、英国よりのご帰国を待っていたのかのように、式までの約1週間、宮中行事の習礼をはじめ、関係者とのこまかい打ち合わせが多くおこなわれましたが、時差がある中、大変ではありませんでしたか。
秋篠宮さま
幸いなことに、私は一般的に言われていることとは逆で、若いころは東へ向かうほうが時差の影響が少なかったため、それで大変ということはなかったと思います。
紀子さま
新しい生活にむけての準備や支度は初めてのことばかりで、新居について、相談をしたいと思いましても、当時は連絡手段としてメールはまだ普及していなくて、電話やファクシミリで、英国との時差もあり、すぐには連絡がとれない状況でした。式までに考えるべきこと、決めるべきことがたくさんあり、大学院の講義も受けていましたので、時間が経つのが早く、準備を終えられるか心配でした。
そのような中、宮内庁の職員が、改築や内装をはじめ、よく考え、提案してくれました。そばにいらしてくださったら、どんなに心強いかしら、と思うことはありましたが、いろいろな人の助けを借り、用意をある程度進めることができました。
帰国されたときは、本当にうれしく、それまでの不安もどこかにいってしまうくらいでした。
【結婚の日と新居】
秋篠宮さま
さて、1990年6月29日の結婚の日は、結婚の儀にはじまり朝見の儀、その他の諸行事が朝からたくさんあり、夜の10時頃でしょうか、一息ついたときにようやく結婚したことを実感した記憶があります。もっとも、その翌日からもいろいろと行事があったので、何となく慌ただしかったですけれどね。
紀子さま
はい。このよき日の行事を滞りなく終えたときは、安堵いたしました。
大学院生としての日々から、公的な仕事をする生活となったことは、大きな変化でした。そうした中で、折にふれて、両陛下が導いてくださり、あたたかくお見守りくださいました。各宮妃殿下方にも、行事の所作や服装などを丁寧に教えていただきました。さまざまな形で多くの人から支えられましたことを、ありがたく思っております。
秋篠宮さま
少しばかり新居となった家のことを話しましょうか。というのは、私にとって10年ほど過ごしたこの家には、けっこう思い出があるからです。
当初、宮内庁は新婚の我々のために、仮住まいではあるけれど同じ場所に新たな家を建てることを考えていました。しかし、いずれ何処かに居を構えるのに、仮住まいのために立て直すその計画は無駄が多いように思い、現存している建物を一部改築して使いたい旨伝えました。たしかに大勢の人とそこで会うのには適当ではありませんでしたが、こぢんまりとしていたぶん、非常に落ち着く場所でもありました。玄関を入って少し大きな声で呼べば、どこにいても大抵聞こえたのではないでしょうか?
結婚後の生活をあの家でできたことはよかったと思っています。
紀子さま
約60年の木造家屋を、二人で過ごせるように直して、新しい生活がはじまりました。そして、娘たちの誕生にあわせて部屋を増やしました。その中で、娘たちは成長していき、子どもたちの元気な声が響き、ギターやピアノの音もよく聞こえる、温もりの感じられる家でした。
秋篠宮さま
今の家からは近くにあるので、この前行ってみたのですが、子供たちが小さい頃に遊び回っていたことを想い起こし懐かしく感じました。彼女たちも気に入っていましたよね。
紀子さま
はい。今の家に移りましてから、またあちらの家で住みたい、と娘たちが話していたこともありましたね。
【日本国内・海外の訪問などに関連して】
秋篠宮さま
ところで、結婚後には公的私的は別にして、日本の各地や海外を訪問する機会がたびたびありました。また各種の行事にも出席をしてきました。訪問場所や行事そのものというより、それらに関連して何か印象に残っていることはありますか?
紀子さま
この25年の間に、日本国内、国外でいくつもの場所を訪問し、行事に出席いたしました。そして、さまざまな出会いがあり、多様な分野の人のお話を伺ったり、取り組まれている活動を見せていただいたりするなど、貴重な経験をいたしました。
秋篠宮さま
そうですね。各地で温かく迎えてくださる方たちがいることは、うれしいしありがたいことです。
紀子さま
また、健康作り、子育て支援や食育など、幼児から一人暮らしの高齢者まで地域の人々の暮らしを見守っている方々にも多くお会いしてきました。心強い活動と感じています。
秋篠宮さま
私の場合には、たとえば学術や環境関係の授賞式等でご縁のあった人や団体が、その後さらに発展した形で社会への貢献をしたときなどは、とてもうれしく感じます。
公的ということに関連して、あなたもよく知っているように、皇族には国事行為の臨時代行以外に公務は存在しません。あくまで公的な行為もしくは活動であり、言葉としてきちんと区別するべきものと考えます。そのような公的な仕事は、公務と異なりある程度自分の裁量で取捨選択ができてしまう。そのようなことから、声をかけていただき、それらが適当と判断されたものについては、できるだけ応えるように心がけてはいます。
紀子さま
私もそのように努めてまいりました。そして、公的な活動でも、生活の中でも、宮家に関わる宮内庁や皇宮警察の職員をはじめ、さまざまな形で支えてくれる人たちがいることを大切に思っています。
秋篠宮さま
いっぽう、これは私的なことになりますが、国内外であなたとは一緒でなく訪れている場所もけっこうあります。なかには、一緒に行ってみたい場所もありますので、近い将来の楽しみとして考えることにしましょうか。
ちなみに、この時は眞子と一緒だったのですが、かなりの悪路ではあるものの、マダガスカルのチュレアールからムルンベへ行く途中に3種類のバオバブやパキポディウムを見ることができ、コーデックス好きにとっては素晴らしい12時間半のドライブを楽しみました。もちろん、ほぼ同じ時間をかけて帰ってきたのですが、ムルンベのバオバブの景観は本当に素晴らしいですよ。
紀子さま
いつか見てみたいですね。
【子どもたちのこと】
紀子さま
子どもたちが小さいときは動物園や博物館にでかけ、また、一緒に旅行もしました。その他にも、子どもたちとはたくさんの思い出がありますね。
秋篠宮さま
先日、英国にいる眞子から父の日のカードが送られてきました。普段は必要最小限の連絡事項をメールでしているだけなので、妙にうれしい気分になりました。久しぶりだったからかな。
紀子さま
すてきですね。私も眞子より母の日に羊の親子のカードを受け取りましたときは、胸が熱くなりました。
秋篠宮さま
佳子とは比較的最近のことですが、珍しく一緒に買い物に出かけたことがありました。父親にたいしてつっけんどんな態度のことが多いのですが、意外と優しいところもあり、私が自由に選んだものについて、代わりに会計をしてくれました。もっとも、帰りに彼女にそのまま荷物を持たせていたら注意されましたけれどね。
紀子さま
ほほえましいですね。佳子が小さかったとき、誕生日によく手作りのものを贈ってくれました。幼稚園のときだったでしょうか。私の誕生日に2つの贈り物を考えていたのですが、先に作った貝殻の贈り物を私に見せたくて、早めに渡してくれました。そのあと、誕生日にもうひとつの贈り物をもらい、お祝いを2回してくれた、かわいらしい思い出もあります。
秋篠宮さま
悠仁もしばしば折り紙などの作品を届けてくれます。上の子どもたちと同様、もらったものには年月日を付して、飾ったり、保存したりしています。最近は、絵も上手になってきましたね。自分が絵を描くことが下手なので言うわけではありませんが、何かを観察してそれを絵として表現できると旅をしたときの記録として意味が出てきますので、どんどん描いてほしいものです。
紀子さま
絵を描いたりするほかにも、切り紙をしたり、厚紙で入れものをつくったりしながら、いろいろなものを創り出すことを、悠仁は楽しんでいますね。
私たちの手許には、子どもたちの小さいときからの作品がいくつもあります。どれも大事な宝物。普段なにげなく描いた絵から、本に登場する主人公や生き物などを描いたものが廊下の壁にかかり、折り紙やペーパークラフトが部屋に飾られています。
【結婚したころと今と】
紀子さま
ここで、結婚したころと、それから25年たった今のお気持ちを伺ってもよろしいでしょうか?
秋篠宮さま
このような機会がないと考えることもないですからね。
1990年というのは、ついこの間のことのように思えますが、やはり相応に時間がたっているということを感じることはあります。仕事や研究などでいろいろな事柄を解釈・判断するときに、若いころでは思い至らなかったことが多々あると感じます。そのことで、ずいぶんと周りに迷惑をかけたことがあるように思います。
もちろん、いまだに不十分で、反省と後悔すること多々ありです。精神年齢が未だ20代から進化していないのでしょう。
紀子さま
私も結婚をしたころは、慣れないことや戸惑うことがあり、考えすぎることや力を入れすぎて、ご迷惑をおかけしたことがいろいろあったのではないでしょうか。今は遅ればせながら、力を抜くこつが少しずつわかってきたように感じていますが。
このようなことにも「進化」という見方があるのですね。今でも、20代のときのような探究心や若々しい感性や創造性をおもちになっているのではないでしょうか。例えば、研究会に参加されているときには、そのように強く感じることがあります。
秋篠宮さま
たしかに研究会等への出席は、今まで自分がもっていなかった知識を得る機会にもなり、有意義に感じることが多くあります。まだまだ好奇心は残っているなと。出かける前と帰ってきた後とでは、テンションが違うと感じることがあるでしょう?
紀子さま
はい。お話しくださる様子から、心がはずむ時間を過ごされたのではないかと感じることがあります。
秋篠宮さま
いっぽう、フィジカルな面は劣化していますね。走り回ることについては、佳子が小学生の時にリタイアしてしまいましたが、最近不便に感じているのが老眼。もともと遠視があったので遠からずそうなるだろうと予想はしていましたが、眼鏡が放せなくなってしまいました。まあ、いたしかたないことではありますが。
紀子さま
私も小さい字が急に見えにくくなりました。また、疲れたとき、回復する時間が以前に比べてかかるようになりました。
毎朝のように散策をされたり、休みの日には庭仕事をされたり、よく身体を動かされていますね。週末は、散策に私も誘ってくださいますので、四季の移り変わりを感じながら歩くこの時間は、健康のためにも、楽しみのためにもありがたいです。
秋篠宮さま
25年というと、親・兄妹と過ごした年月より長く一緒にいたことになります。それだけの期間をともに過ごしていれば、共有することができた貴重な経験は数多くあります。また、誰かの言葉を借りれば導火線が短い私ですので、口論も多々あるのはごく普通のことでしょう。そのようななかで、ほとんど言葉に出さないので不満かもしれませんが、感謝の気持ちもきちんともっていますよ。
紀子さま
それはうれしいです。
秋篠宮さま
さまざまな書類、私の所に届くまでに不明な点などを整理しておいてくれますね。これは非常に助かっています。
紀子さま
まだまだ至らないところもあると思いますが、そういう面でもお役にたっておりますなら、幸せです。
秋篠宮さま
また、昔から何故か階段を踏み外しやすいことから、階段のあるところでは、滑り落ちないようにさりげなく支えてくれていますね。周囲から見ると、私があなたを支えているように見えているかもしれないけれども。
紀子さま
こちらこそ、いつもこまやかにお教えくださり、また健康面も気遣ってくださり、深く感謝しております。
また、一緒に生活をするようになってからわかったことですが、食べ物の好き嫌いがほとんどありませんね。私は、いくつか苦手なものがありますが・・・。食材を自由に選ぶことができて、助かっています。旅先でもいろいろな郷土料理を一緒に楽しむことができ、食文化に親しむ機会が増えたように思います。
ほかにも、用事が立て込んでいましても、余裕をもって時間を守られていることには敬服しております。私は自分の時計の針を早く進めても、遅れ気味になってしまいます。もっとも、行事の前に私のところにいらして、あと何分と言われると、プレッシャーを感じますが・・・。
お互いの気づきや発見がいろいろあり、自分と違う考え方だなと感じるいっぽうで、共有できる見方もありました。また、理解するのが難しかったこともあれば、言葉を交わさずとも心が通じ合うようになり、助けられたことも多々ありました。
秋篠宮さま
そうですね。結婚するまでまったく異なるところで暮らしてきたわけですから、考え方などで共有できるところとそうでないところがあるのは当然のことでしょう。その上で、我が家の場合に限って言えば、経験を共有することと趣味を共有しないことがよかったと思います。経験は共有することで将来的に発展しますが、趣味、たとえば、あなたが瓢箪に興味をもってそれを共有したとすると競ってしまいますので、良好な関係でなくなる可能性大です。趣味はそれぞれ楽しみましょう。
紀子さま
それぞれの趣味もありますが、一緒に音楽を聴いたり、自然に親しんだり、旅行にでかけたりという時間も楽しいですね。
【夫、妻、親として】
秋篠宮さま
さて、ときどき夫もしくは親としてどのように認識されているのか気になることがあります。あなたも同様でしょう。最後に評価でもしてみませんか?
紀子さま
気にしているかどうかわかりませんが、面白そうですね。
秋篠宮さま
本来であれば、第三者、まったくの第三者というわけにもいかないので、私以外の家族に委ねなくてはいけないのでしょうが、それをするにはまず自らを振り返ることが必要です。とはいうものの、あなたと子どもたちから私の評価を聞くことは、今までの自分の行いを考えると少し怖い気もするので、今回はあくまで自己点検・評価でいきましょう。
きちんとした項目立てをして、優・良・可・不可で客観的に点検および評価をしたわけではありませんが、漠然としたメルクマールからすると、私の場合には限りなくボーダーラインに近い「可」といったところでしょうか。
紀子さま
私も仲良く「可」にいたします。いろいろな可能性を秘めている「可」ということでいかがでしょうか。
秋篠宮さま
おたがい、改善点が多いということですね。「良」や「優」は、今後の努力目標とすることにしましょう。
紀子さま
はい。これからも、可能性を大事にしつつ、努力目標にむけて一緒に年を重ねていくことができれば幸せに思います。
秋篠宮さま
それでは、このあたりで終わることにしましょうか。
紀子さま
そうですね。ありがとうございました。
いいですね
自然です
嘘偽りのない姿
親子の愛情
夫婦の絆
そんなことを大袈裟にせずとも
会見の言葉の端々に
しっかりとあらわれている
その根底にあるのは
自分らの生き様を
隠し立てすることなく
言葉にできるからこそ
ということである
その正反対にアレラがいる
アレラの嘘偽り・虚栄・傲慢・錯覚・驕り
そういう記事や噂が出てくるたびに
秋篠宮ご一家の「正常」さがよりはっきり見える
そう
これだけハッキリ見えているのに
異常なアレラの方ばかり見て
不安になって
両陛下をバッシングしている人たちがいる
アレラが最も恐れているのは
周囲から注目されなくなることである
出掛ける先々にサクラを動員するのも
参内するのにマスコミ呼んでお手ふりパレードするのも
出掛けた先に
陛下に
用があるのではない
目立つため、注目を浴びるため
”だけ”
のパレード
それだけの為に
アレラの目的がある
だから
いつでも
笑っている
だから
いつでも
手を振るのである
アレラが流す演出が
如何にバカバカしい虚偽まみれかは
今迄の記事を見ればわかるだろう
アレラが自身の本当の姿を話すのは
自身の「スライド」を紀子妃や皇后陛下の噂として流すこと
672 野火 sage New! 2015/07/03(金)23:43:34 ID:BGR
この言い方が正しいかどうかわからないが
ヒデンカさんの顔のまわりに見えない壁か膜のようなものがあって、
それは本人の思考で出来ているのだ
だからこの人は常に自分の思考の膜を透して世界を見ているし
膜のせいで半分ぐらいしか世界は正しく見えていない
この外側の膜にエネルギーが使われ過ぎて、本来あるべき内側の思考が砕けて作動しなくなっている
(これをオッサンは「裏返った」という)
赤ん坊のような表情を見せるのはそのためだ
記憶力も判断力もない
目は思考の膜に映る幻覚を見ている
瞳がやたらと動くのはそのためだろう
これをいわゆる統合失調というのだろうと思うが定かでない
病的にアッパーなときと激しくダウナーなときがあるだろうと予測する
なぜ今回外国に行かせたかは、恐らく刺激を与えたら治るのではないかとオワダ両親が考えたのだろう
治らんがね
677 野火 sage New! 2015/07/04(土)00:35:38 ID:vpe
皇太子は説明が難しい
この人はある意味「投げ出して」しまっておる
自分では判断も決断もできんので
「どうなるか知らないがなるようになれ」と言った具合だ
それだけでない
嫁さんの両親から双方の業を受け取ってしまっているらしい
洗脳と言えばまだ聞こえは良い
己の高貴な生まれを引きちぎって、あちらに婿入りしたような具合だ
誠に現代日本の象徴
文字通り血を立場を内側から乗っ取られている
二匹の貪欲な蛇が身体を喰い千切って血に入り込んだ
この人の内側にはオワダ思考、オワダエネルギーがギッシリ詰まっているのである
(嫁ではない、両親である)
にも関わらず無能ゆえに投げ出してもいるのだ
どす黒い表情は、投げ出したものの行方を冷めた目で見ているからである
いまや皇統に伝わる考え方や秘伝はきれいさっぱり消え失せた
オッサンは断言するがこのオワダの業からくる冷えて捻れた思考エネルギーは体内で癌化する
内臓の下部と予測する
ああ
これ
これを
ハッキリ聞きたかった
アレラの病理
抽象的に視える人たちは語っていた
私は
雅子の病理を表現する際の統合失調症というものが
脳の病気という場合、どういう症状がどういう風なものなのか
そこを知りたかった
徳仁の血の病、内臓疾患と
この人の過ち=魂レベルと
具体的なつながりを知りたかった
これでわかった
癌との関係も
なるほど
そうだったのか
私の中で、絡まった糸がほどけた