2024/12/26
資料紹介 ― 第一東京市立中学校同窓生会誌『風鳥 第四号』
年末大掃除、というほど気張ってのものではないが書庫の整理をしていた。
でまあ、大体の本は「これはどこそこで買ったもんだな」と案外に覚えているものながら、中には「えーと、君はどこの誰?」みたいなのも発掘されるわけで。
本ブログに幾度か書いているように、【○○会が発行した冊子】みたいなのは何の集まりか書かれていないことがちょいちょいある。なぜなら集まっている人間にとってそれはあまりに当たり前のことであり、どうせ読むのは身内のみ、改まって記載する必要はないからだ。後年古本で拾う身としては勘弁していただきたいもんだが是非もなし。
本冊子も、管見の限りどういった集まりによるものか明記されておらず、あれこれと調べてみたら、どうも第一東京市立中学校の同窓生による会誌のよう(※1)。
また、内田恵造(報知新聞社社長)、田中常光(写真家)、廣野信衛(東京計器社長)、三輪雄次郎(三代目・三輪善兵衛の息子)といった名前が並び、流石は第一東京市立中学校という感ある。
個人的には巻末のアンケートが大変面白かった。
お題は「終戦のころ、あなたは、どこで何をしていましたか」(※2)。
その中から二つほど紹介させていただこう。
一つは陸軍二等兵として終戦を迎えた海本徹という方の文章。
飛行場の整備を任務としていたが空襲により飛行機が全滅、山奥に疎開して数日後に終戦を迎え……以下引用。
幸い独立中隊で、中隊長が中国で戦争の負け方をよく知っていた人で、十七日には書類等焼き払い、唯一の武器でした剣を信濃川の川の中に投げ込んで、中隊を解散してくれました。お陰様で十八日には自宅に帰ることができました。何でも西荻窪の駅を通った復員兵としては二人目だったそうです。
西荻窪駅を通った二人目の復員兵……横溝小説の導入感ある。一人目の人もどっかに文章残してたりしないかなあ。
二つ目、終戦時は茨城県下館航空地区司令部で事務をされていた宮脇龍雄という方の、陸軍と海軍の不和を示すエピソードも興味深い。
米軍上陸に備え、「秘匿飛行場」と称して、田畑の中の真っすぐな道を簡易滑走路に改装する工事をあちこちでやったが、海軍が作ったと聞くと、陸軍がそのすぐ隣に、しかも交差する角度で作る。お互いの邪魔で使い物にならないだろうに。陸軍と海軍は、米軍以上にお互いを憎んでいた。
交差する滑走路……旧日本軍有識者にとっては知ってて当然の話なんかもしれんが、私なんぞは「へー」と思うばかりである。
さてこの『風鳥』、当然の如く何号まで発行されたのか全くわからない。「編集後記」を読むと、次号は出す気満々だったようだが実際はどうだったのか。1~3号含め、またどこかの古書市で出会えることを気長に待つとしよう。
- ※1 笠原幸雄の文章タイトルが「市立一中、風鳥会について思い出すこと」なのをヒントにし、岡部達郎「戦時中のこと」に「中学時代は、(※引用者注―林迶と)席も離れており、深い付き合いはあまりなかったが(…)」、細野耕二「林君のことども」に「私が先生(※引用者注―林譲治のこと)の息子と中学同級なんだと言うと(…)」とあるので中学時代の集まりと思われ、書き手の一人で写真家の田中光常の母校が第一東京市立中学校(「田中光常 日本美術年鑑所載物故者記事」東京文化財研究所/閲覧日 2024-12-26)、「市立一中」という略称とも符合する。さらに言えば、表紙に書かれた校章も第一東京市立中学校のものと合致し、これまもうまずもって間違いない……と思う。
- ※2 厳密にはアンケート項目は二つあり、もう一つは「近況」。