私の考古学入門暗記帳
【緒言】
史蹟を尊重する国家は国運益々発展すると云う。吾輩は詔書の御趣旨を泰載して国運の発展を願う者なり故に史蹟を尊重す。 史蹟調査を無視する国家は国勢日々に衰退すると云う。吾輩は国勢の隆盛を図る者なり。故に史蹟調査に忠実を致す。史蹟を破壊する国家は国民終に滅亡すると云う。
吾輩は国民の繁栄を期する者なり故に史蹟の保存に熱誠を盡(つく)す。此頃某新聞に大体斯んな事を書いてあった。曰く「日本では茶人、骨董家として言えば天下の遊民だの無為の閑人だのとて天頂から茶化し捲くる風習がある。甚だしきに至っては社会の邪魔者扱いにするとは如何にも情けない仕打である。然るに泰西の文明国では元来国費を以って骨董を保護して居るは勿論欧州戦乱の時敵軍都市に迫ると云う場合他事を措いても軍隊をして保護した云々」
国勢の隆盛を図る国家は茶人の骨董に対するも如此であると云うから吾帝国も吾輩考古学史料探険者に対し何らかの便宜を與えても良かるべし然り。誰も頼まぬ芸当とは言うものの吾輩は古蹟名勝、天然記念物の調査の任務を自任しつつある者なり。 所謂骨董屋と同一に茶化し捲くらるる者には非ざるなり呵々。
他国の人がかつて批評して曰く、佐渡人は史蹟名勝を冷遇する云々又曰く、史蹟名勝を虐待する云々、右は吾輩佐渡人の大に反省を要する問題なり。若し批評の言当れりとせば結局佐渡人は郷土の滅亡を招く国民となるでは無いか。史蹟冷遇の一例をば示さば曰く、三宮の宮ノ脇の貝塚の如きは本稿の古墳の巻に抜粋してある如く北国六県に渉(かかわ)る日本海岸に他に見る事の出来ない史蹟であるにも拘らず地元町村が何等の保存法も講ぜず、又新潟県の史蹟名勝保存会の問題にも提出しないではないか。
更に論議を進めて史蹟破壊の一例を示さん金沢村貝塚の貝塚の如き毎年毎年麦を作り大根を蒔く為に貝層を打ち返すから、今は容易に貝層を見出すに苦しむ程度に至りて居る。成程其土地は所有権者ありて耕すも崩すも随意勝手であると言えば夫(それ)までだが、再び得難い重実の史蹟を僅か麦の収穫の犠牲にして憚(はばか)らざるとは権利の乱用も甚だしいではないか。
史実参考品を採収し、若しくは貯蔵するも宜しいが他国の商人が来て比較的高額に買うとせば、直に売り飛ばす者があるから甚だ不安心だ。夫れも無知蒙昧の土百姓か骨董屋の所為なれば怒すべきも苟(いやしく)も佐渡の考古学研究者であり、佐渡の国史参考品の保存家を標榜しながら金に目を暗まされて密に骨董的の所為あるとせば吾輩は皷(つづみ)を鳴らして責めねばならぬ。左無きだに私共は先年より石器、土器を採収して其出土地の区別を立てず、今は錯雑混同した為学術研究の障害を造ったのを残念に思うている。
【石器の部】
近頃は佐渡でも大分考古学に趣味を持つ者が出て来たとともに、他国より佐渡の考古学を調査に来てくれる者があるから、ここに烏滸ヶ間敷(おこがまし)くも私の考古学入門以来の経路やら先輩から聞かされた事やらを書いて同好者に紹介し且つ其の誤謬の處は叱正を請いたいと思い、自ら題して考古学暗記帳とした。
言うまでもなく暗記帳は暗記帳にして断片的に思い出しては書き思い出しては書くのであるから、前後秩序の纏(まとま)る筈は無いことをあらかじめ断って置く。考古学というものも以前は石器時代の遺物程の狭義に留まっていたが、今となっては頗(すこぶ)る広義にわたって来たから、それぞれ部門を分つべきなれども、これも暗記帳であるから自然に混同したり重複したりして読みづらく見苦しい事もあらかじめ承知して貰いたい。
一、石器時代、石器類という言葉は近世になって始めて聞いたけれども、石器そのもののありし事は古来聞き伝えてあった。所謂、2月9日の山の神の祭典で神が矢を射るから危険だというから、それが私の幼年の時の脳裏には恰も鎮守の森の祭典の流鏑馬(やぶさめ)そのままの如くに書いてあった。
一、慶応元年頃であろう私の十歳位の時、隣家の吾吉という爺さんに「山の神の矢なるものは如何なる物か」と質問したれば、爺さんは所持の矢の根石というものを見せてくれた。それを今私の脳裏に描いてみると相川鉱山の吹割石(一名六万石)の折れを見る如きものであったと推測する。故に真の石鉱であったか如何は今更明瞭で無い。
一、明治元年であろう。私の十二三歳頃、中興の親類へ仏事に呼ばれて行った時、年長の友人に従って彌左衛門城(今の農会堂敷地)という處へ矢の根を拾いに出たが、私は何も拾い得た覚えはない。ただ年長者連が「これは雁服(やりまた)、これは鏑矢(かぶらや)杯」と誇り立てた事を記憶している。但し連中は何の目的で何の必要があって拾いに出たかは無論考えて居ない。古来の迷信的伝説により護身用に欲しかったのか、若しくは子供心の好奇心であったのだろう。
一、その後(明治十年頃)、先輩高橋磯次郎という兄分から斯んな事を聞かされた。曰く「昔、武士は大刀の目貫(めぬき)に矢の根石を使用したという。是は悪魔除けになる。但し無疵(きず)のを選ぶべきであるから容易に得がたい云々」この話が何によって起こったか記憶せぬが、今で言うところの『人類学』の領分の研究まで踏み込んでいた筈はないから定めて神話的であろう。
因に記す二見村でも西三川村でも、漁師は「チゲバコ」の中へ矢の根石を一個入れて置いていつも護身用の御守りとしたと云う。 また西三川方面では古代より雷斧石を温石(おんじゃく)と称して今の「ユタンプ」同様に使用したと云う。私の郷里泉村方面ではそんな事はなかった。国仲方面より海府方面では鵜島村産の温石を使用したからであろう。
一、是より数年後に浦川へ矢の根石を拾いに行きたれば、樋口と云う家の老母が申すには「昔年は相川の御殿様から、矢石を納めよと言われて困ったが近年は不用になったかと思うたれば、又再び入用になるかしらんと云われた」之によりて考えるに幕府時代に佐渡奉行が徴発して江戸へ御土産物に贈ったことが証明される。
一、明治15、6年頃と思うがいろんな事を聞かされた。曰く、古く吾々の祖先の其の先の時代、即ち神代の頃は人智が幼稚であって金属を使用せなかった時には弓の矢も斧の類も総て石で造って用を足した云々。この話が今云う人類学が領域の事を耳に入りし最初である。
而してこれを私に始めて聞かした者は誰であるかおぼろげになって判然せぬ。按ずるに岩木、鵜飼、中山、柏倉、萩野等の先輩即ち其の頃早く東京へ出て新式の学校へ這入った者のように思う。或いは相川鉱山の技師外国人であったかもしれぬ。 そのとき私も成程古代は人智の幼稚で金属の精錬は知らなかったであろうとは思ったが、人類学の本領までは考える智識はなかった。
一、明治20年に私は内浦へ移住した。その後藤本亀蔵君から左の如き依頼状が来た。曰く、矢の根石が浦川から多く出ると云うに付き探険して一個送って呉れよ云々。右に付き早速浦川へ問い合わせた上、12個貯蔵していたるを佐竹守太郎君から貰うて藤本君に送ったれば、引続き藤本君は浦川へ採収に来た。然して矢の根なら破片でもよろしい幾つでも欲しいというから、私はその欲しい理由を追求したれば大体この様な答弁であった。
曰く「河原田分署長の島勝也氏の父に島元矩と云う老人あり。本草学に精通して藤本君、茅原翁等に実物享受をして呉れているこの老人は矢の根石を好み、己に数十個所蔵して尚幾らも欲しいという。同じ形の物あれば之も珍とし破片なればそれでも面白いという云々」 是を聞いて私は冷笑した。人間の癖は四十八癖とは古来の相場なれども余り馬鹿らしい癖もあるもの哉と思ったが、その後多年ならずして私もその癖に感染して仕舞ったことを思えば、人間は悉(ことごと)く馬鹿の結晶である矣。
一、明治20年11月北溟雑誌第1号に萩野由之先生が佐島遺筆と云う標題にてそんな事を発表してくれたのが恐らくは佐渡人一般に考古学を皷吹した權與であったと思う。曰く「(前略)貝塚と云うものは太古蒙昧の人民が耕耘を知らず魚介を食料とせし住居の遺趾にして概ね海岸に住居せし事人類学の許す所なり新保村の貝塚、鶴子の貝立(かいだて)小川村にも貝塚と云う地名あり(中略)太古人類の開化に進む順序を分かちて石器時代、銅器時代、鉄器時代となす(中略)此の国の石器は雷斧石則ち石剣の一種は羽茂本郷及西浜より出て石鉄は鹿伏村より出づ(中略)三千年前己に人類の蕃殖せし地にて(中略)史籍上の證據を云はご扶桑略記に能襲国鹿伏郡(さどのくにかぶすごうり)とあり(中略)鹿伏郡は鹿伏村の近傍を云う(下略)云々」(此の頃は萩野先生でさえ貝立を貝塚と誤って居た) 右の記事を読んで私は始めて人類学の趣味を感じたが、それでも石器を所蔵する気分は無い。
折々浦川へ行って拾うも直ちに望む者があればくれてしまった。然るにこの頃から茅原、藤本、堀篤蔵、佐藤卓宗(後の海潮寺和尚)山本半蔵の諸氏は多少貯蔵していた。このほか前にも記した如く御守として信仰的に所持した者は幾数十人あった筈だ。 然し今の西三川地方では石鉄を多く採取した人があったとみえて堀篤蔵老人が私にそんなことを聞かした事あり。 曰く「前山家に矢の根石を凡そ5合程所持している者あり。代金2円なれば売ると云うが買うても良かろうか云々」
一、私が石斧を始めて見たは浦川の佐竹守太郎君の家に泊した時ランプの台の押えに利用してあった之れは頗る大形の磨製であったが直ちに譲り受けて東京の萩野氏へ贈った。
一、人類学者として始めて佐渡へ来て調査した人は理学博士若林勝邦氏であった事を証明する為古き雑誌を抜粋して置きたい。明治24年8月北溟雑誌第46号に曰く『(前略)若林勝邦氏は歴史前野蕃時代の振合を取り調べ一大著書を為さん目的にて明治8年より夏期休業毎に諸国を巡回せるよしにて先頃当国へ渡航し種々探検せる所ありしが宿根木辺にては最も古き土器の破片杯を発見し叉西三川にて手に入りしと云う或家に持ち伝えし斧の形なる石にて是れぞ全く金属器以前に用いしものにて参考上有益なる物とて喜び居られたり。
尚同氏は矢の根の出所取調べを弊社へ依頼せり就いては是まで聞き得たる岬の金田新田鹿伏の道漢、大野の矢田ヶ瀬亀ノ脇、倉谷の天狗谷等なり云々』叉北溟雑誌第同年9月47号『(前略)矢ノ根石の出所(中略)加茂郡浦川村字宮ノ崎、雑太郡中興村字城同郡西五十里村字城ノ下云々』 叉北溟雑誌第同年10月49号『(前略)矢ノ根石は羽茂郡豊田より小木に至る沿道の村落及び羽茂本郷地方の田畑より何処となくポツポツ発見せるが多くは小高き山畑にあり 現に倉谷の字高塚高崎の字高野などの畑よりは何時でも三つ四つは拾い得べし。
三川の浅井時蔵氏の所有せる鎌石を一見せしに長一寸余にして其の形は鎌に似て其の質は頗る堅し。此の石は同氏が小布施白の畑より拾いしとて珍蔵せるものなり 叉斧石を所有せるもの此辺に幾人もあり(中略)叉加茂郡鷲崎弾野よりも往々出るとの通信あり云々』以上此の一項を総合して見れば当時本郡の石器時代遺物発見地及び人類学普及の実況を推測するに足るべし
一、私は若林勝邦氏と直接会見はせざりしも間接に森知幾君、植田五之八君より紹介して呉れた為め互いに意志は通じて居たが、氏は浦川の実地は見ず私と藤本君の調査を信用して著書に登録して呉れた後で、植田君から斯んな事を聞かされた。曰く『若林先生も川上に逢わぬことを遺憾だと言うたが、成程逢わせたかった先生は御自分の研究する人類学の外は人の談話は耳に入れない。
然して矢ノ根石や雷斧石斗りで無く古甕(かめ)の破片、法楽(ほうろく)の破片等の如き物も見当たる時は頗る興味を以って採収した時に泉の川上の屋敷近傍には古代の住民が遺した土器の破片があるとて感心した云々』 右土器採収云々は私共には何の意味も無く聞いたが、今となって見れば先生は其の頃巳に泉村に弥生式土器や祝部式土器の破片が耕地の表土に放散してあることを認めていた。而して私共は夫れより三十余ヶ年後、大正十四年に至り私の家の苗代田及川上宗家の苗代田地盤整理に及びて弥生式土器の高杯の稍形状を具備せるもの無数に掘り出したるを見て今昔の感に堪えない。
一、明治25年8月、本荘了寛上人主催の北溟雑誌5周年紀念会の展覧会場へ出品したる考古学材料の部を調べて見ると概ね次の通りである。
【土器の部】
土器と言うものと陶器と言うものと磁器と言うものとの区別は各六ヶ敷いが、私の茲に書いてみる處の土器とは「弥生式」と称するもの、「斎(いはいべ)甕式」と称するもの、「国分寺瓦」と称するもの、以上三種を混同してあり、或いは石器時代土器(一名アイヌ式土器)若しくは籠目甕、屋根瓦の事も含有する處もあるべきに付き強いて定義論や屁理屈は御免を蒙りたい。
是は私の眼識の幼稚の罪斗りで無く近頃学者間にもアイヌ式弥生化、弥生式アイヌ化と云う標語も使用している。私も此の頃僭越ながら弥生式斎甕化と称すべきものを発見したから、その意味に於いて判読を煩わしたい、是れ丈けを一言断って置く。尚、斎甕の字は略して祝部と書いてある事も承知して貰いたい。
一、私の頭脳へ今の弥生式土器其の物の印象を興えたのは考古学も骨董趣味もない年齢29歳の明治14年5月に大和の橿原神武天皇御陵前の某旅館に1泊した時である。その旅館の主人が土器の破壊したのを継ぎ合わせて全形を為したもの数個と破片数個を示し且つ書箋紙1枚に未版刷の図解の如きものを添えて示して御陵地より堀出した実況等など長々しく説明して聞かされた。
其の頃橿原神宮の建築も無く市街地にもならず今の言葉のバラックの飛家であった。旅館の主人とは言うものの御陵守兼務の如き人品であった夫故言う事が高尚で且つ懇切に説明して呉れたけれ共私共の耳には分かる様で分からぬ様で有難い様で有難くない様であった。其の色合いも土器の形も今尚脳裏に書いてある御話は替って私は明治27年頃加茂の福浦の善平屋敷へ石器採収に行きて地神の祠(ほこら)を伺いしに、祠の神前の香炉にでも利用したかの如き禅僧の携帯する鐵鉢形の土器が1つあった。
是れを一見すると直に先年橿原の主人が示した土器に似て居る事を感じたから、善平主人に是れは古代の貴重品なるべきに大切に保管して呉れよと注意して置いた。近世になりて新聞や雑誌に考古学が始めて弥生式土器と云う名称を発表した。私は直ちに福浦善平の土器を追懐して是なる哉と気附いて善平方を訪問して彼の鐵鉢形土器を拝見したしと要求したが先の老人は故人となり跡の相続者は一向左様の品は無いと言われた。
其の後何れの人か失念したが、或處で彼の鐵鉢形土器が廻り廻りて鳥居龍蔵博士調査展覧会に出品されてあった。其れは如何なる時代の土器かと質問したれば是れ正しく弥生式土器也と博士は断案された。以上の事実が私の弥生式土器研究に入る最初の印象と弥生式土器の眼識を慥めたる順序であるから巻頭に紹介して置く。但し是れより先アイヌ式土器を採収もし研究もしていた事は勿論である。
一、私の祝部式土器の研究趣味を持ったのには数回に渉って種々の門戸を潜って来た。第一が夷町の安藤家家宝の神代祝部と称する物を安藤世彦百歳老人より見せて貰い且つ其の伝を説明された事。第二が明治25年北溟雑誌五周年記念会の時、初代常山翁より朝鮮窯槌形甕(一名籠目波形とも称し又今は波形祝部式と云う)と称したる物の製造法を説明されし事。
第三が明治30年頃小泊の富家(ふけ)という奮家の主人より羽茂殿後用品亀川内焼(かめのかわちやき:一名鼠色亀と云い又今は祝部式小泊焼と云う)と称する皿二三枚附着したるものを貰い而して是れが古代小泊の製造品であり且つ其の窯跡の有る所の説明を聞かされし事。
此の三回の入門が今の祝部式土器の研究素養を作ったが始の間は右三種共時代も異なるものとし且甲は日本神代の作と思い乙は朝鮮より輸入品と信じ丙は後世になって佐渡の製造品と認めて居た。
然るに大正9年に鳥居龍蔵博士は何れも祝部式と総称したから頗る疑問を抱いていたが其の後種々の経歴によりて何れも考古学者は祝部式と称する事を認識し最後に小泊のカンバク地帯に大製造所の窯跡を発見したるにより佐渡の各所に分布する祝部式土器の大部分は小泊焼なりし事を自信するに至ったから重複の様ではあるけれども下の項に於いて断片的に佐渡の各所に前陳三種に属する祝部甕の実物となりて所蔵するもの並びに各地、地表に放散せる其の破片に付いての見聞談を紹介して置きたい。
一、事項が前後錯雑するけれども茲に於いて古代佐渡人が土器、陶器に於いて如何なる意向を以って観過したかを少し書いて見る。
一、一般の人は土器を見る事茶人的、骨董的取扱いのみにしか過ぎなかったが適ま硯学者の田中葵園先生は土器を考古学的に取扱うてある、曰く 佐渡志巻の十、一宮神社の件に『(前略)此祠の傍より堀出せしと云う1つの瓶あり。形状と云い古色と云い世に類い熟きものにて殊に貴きさまなり姫宮在せし時の物にぞあるべき(中略)此瓶今は目黒町熊野の祠中に移して深く納め置けり云々』
一、降って祝部式時代に至っては朝鮮からも輸入し、且つ内地と佐渡とは貿易輸出入をしたらしい。如何となれば近年朝鮮より採収し来りし全形の高杯類や甕の破片標本と佐渡小泊窯趾出の其れと比較して容易に区別し難き事並びに佐渡小泊の窯趾に就いて推測するに其の規模の広大なると共に技巧に於いても種類の変化に於いても釉薬の顕象に於いても侮る可らざる處がある。 是に就いては委しくは内地で近年発見したりと云う。
・石川県河北郡高松村字若緑の古代製陶所遺趾
・福井県越前丹生郡宮崎村字小会原、同所
・福井県鹿島郡高階村字池崎、同所
・滋賀県粟大郡瀬田村字南大萱、同所
・右各所の窯趾に就いて比較研究して見たいと思うたけれ共私は近年彼地へ出張せぬからまだ見た事が無い。
一、アイヌ式土器として形の完備したものは佐渡では容易に見られぬ。只稍形を具備したと見るべきものは秋津の池田壽君が加茂の浦より採収した直径2寸5分ばかりの壺1つしか無い様である。其の他は何れの採収品も破片ばかりである。
一、弥生式土器と同様なる全形を保存したものが幾個もある。最も古くから保存したと思うのは前に陳べた福浦の善平祠の鐵鉢形である近年の発見には大正10年頃金丸後川與六淵より出土した数個である。是が惜しい事には警察の取扱方によりて東京の某所へ移されたから佐渡に居ては見る事を得ない。夫でも金丸出土の品は数が多かったから破壊はしても全形を推測するに足る程度の物は三四個保存して在り又金丸の小学校にも数個保存してある。
一、弥生式土器の標本は疵物なれ共、中興の農会堂敷地より出たる1個は本荘了寛上人が明治記念堂に保存してあり私は三宮の法憧寺境内より出たる人の顔が動物の顔か疑問の物1個並びに白瀬より出たる甕の縁と思う物1個並びに大石の智田より出たと云う朱線彩色薄手甕の破片(或いは筒形土偶の破片か)数個を保存してあり。
又本年に至り泉の川上氏宗家の苗代地下より出たる柑、皿の類にて稍全形なるもの数十個を得てあり、更に又羽茂の風間昇三郎君、秋津の池田壽君、小泊の岡崎盛一君、西三川の松山不苦楽君等が最寄りの採収品を保存して居るから今の處標本には差閊(さしつかえ)無く見る事を得るが古代人が弥生式土器を何故に寶物として保存せざりしが未だ其の理由を認め得ぬ。
一、祝部式土器は古代より寶物として保存した物が多い。夷の安藤家、五十里の生田家、三宮の法憧寺、大久保の飯持神社、目黒の本間伊四郎氏、其の他の所蔵は前に陳ってある通りだが松ヶ崎本行寺の寶物に日蓮上人着岸の時、松前明神と献酬に用いたと称するもの2個、羽吉の児玉家に吉住殿の遺物と称する甕葢(かめのふだ)形1個、是れ丈けは数百年前より寶物扱いにしてあった。此の外に私共の見聞きしないのも幾等もあったで有ろう。
兎に角祝部式の器物は古人にも異様の印象を與えた事は争われぬ。是には1つの理由あるべきも暫時発表は預かりにしたい。 又近年になりて羽茂大石の高野最作君は宇智田の粛慎人伝説地近傍から1個掘り出して所蔵している。泉の川上太次右衛門方では順徳帝の御腰掛石近傍から堀り出したのを1個所蔵している。
小立の飯田家では古墳石室の中から掘り出した葢柑(鼠色)2個並びに銀製の耳環数個を添えて所蔵している。更に小村校では種々の形を具備したのを数個保存してあった。其の他、最近に至り小泊のカンハタケ一帯には大製造窯趾を発見したから最早や彼地は勿論各地同好者の手に分布して珍しからぬ程度までに標本が出て来た。
一、大正13年頃二宮村藤木駒蔵君は自宅の近傍田地底から祝部式土器の破片を無数に多く掘り出したが動機となりて昨今は各地を跋渉して地表に放散せる祝部式土器の破片を採収して現在其の量は石油箱三個に余る程保存している。其の採収箇所も稍百に近い程採収して産地を墨書(かきつけ)てある。
加之ならず大正15年4月は吾輩川上、松田、藤木、岡崎、池田の5人にて古代土器の破片探検隊を組織して泉中興、市野澤、二宮、石田、長木を調査して見たれば畑地は勿論、水田の乾燥した地表には至る處に祝部式土器の小破片が放散している事を発見した。弥生式土器の小破片も祝部式に次いで各所に放散してある。殊に泉の黒木御所蹟附近一圓は按外に弥生式が放散してあった事を思えば此の意味を以て全郡を調査して土器破片放散分布図を調製してみたいものだ。
一、筆に序に古代の屋根瓦に趣味を持った動機は明治24年頃外海府へ買出しに行きし時大字関に黒田黙斎と云う相川の奮幕吏が寄留して居て国分寺瓦を利用して造りし硯を使用していて大いに珍重がったのを見た。其の後私も国分寺附近の人より其の破片1個を譲り受けて自ら硯に製造して使用したれば頗る摺り心地が良かった。是が国分寺瓦研究の端緒となった。
次に釜谷の三太夫の製造した瓦は佐渡で瓦製造者の元祖だと云う履歴を聞かされた。(今となって考えるに一時政府の訓令によりて民間の屋根瓦を禁止したのを文政の頃三太夫が再興したのであると云う) 次に小木の安隆寺の奥院で瓦の破片を拾うた。其の次に腰細の不動院の古代瓦と云うものを貰うた。其の次に下相川の瓦平(かわらたいら)とか云う處に古代の窯跡ありとて。相川の陶工谷口漱石翁から破片を1つ貰うた。
其の次に釜谷の善右衛門城の古代瓦と云うものを池田壽君から1つ貰うた。其の次に相川山の神教壽院瓦(是れは慶長14年建立との記録あり)を貰うた。最近に今の中学校建築の時、地下より掘り出したと云う紋瓦の破片を藤木駒蔵君から貰うた。
此の標本によりて考え起こせば大体佐渡の屋根瓦の時代的進化で察せられると思うて居る矢先に松田君と原田君が最近国分寺瓦研究を始めて呉れたから不日秩床ある佐渡の屋根瓦史が発表される事を期待している。尚、追々各所より標本が出る事を一言企望して此頃を擱毫する。
一、国分寺瓦の製造所が小泊であった事並びに祝部式土器も小泊で製造した事も最早動かす可らざる證據は上がった。其の窯趾の廃棄物を採収して研究するに形状に於いても釉薬の種類も焼締の硬軟も色澤も籠目波形等多種多様に渉って見ゆる事を思えば小泊の製造場は年歴に於いても永々継続したであろう。
扨で佐渡の各地に放散して居る破片の標本を見ても是又多種多様であるから佐渡に分布している祝部土器は朝鮮製、内地製、佐渡製の区別を知るには第一着として佐渡の原土を以って試験製造した上に非ざれば鑑定する資格無しとて小泊の岡崎君は大正14年より三浦常山、伊藤赤水両先生に入門し及び自宅に窯を建設して研究的製造を始めて呉れたから向こう三四箇年間には其の識別法に於いて具体的説明材料を得るであろう。
一、尚、真野村新町の藤塚近傍及び国分寺経ヶ峰に瓦窯跡かと云うものあるも是れは猶更研究の余地ありだ。
一、最近に至って原田廣作君と本間問敬君が国分寺瓦及び国分寺建築跡の研究をして呉れる事を茲に感謝して大成を企行す。
【古墳の部】
佐渡の古墳に付いて感想を書いて見たいが、考古学上の古墳と称するもの及び古墳時代と称するものは或る形式の範園と或る時代とに限定されて居る様だ。其の狭義の古墳ばかりを選抜するとせば或る形式の元に於いて調査せざれば是は古墳なりと断定する事を得ぬから、爰(ここ)には豫備(よび)行為として古墳に非ざる墳墓其の他俗に塚と称するものを混同して一応紹介して置く事を前以って断って置く。
一、私が塚と云うものに越味を持つ起こりは頗る早い時から必要上手を入れた。
所謂考古学上の古墳と称する言葉の無い頃からである。明治7、8年頃荒貴神社の由緒を調査するに際し吾が泉村に順徳帝の御遺蹟と称し来りし御腰掛石の御塚あり又御遺蹟なりとも、或いは地頭の落城当時の遺蹟なりとも言える灰塚あり、其の他大荒貴国造の遺蹟と言える粕塚あり、何れも荒貴神社に多少関連して居るから古老に就いて伝説を糺(ただ)して見た。
又々神社境内の馬場にて流鏑馬(やぶさめ)の射手塚(いてづか)もあった。加之泉村には古へ村境訴訟の証據物に指定して失敗した炭塚あり、無類飛び切りの伝説付きの待塚(まつつか)、可待塚(まごつか)等ありて私の少年時代から塚と云うものには念を入れて耳目を注いで居た。
一、明治13年以後は黒木御所蹟に建碑を企てた。是は事皇室に関するを以って御所地の御塚様と由すものにも研究の必要があった。何故なれば其の塚が墳墓であるか只の塚であるかを慥(たしか)めねばならぬ(但し其の頃は考古学の所謂古墳と云う定義は無論無いけれ共、俗に地神と云う祖先の古き墓と現代的の墓と而して城跡、屋敷跡などの記念塚との区別ある事は自然と我々の頭脳に浮かんで居た)為、第一着に墳墓類を調査した。
是には萩野由之先生の教えを乞い、又中山傍名と云う先生の墳墓考と云う書籍も熱読した(此の事は明治25年4月北溟雑誌第54号並びに28年9月同誌第109号に書いてある)
一、私が考古学上所謂古墳なる物の実物を見たのは明治38年頃九州より隠岐対馬を旅行して彼の鬼ヶ城丸山等を見て驚いたのが最初である。但し其の時はまだ横穴石室なる事は知る筈が無い。只土人の穴居跡として其の構造の廣大なる事を驚いたに過ぎぬであったが、夫より数年後にして考古学上の古墳なりし事を聞かされて更に又其の規模の大なるに驚いた。
一、佐渡に横穴式古墳のありし実物を見たのは、明治42、3年頃岩木先生と倶(とも)に二見の豪ヶ鼻の遺蹟を見たのが始である。是は元来地元の古老は蝦夷穴と称して巨人伝説や龍宮伝説やらを混同して伝えてあった。(中古に蓋石を里道の石橋に利用した云々) 私は九州の伝説が先入となって穴居趾と思うて居たが其の前から矢田先生は承久の右衛門佐局の御墳墓で無かろうかと言うて居たから、当時吾輩に考古学の幼稚なりし事が推して知るべしだ。
一、其の後両三ヵ年過ぎて西三川の松田君から小立の飯田清平方で古墳を発掘した而して其の中から土器及び耳環も出たから見に来いとて写真も添えて報知された。尚其の他に瀧脇の三貫澤にも古墳あり人骨と思うものも出ると言われたから早速駆附けて見たれば前に見た二見の豪ヶ鼻のと同じ形式の石室であった。此の時には最早吾輩も考古学上の古墳なるものも雑誌や書籍で多少了解がしたから、愈々(いよいよ)佐渡にも横穴式の古墳あり、且つ二見の豪ヶ鼻の蝦夷穴と称したのも古墳なる事を確実に認定し得た。
是より先羽茂大石の宇智田の念佛塔利用の平面石の理由も粛慎人の伝説も想像する事を得た。暫くなると近世になりて発掘したと云う秋津方面の古墳、中興の野口權左衛門の古墳(名称は江戸塚と云い発掘の時、刀剣と古鏡がありしと云う)、二見大浦の中川六平古墳(刀剣二振と皿五枚並列してありし由)、泉の牛込治助古墳(石室のみ)大石智田の高野最作古墳(石室と人骨)大石の堅野太吉郎古墳(江戸塚と称し人骨もありしと云う)等の構造を当時壺地に開渉した者より聞き取る處に依れば考古学上所謂古墳なりし事を推定する智識を吾輩へ与えて呉れたのは先に小立飯田家の古墳発掘が実物教授をして呉れた賜物である。
一、大正の初年に至りては松田君は頗る古墳に趣味を持って頻(しき)りに古墳調査をしてくれた。大正9年に鳥居龍蔵博士が来て各所を調査するに至り松田君が主として案内し、且つ博士から古墳調査の指導を受けた。其の後、松田君の古墳眼識に長じたは勿論私共まで古墳学の俄かに進歩した事は著しい。
一、大正10年には国府川可心改修工事の金丸興六淵と云う處より神代杉の割杭を以って柵形に造りし堤防枠の如きものの中に多くの弥生式土器やら苧環の如きものやらを納めしものを発掘した。大正11年には畑野村杉崎の溜井新設工事より右金丸のと稍(やや)同じ形式の物を発掘した。是に就いては種々の疑問が起こった。曰く酋長時代の水牢、曰く古代水上生活時代の住居跡等であった。
併し此等の視察は平面的地理(現在の水湫)を基礎としての観察に過ぎないが私は近頃立体的地理を以って考えを起こして見た。曰く古へは此の辺が丘阜であって夫れに木柵形の墳墓を営みし(石室の変則)のが後世に地変陥没したのでは無いかと想像した(是には多少據る處あり)。兎に角疑問は今尚疑問にして学者の鑑定を乞う余地がある。
一、考古学上の古墳と中古の墳墓と其の他各種の塚との区別識別の困難なる事は前にも陳べた如くである。其れも地形に異動が無く原形を存して居れば格別だが自然的にも人為的にも長い年歴を経れば形も変わるから表面丈けでは断定を下されぬ。多少発掘した上に非ざれば皆目見当が附かぬことは今更巓明に及ばぬ。
一、何の意味であったか知らぬが古代の人は塚を尊重した特徴が残って居る。曰く地名に貝塚と云うもの二ヶ所あり、又苗字にも屋号にも石塚と称するものが至る處に分布して居る。然して其れが兎に角石器の遺跡ある處及び古墳や地神に縁故ある奮家が多いのに付いては或いは古墳の石室より連想した名称でなかろうか、研究して貰いたい。其の他塚田、塚本、高塚(下のヵ略か)、大塚などの苗字も古墳関係では無きか。又単に塚と称する奮家は羽茂の西方にも畑野の栗野江にもある。又小泊には品塚、豊塚等の家があるが、此の苗字、家墳、地名を調査して分布図を作ったならば何等かの参考材料となるであろう。
一、漢字の家、塚、墓、塁、丘等に泥まず国語の「ツカ」と云うのは頗る廣義に渉って居る。例えば人為的に築いたものも自然の高山嶺をも「ツカ」と呼んでいる。塚の種類を並列したならば際限も無かろうが茲に簡易に塚に付いて私の見たものを説明して置きたい。古墳ではないが、石器時代の貝塚として研究上誇るに足るべきものは畑野村三宮神社境内並びに其の横手の貝塚である。
此の説明の代わりに鳥居龍蔵博士著、「有史以前の跡を尋ねて」の一節を抜粋して見る。曰く『三宮神社境内の遺跡は周囲一帯極めて低い水田の中に存在し(中略)其の東南部の處には貝塚があります。(中略)淡水産の貝殻が積成せられて居て廣さ1反歩程、其の表土は1尺5寸貝唇の厚さ1尺5寸以上あります。(中略)有史以前の貝塚は越中を除けば最早越後から出羽地方に全く存在せず。(中略)越中以北の日本海に於ける貝塚は此の佐渡の貝塚のみであります。
果たして然らば此の貝塚は最も大切の遺跡であるから郡役所、村役場及び其の地方人はよろしく之れを猥(みだ)りに発掘せず厳しく保存すべきであります。若し此の貝塚にして滅亡せんか、最早越中以北の日本海には有史以前の貝塚は無くなってしまいます』と書いてある。
一、塚田とは地頭の打ち死にした場所の記念に開墾の節築いたと云う處もあるが、又地神の墳墓跡を開墾して其の記念に塚を築き耕作に肥料を施さぬと云う處も多い様である。
一、経塚は納経塚の略なるべし。納経の形式も数種あり。平相国清盛が厳島神社に於ける奥刈秀衛が中尊寺に於ける紺紙金泥の写経を納めたに習うて久知殿が慶宮寺へ白紙墨汁の大般若経を納めたものもあり。又潟上殿が大和田薬師へ同じく大般若経を納めたる如き例は所々にある。
然るに後世の納経は金銭物品の報酬を提供して僧侶に代筆を託することになった。近世には最も軽便法となり僅か5銭斗りの納経銭と云う物を投じて判取帳の形式になったことは時世の要求の然らしめたのであろう。尚、附け加えて置きたい事あり。
古代には経瓦あり、経板(銅製)あり、経筒あり、総て永久保存の手段を取って経文を塚に埋めた形式であるが、佐渡では経石と称して扁平の石礫を拾うて之れに経文を墨書して塚に納めたものが古き時代から行われ近世まで実行していたのを私は見て居る。更に又読経の数取目録を塚に納めたものもあると云う。
一、庚申塚は読んで字の如く説明に及ばぬが、中には才ノ神塚や道祖神塚と称する者もある。
一、此丘尼塚古へ熊野比丘と称するものが種々の形式と目的を以って遍歴した時代あり。其の終焉の地に築いた墳で有ろう。 此の例は所々で聞いて居る。
一、鉦塚(一名行人塚)念佛行者の入城とて士室を作って入り鉦の音の響く間は生存すろと思えと遺言したと云う伝説あり。
一、灰塚一般に火葬場を灰塚と称するは公設火葬場の無き時代の通語なれ共、古代地頭の落城した時代寳物を適に渡す事を厭うて家来が記録類と共に焼き捨てたと云う伝説地もある。
一、射手塚、籏射塚等は神社祭典の鏑流馬の式に使用したる遺物なりと云う者あり。
一、合見塚(ごうみづか)は幕府時代稲作毛見入に使用したる場所なりと云う。
一、一里塚は里程の標識物である。
一、炭塚は境界標識物として炭と貝殻を混ぜて埋めたりと云えるもの。
一、筆塚は佐渡に古くは聞くに及ばず近年になり、金澤村新保高木敏磨先生の記念に築いた物あり。
一、石塚苗字の石塚の事は前に記したが、其の他に耕地開墾の時捨石場又は年々耕作の始めに地表の石礫を拾うて捨てたる處を一般に石塚と言う様である。
一、縁塚(エンヅカ)、是には種々の解釈を附してある。蝦夷塚、江戸塚、恵張塚杯書て古くアイヌ時代の遺蹟と認めた者あり。又雌雄2個の塚が相対するを以って縁塚と称したりと言う者あり。又無縁塚の冠字略なりと云う者あり。
西三川の小泊にある岡崎家の墓地には近世に建設したりと見るべき墓を縁塚(エンヅカ)と称して居るあり。是は例外の様であるが西三川方面では今の考古学上所謂古墳に類する塚を古来エンツカと唱えたる傾きあれば、或いは無縁塚の冠字を略したと云う説が妥当かもしれぬ。『エゾヅカ』が蝦夷塚ならば其の處には石器時代の副葬物があるべきに、近世に発掘した例によれば何れにも刀剣や祝部土器等が副葬してあったと云うから蝦夷塚と書くは謂れ無き様なり。然らば他に理由無きか研究の余地あり。
一、七ツ塚と云うもの所々にあるが、是は或いは佛法の四十九忌の追膳に築きしものにや研究中なり。
一、漆塚は長者伝説の跡で、地下に漆千樽と朱樽を埋めてあると云う處なり。
一、正智院塚、三太夫塚の如き上に寺院の名や民家の名簿を冠りたるものが各所にあり。是は古へ寺院若しくは民家が他へ移転したる時、佛壇や神棚の跡を後人に汚穢されぬ為めに築きたるものなりと云う。
一、羽茂の新倉山嶺には三光塚と称して伝説附きのものがある。
一、羽茂村野崎の瀬ノ尾と云う山中に二ツ塚と云うのがある。三光塚とこの2箇所は高嶺の地にある特例のものである。
一、相川の中山峠には法論塚というのがある。 是は昔、本山派の修験者と当山派の夫れと宗義の問答あり。双方の代表者が谷を隔てながら闘論したが、互いに心気労れて両人共立ち往生をしたと云う伝説あり。
一、同じく中山峠に昔、切支丹信者を幕府が数十人一時に死刑に処した處という切支丹塚もある。
一、右は時代の古今は兎に角、人為を以って造りし塚の一例なるが、佐渡では自然物の山頂の丸い處を塚と唱える者往々あり。 曰く両尾の宇賀塚を筆頭として馬首には老小塚、恋小塚、狸塚等あり。二宮の青野にも此の類の塚あり。是は山の形が塚の如く見ゆるを以って称したのか或いは方言に山頂を頭冠と言うから其の転印にや研究の余地あり。
一、以上塚に就いて繰り返し陳べたのも何の為かといはば、昨今耕地整理やら水田開墾やらが流行して古墳又は墳墓を取り崩す者往々あるから注意をして貰いたいが為である。いつも私は言うてある如く、時世の順応要求なれば古墳を取り崩すも墳墓を移転するもやむを得ぬが、其の取り崩しをするに当り異様の現象があったならば最寄の識者に告げて可成的現状を後世の研究材料、参考材料になる程度の記録なり図面なり(写真なれば尚更結構だ)を残して貰いたいのである。
一、最近の例を言えば大正15年の3月真野村四日町で発掘した古銭入りの甕の如きも墳墓の副葬物であるか守銭奴の貯蔵した物であるか推定すべき記憶が無いと言うから残念だ。若し発掘の当時一人の識者ありて大体でもよろしい実況を記録し見取り図でも造ってあったなら何か判断はつくであろう。
同年、吉井村の普門寺の境外字堂田(どうでん)の七ツ塚発掘も又要領を得ない。私が両津分署に就いて其の発掘品の一部を観覧した處によりて考うるに、考古学上の古項よりは時代が新しい事に争はれぬ。墳墓であるか供養塚であるかは現場の配列其の他の附帯事項を説明する程度の記憶者が無い為判断に苦しむ事は遺憾に堪えない。但し其の出土品の二品を次に記して愚按を加え識者の教えを受けたい。
一、佐渡の古城趾と称するものも史蹟上調査を要する事物論であるがまだ其れに着手して無い事を遺憾とする。旧記による古城趾は僅かに30箇所以内に止まるけれ共、此の外に伝説としても地理、地形上の実地踏査に依りても旧記以前に数倍の多きを認める。或旧記には佐渡に七十二城と書いてあるが地名を記して無いから何れを指したのか分からない。
一、城趾にも種類が幾等もあるかと思う。曰く屋敷、曰く木戸、曰く田屋等である。此の意味を総括して考えるに地頭、殿様の城趾とは言うものの中には行政徴税の出張所程度の物も役人は城と称したかと思われる。又時代により酋長、地頭、手代、番頭等の屈託、役宅、避難所を総称して城趾とし、其の移転、変更等に掛ったものを合わせれば数百箇所あるとしても無理はなかるべし。兎に角、今の内に実地の写真、写生図、見取り図等を募集し、更に統一的踏査の上分布図を造り更に又伝説を附記した後に批評を加えたならば史蹟上最良の参考物となるであろう。
一、古木、老樹の現在も写真写生図造り伝説、説明を附記したる台帳を作る必要は早く、私の主張した處なれ共未だ其の端緒だに得ざるは遺憾の至りである。他の記念物と異なり樹木には命数があるから如何に保護をしても命至れば尽きるでは無いか。 若し保護を怠るに於いては尚更死滅を早める事争う余地は無い。
一、大正元年頃平清水の下屋敷(平清水村地頭の城趾と云う)より泉の川上家で発掘した塚には素焼赤色の甕(深さ八寸洞廻り二尺五寸)一個あったが中には何物も無かったと云うから是は経塚かと思う。
一、大正3年頃、泉の松永と云う處より北見家で発掘したる塚には柄附きの銅鏡一面と寛永通貨数個出土したれ共是又人骨は無かったと云うから是は追吊法要の記念塚に非ざるかと思えり。
一、此の外に古墳、古寳墓及び記念塚に付いて書きたい事があるけれ共、最近に至り松田君が熱心に調査して呉れるから、私が蛇足を加えるより早く君の分布図を発表して貰いたいと要求するも、君は謙遜の質であって完璧に至らされば発表せぬと頑張って居る。兎に角近き将来には具体的の古墳案内を見る事を得るであろう。
【考古学材料の部】
右は了寛上人一個人各村を奔走して蒐集した展覧会にしか過ぎざれ共当時郡民の考古学に対する意向の一斑を知るべきである。勿論其の頃は研究材料として所蔵したのではなく、骨董品として取り扱われたのであろう。
一、明治26年の頃と思うが、或日野崎将治君と私と二人で浦川へ石鏃(やじり)拾いに行った。野崎君は7個斗(ばか)り拾い、私は20個斗り拾うた。(但し無疵の物斗りではない) 斯くなると大いに威張らざるを得ない。是が動機となって私も始めて多数所蔵したくなった。其の後は拾うても貰うても一旦我が手に入ったものは他へ譲らぬと云う方針となり。恰も守銭奴が金を貯えると異なる處がないから僅か12箇年に約300點貯蔵した。
是れで以って、佐渡一の石器所有者を気取る様になって先年冷評した島元矩老人の習癖を超越したる欲望者となった。此の時に当って佐藤卓宗和尚が小木の海潮寺へ転住した。彼の岬十三平を渉獵して立ち待ち700點に達したと言う報道に接した時、私は落胆して其の後私は採収欲を断念したが私に代って山本半蔵翁が卓宗和尚と競争を始めて、今の處は数に於いても質に於いても山本君が佐渡の多額所有者となったかと思う。
一、前項の如く多数所蔵するを誇ると云う事に付いては、後世の参考材料とするに弊害の伴う事を発見した。夫れは出土地を混乱するからである。近年になり佐渡の石器所蔵者は各部署を定めて出土地を後世まで鮮明に伝える方針を立てたいと言うているが、実は実行上困難の問題である。
一、明治30年頃佐渡郡教育会主催の夏期講習会に講師として坪井正五郎博士を聘したのは郡民に人類学の伝播したことを証明される私も聴講者の一員に加わった。其の後は各小学校の教員及之れに相当する階級者には一般に石器の大要を知らしめた。然して各地共石器や土器の遺物の出土する村落の小学校には参考室に其の標本を陳列するようになった。
一、佐渡に人類学の普及すると共に内地でも益々斯学が進捗して科学的に書籍も刊行された。 次に人類学の範囲は拡張されて考古学と云う様になり、石器の研究より土器の研究に力を入れる様になり竪穴研究、古墳研究、祝部式土器研究、古鏡、古剣研究と次から次へ研究心が発達して来たから、今は私共の仲間でも夫々分科的に受け持つ事を宣伝するようになった。
一、大正12年11月新穂村で開いた佐渡郡物産共進会の参考室へ出品した。考古学材料を見たれば明治25年の北溟雑誌五周年記念展覧会の其れと雲泥の差であった。爰に其の出品目録や人名を列記するは煩雑に失するから、私が出品した石器時代遺跡の分布図の箇所と内容の大概を左に抜粋して見る。
一、近年に至り考古学の遺物出土地の箇所が増加したに付いては、郡民一般に考古学が普及したことも一つの原因であるけれ共、他に又左記の理由も大いに力を加えて来た。
曰く大正8年並びに大正9年に大毎新聞社長山本彦一翁及び鳥井龍蔵博士が渡海し来りて実地調査やら各種の指導やらをして呉れた事。政府の奨励により耕地整理と水田開墾を実行する者多き為め地表を異動したる事。政府の訓令により地方毎に古蹟名勝天然記念物調査会を組織したる為め民間の意向も之に習いし事。各町村に郷土誌若しくは村誌編纂の傾向増加したる事。
一、私共は最近に至り最新の考古学遺跡探検衛を発見した。夫れは斯うである。曰く毎年三四月頃麦畑の中耕前並びに田畑に水を掛けざる間は地表を検査して表土に碁石大若しくは天保銭大の土器の破片が散在したならば、其の破片の種類によりて其の付近の地底或いは高丘に石器時代の遺物がある。若しくは古墳がある事を証明されるに気がついた。
一、此式によりて最近に調査した結果左の如く大正2年調べの石器時代遺跡分布図を改正して見た。但し是はまだまだまだ杜撰(ずさん)を免れない向う両三ヶ年間には一層進歩した。一覧表を得るであろうが、仮に同好者の注意を促す為15年現在調べを紹介して叱評を乞う。
一、今や考古学の研究は、単なる石器時代の遺物調査位に甘んずる事態はず進んで古墳時代の遺蹟も必要なれば佛教渡来後の遺蹟も軽忽に附されぬ時代に入ったから、石器時代の事は是位にして次に弥生式土器斎瓦式土厳天平瓦に付いて少しく書いて見る。其の次には古墳と墳墓と経塚記念塚の事に及ぼし、最後に古代の分布に至りたい事を予め断って置く。
【佛像・神角の部】
考古学の範囲を脱する嫌い無きにしも非ずと難ども、古代の佛像、神像を調査する事も史蹟の参考として有効であろう。
一、私が佛像の拝観を好む習慣を起こしたに就いては原因がある。曰く、泉村には順徳院天皇の御勧請遊ばされたと伝うる観音、薬師、彌佗、天神の霊像が安置してある。観音は国宝に編入されたが他の三体は今尚調査中である。 此の木像に付いては維新の留時種々の波紋を起こし、或いは批評もあった為幼年ながら私も数回開扉して貰うたのが先入りとなり、今尚各所の佛像を拝観させて貰う事を好んで居る。
一、佐渡には比較的古代の佛像が存在する中にも行基菩薩の作と称するものは国分寺の薬師如来を筆頭に各地の寺院にも番守にも又民間にも多数安置してある。是等は悉く直作か如何は疑問にして或いは代作もあるべく模造もあるべし。兎に角、其の時代より伝来あいたと認むべき物は少なく無い。其の他二見龍吟寺の国宝の観音を筆頭に羽黒山の銅像、小木町阿彌佗院の銅像、元小木海潮寺の釋迦如来の如きは古く三韓、チベット方面より渡来した物では無いかと云う者あり。是等は特に研究の余地あり。
一、佛像を拝観するには一つの風習墾が壁となって困難の事情がある。曰く秘境とて三十三ヶ年目に一回しか開扉されぬ。若し猥(みだ)りに開帳するに於いては祟りありと信ずる者多き事是なり。是は一面には信仰として左右ある可きも一面には迷信に属するもので保護の趣旨を滅却する弊害あり。猥りに開帳しては或いは罰崇もある可けれ共保護、調査の為相当の敬意を以って開扉するに何の罰の冨る可き道理があろう。是には寺院の僧侶は勿論民間の有識者より此の道理を一般に説明して調査の為の開扉は差しつかえ無い事を了解させて貰いたい。
一、秘佛固守の風は比較的旧羽茂郡に多い様である。而して小木、羽茂両村には小比叡山創設時代に本坊に建造したるものが後世何等かの動機にて未寺未堂へ分派したかと推察するものがあると思えり。此の意味に於いて特別其の方面は調査して見たが意地の悪いには此の方面が特に開帳を恐れる風習が強い。
一、普通の佛像で無く所謂古代の神像と称するものは式内飯持神社の神寳並びに一宮神社の神像数躯を拝観した。是は特に研究もしたく、且つ又保存も確実にして貰いたい。
其の他は所謂最も神秘として拝観を禁じてある下畑の熊野神社の神休も一宮の神寳と同形式の物では無きか調査の為開扉して貰いたい神像と云う物は越後の岩船神社、京都の松尾神社等に神寳として保全してあるが其の他内地にて聞及ぶ物が少ないにも拘らず、佐渡に数ヶ所存在するとせば是には何か原因無かる可からず研究の余地あり。但し神像を後世になりて佛像と誤認して観音とか薬師とか名称を附して秘蔵するかと思うものを聞いた。然らば或いは後世になって神像を佛像に改造したのも無きにしも非ず。此の意味を以って調査して置きたい。
一、金属製の懸佛と称するもの(前半身鋳造)古き神社に保存して有ったが、明治維新の際神佛混交禁令の主旨を以って官没し或いは撤回せしめた處往々あり。今尚存するものは赤泊村腰細の林光坊に二躯あり。小木岬井坪熊野神社に二躯あり。加茂村和木八幡宮に一躯あり。民家としても澤根町の某方に一躯あり。
私も一躯あり。又維新の際までは泉の荒貴神社にもあり。鷲崎の矢崎神社にもあったと云う。右は私の曽(かつ)て見聞した内の暗記に残るものであるから、此の外に多数あったであろう。今の内に暗記丈けでも調査して置きたい。其の理由は佛像にして寺院よりも古い神社に多く、保存したとせば是には何等かの意味なかる可からず。
私の考古学入門暗記帳.pdf ※クリックで閲覧