川上喚濤の年譜
安政3年(1866) 1才
8月3日、金沢村(現在の佐渡市金井)泉字畑田、川上田之吉(吟風)の長男として生れた。 実父の田之吉(吟風)は賢吉が生まれる以前に他界した。また「5月1日生 (佐渡・泉 太左ェ門・吟風之長子)」という説もあり。
賢吉(喚濤)は川上家六代目で医師の川上文興の養子となった。
※誕生秘話:川上家宗家太郎左ヱ門の以文老人(二井屋)に男子の生まれる事を祈り根岸より来たる賢吉の母の床の下に本人の知らぬように斧を入れて置いたという。
慶応2年(1866) 11才
母、他界する。
明治元年 (1868) 13才
中興村(現在の佐渡市中興)西蓮寺住職の本間雲湫から漢学・儒学を習った。
明治6年(1873) 18才
11月10日、相川県より二宮村郷学校助読を拝命した。
明治8年(1875) 20才
4月、文興が他界し家督を相続する。
明治9年(1876) 21才
4月、雑太郡和泉村の地租改正委員・学務委員・都会議員に選任された。
明治10年(1877) 22才
二宮村長木の渡辺氏 玉梅斉一興宗匠につき、正風遠州流挿花と小笠原流礼式を学んだ。
4月16日、佐渡三郡公立第九番・十番・三十番・三十七番小学校の学務委員を拝命する。
明治12年(1879) 24才
この頃、「自宅の庫(三間半に三間の倉)にて政談演説の稽古をせしが、かなりやれると思って相川の学校でやった。全然駄目であった。演説の稽古は人が狂人と思う時代である」という回顧録あり。
明治13年(1880) 25才
3月、赤泊港より出発し、寺泊・直江津・富山・金沢・福井・彦根・伊勢・奈良・吉野 ・高野から大阪・四国の各地・広島・岩国・岡山・神戸・京都・滋賀・東海道一帯 ・鎌倉・横須賀・東京・日光・前橋・草津・渋川・長野などの産業、風俗、社会情 勢を巡見、神社仏閣に詣で9月に帰島した。
この年、佐渡でも鵜飼郁次郎らによる自由民権運動が盛んであり、賢吉もこの運動に参加していた。
この年、越佐海底電線敷設の急務を鵜飼郁次郎らと唱えた。
明治14年(1881) 26才
河原田(現在の佐渡市佐和田)本田寺住職鈴木無涯禅師のもとで禅を修業した。
明治15年(1882) 27才
1月7日、新潟県第十六中学区の学務委員を拝命する。
9月13日、和泉村外三ヶ村の村会議員に当選する。
明治16年(1883) 28才
3月24日、佐渡三郡併合会議員に当選する。
佐渡に初めて馬鈴薯を試作する。
この年、トミと結婚する。
川上トミは、不安定な時代のなか家の切り盛りや喚濤の妻としてのつとめをし、子供や孫たちを立派に育てあげ昭和24年4月26日、90才老衰で他界した。
明治17年(1884) 29才
2月3日、佐渡三郡学務委員総理幹事に当選する。
8月15日、長男可一(喚昔)誕生。
9月27日、雑太郡和泉村の村会議員に再選する。
12月27日、新潟県より、学務委員としての功労を認められ褒賞された。
河原田(現在の佐渡市佐和田)本田寺住職鈴木無涯禅師のもとで禅を修業した。
明治18年(1885) 30才
1月18日、新潟県議会議員に当選するが、即日辞表を提出した。
この辞表は中奥の植田六方(植田旅館)にて立野北條勤に書かせたとのこと。
2月16日、雑太郡和泉村の村会議員に再選する。
同日、和泉三ヶ村水利土工組合議員に当選する。
4月21日、広間町外396ヶ町村会議員に当選。
6月20日、和泉小学校の学校基本金に多額の寄付(50円 )をして、県令篠崎五郎から褒賞された。
9月19日、佐渡三郡勧業委員に任命された。
加茂村馬首に居を移す。
この時に、当時の農商務省水野技官の講話から鯣・干鱈などの海の産物の重要性に気付いた。
※この年の出来事:内浦にスルメ改良同盟会が誕生した。
明治19年(1886) 31才
※この年の出来事:10月、佐渡教育会が誕生した。
明治20年(1887) 32才
3月29日、新潟県加茂郡馬首村外11カ村の組合戸長兼登記事務嘱託となり、この時より佐渡市和木に住むことになった。
村松の藤木より「官林を売りて残金を欲しい」という依頼を受けたが、喚濤は私利を求めず公平に売却した。
※この年の出来事:11月、金沢村本荘良寛が「北冥雑誌」を創刊した。これには「喚涛も尽力す」との記述あり。
明治21年(1888) 33才
2月20日、椿村罹災火覆民救助で県知事より報奨される。
7月9日、日本赤十字社に寄付慈恵員として総裁より報奨される。
10月1日、佐渡陸水物産共進会審査員に任命され、江戸時代の佐渡の国産について調査した。その結果、竹の経済的有利性に気付き、竹の栽培普及を提唱した(会長より 3円の慰労金受けるとの記述あり)
11月、相川町広間小学校で佐渡陸水物産共進会を開催。
11月2日、加茂郡馬首村外9ヶ村戸長所内地押調。知事より報奨される。
12月15日、準判任官7等。
明治22年(1889) 34才
2月20日、加茂郡馬首村外9ヶ村戸長所内地押調。(賞輿7円との記述あり)
6月2日、大日本水産会第三回品評会で、内浦海産会社から出品された佐渡鯣が4等賞を受賞。
6月18日、市町村制実施により戸長解職し、村長事務取扱要嘱。
7月1日、地元の有志に呼び掛け、内浦海産合資会社を設立した。
この頃から、佐渡の烏賊釣り技術の教授のため石川・京都・島根・長崎・宮崎・青森鳥取の各府県へ実業教師を派遣し始める。
明治23年(1890) 35才
3月28日付、佐渡三郡役所岩間改養より「改良船漁獲品代9円38銭」の請求書あり
4月、酒田・秋田・青森の水産業を視察。東京に出て内国勧業博覧会を縦覧した。
6月30日、佐渡中央線改築費を寄付し知事より褒賞された。
7月10日、第3回内国勧業博覧会改良鯣(するめ)を出品し進歩三等賞を受ける。
12月11日、第2回佐渡水陸物産共進会出品誘説員を嘱託。
※この年の出来事:6月28日、夷湊の暴徒数十人が米穀商を襲い暴行する事件が発生した。29日に郡長須藤賢與が鎮撫に努めた。
相川町でも数百人の暴徒が米穀商を襲撃、破壊をおこない、さらに外海府、沢根、二見 、河原田の豪農を襲撃したとのこと。7月3日に県警28名が暴徒鎮定のため来島し、5日に新発田歩兵第16連隊1ヶ中隊が来島してようやく鎮圧した(両津町史より)このとき和木の家にも暴徒の一派が来たが、トミの機転により事なきを得たとの記述あり。
明治24年(1891) 36才
大阪燐寸界泰計清水誠氏を招き、白瀬川北岸に大きな水車を作り燐寸の軸木を製造する。 用材は秋田・山形より買う計画を立てる。
2月19日、佐渡水陸物産共進会審査委員を嘱託。
3月26日、第2回佐渡水陸物産共進会審査委員の慰労金3円受ける。
7月、島根県庁より矛魚釣伝習生3名嘱託。
12月27日、大日本水産会より地方通信委員を嘱託。
※この年の出来事
夷港にはじめてビールが移入された。
明治25年(1892) 37才
北海道向けつなき栗を作る。
4月2日、佐渡水産会を設立。佐渡全域の鯣の品質向上を目指した。
10月8日、大日本水産会より地方通信委員、勉栃幹事長より感謝状及び有用図一部、受ける。
明治26年(1893) 38才
川上喚濤、和木で酒造業を創立。(清酒「和木川」)
明治27年(1894) 39才
この頃、佐渡市新穂の応水園中川収之宗匠から俳諧を習い、終生俳句を作った。
3月20日、第3回佐渡水陸物産共進会審査委員を嘱託。
5月24日、第3回佐渡水陸物産共進会審査委員の感謝状と金一封を受ける。
※この年の出来事:8月1日、清国に宣戦布告。(島内出征軍人、400余名)
明治28年(1895) 40才
7月11日、第4回内国勧業博覧会改良鯣(するめ)を出品し進歩二等賞を受賞。
※この年の出来事:4月、日清戦争終結、下関条約を締結。
明治29年(1896) 41才
※この年の出来事:佐渡鉱山が、宮内省から三菱合資会社に払い下げられた。
明治30年(1897) 42才
5月14日、第2回水産博覧会出品奨励委員を嘱託。
10月12日、第2回水産博覧会出品奨励委員として新潟県より出品。奨励金として20円受ける。
11月12日、第2回水産博覧会に改良鯣を出品し有功三等賞を受賞。
※この年の出来事:森知幾が相川町で「佐渡新聞」を創刊。
明治31年(1898) 43才
4月16日、第2回水産博覧会出品。奨励特志の座を以て報奨される。
※この年の出来事:8月7日、夷港で「港則発布祝賀会」を盛大に催した。このとき山車を繰り出し新作7港踊りなどを披露したが、これが両津七夕祭りのはじまりである。
明治32年(1899) 44才
東蒲原郡の小日山健次郎という炭焼きを雇い木炭の改良を計る。後日、平松の平野仁吉・白瀬新田の辻仁作両人に炭焼きを教える。現在、浜野喜作の如き木炭教師も出るに至る。(註:この現在とは川上可一がこの「年譜」の原本を作成した時期なので昭和10年代と推測される)
※この年の出来事:7月、尾崎紅葉が来島し、その際「佐渡民謡集」を貸す。
明治33年(1900) 45才
3月15日、佐渡郡鯣同業組合議員に当選。
3月22日、佐渡郡鯣同業組合長に当選。
相川町の森知幾等と佐渡鯣同業組合を結成し、佐渡鯣の声価を全国的に高めた。
鷲崎に弾崎海軍望楼建設に尽力した。
新潟流末工事に於いて藻柴・粗朶・小杭の請負を畑野の土屋杢太郎と提携した。
明治35年(1902) 47才
※この年の出来事:加茂湖でカキ養殖をはじめた。
相川町で佐渡毎日新聞が発刊。(幅野長三社長)
明治36年(1903) 48才
3月13日、佐渡郡鯣同業組合評議員に当選。
7月、伏木・敦賀・京都・大阪・神戸・岡山・津山・松江・境・隠岐・城崎・宮津・舞鶴の水産業・商業を視察し、大阪で開催中なる水産博覧会を視察した。帰途、東海道各地や東京方面を視察したとの記述あり
東京の宇佐美英太郎と懇意になり、子規・泉水・高濱虚子等の新俳諧を研究した。
明治37年(1904) 49才
※この年の出来事:2月10日、日露戦争の宣戦布告。
3月1日、総選挙で山本悌次郎が当選。以後昭和12年まで連続当選している。
8月、夷港築港が竣工。これにより湖海が連結し、水田30余町が浸水を免れ開田100余町が出来、湖中で海水魚が獲れ、湖内への漁船の出入りが安全になったとの記述あり
明治38年(1905) 50才
2月25日、可一が村松歩兵連隊へ入営する。
※この年の出来事:1月2日、旅順要塞が陥落(全島各町村で大祝賀会)
3月30日、奉天大会戦に大勝した(全島各町村で大祝賀会)
5月27日、日本海大海戦に大勝した(全島各町村で大祝賀会)
佐渡酒造組合が結成された。
12月、日露戦争が終了し、夷港に凱旋兵が続々帰還した。 佐渡全島の従軍兵2000余名、戦死者79人、負傷者31人、病死者41人。
明治39年(1906) 51才
5月1日、佐渡水産組合評議員に当選する。
明治40年(1907) 52才
萩野由之、岩木擴等と共に「佐渡国誌」の編集に携わる。
馬首学校区内に於いて生花と礼儀作法を教授した。毎週日曜日に無報酬で行ったとの記述あり(中山史郎氏:談)
明治41年(1908) 53才
1月16日、長野市で開催した1府13県閉総合共進会に出張した途次、諏訪の寒天製造地を視察。東海道・京阪・神戸・広島・下関・博多・長崎・壱岐・対馬・大分等を経て瀬戸内海の水産業を視察した。
2月22日、佐渡水産組合評議員に再選する。
9月13日、長野県主催・総合共進会の陳列及び売店の準備委員として出張した。
9月、前橋市より宮城県に入り青森方面の産業を視察した。このとき両津の伊藤底太郎同伴との記述あり
明治42年(1909) 54才
※この年の出来事:矢田求が「佐渡方言集」を出版。
明治43年(1910) 55才
3月31日、佐渡水産組合評議員に再選する。
9月26日、群馬県主催・総合共進会の陳列及び売店の準備委員として出張した。
※この年の出来事:大阪内外水産会社が和木でブリの大敷網をはじめた。
明治44年(1911) 56才
4月10日、佐渡生産物調査委員を嘱託する。
5月4日、当時「竹林翁」の異名を誇っていた岐阜県の坪井伊助博士に従って佐渡郡内各地を巡回調査し、竹林栽培保護の実地指導を受けた。
10月1日、茨城・福島・宮城・岩手・青森・山形各県の水産業を視察した。
大正元年(1912) 57才
5月26日、佐渡教育会特別会員に推薦される。
11月21日、佐渡郡竹林自然枯調査委員を委嘱された。
12月19日、郵便貯金奨励に尽力した功績で新潟逓信管理局長より感謝状を受ける。
志賀重昴氏が来島し、外海府方面を案内した。
川上可一を東京醸造試験所講習に派遣した。
「喚涛は『裏日本』と称することをきらいたり」の記述あり
※この年の出来事:7月21日、和木郵便局開局。
7月30日、明治天皇が崩御。
大正2年(1913) 58才
3月23日、佐渡水産組合評議員に再選。
4月10日、佐渡水産組合の副組合長に当選。
9月25日、富山県主催・総合共進会の出品陳列及び売店の準備委員を嘱託。
9月、共進会の出品陳列の準備委員として富山県へ出張した際、長野・愛知・京都・三重・岐阜各県の竹林及び竹細工を視察した。
※この年の出来事:7月、本荘了寛が「佐渡水難実記」を出版した。
大正3年(1914) 59才
※この年の出来事:相川町の浅香寛が「佐渡日報」を発刊。
大正4年(1915) 60才
この年、朝鮮の京城で竹の移植を計画した。是より先、実際に京都より京城(38度線)へ竹苗の移植を企てたが、成功しなかったとの記述あり。
1月5日、佐渡郡加茂村の村是調査委員を嘱託。
3月19日、衆議院選挙・新潟県佐渡郡選挙区の選挙立会人となる。
11月5日、日本醸造協会主催、第5回酒類品評会に於いて「清酒和木川」が三等賞を受賞。
大正5年(1916) 61才
3月20日、佐渡水産組合評議員・第4回改選で再選。
3月28日、佐渡水産組合の組合長に当選。
7月7日、東宮殿下が軍艦生駒にご坐乗にて御来島。皇太子殿下が御来島の際、或る新聞が「絶海の孤島に行幸云々・・・」と報じたのを見て、喚涛は「皇土の地を絶海の孤島とは何事か」と叱ったという。
大正6年(1917) 62才
北陸四県総合水産懇談会に出張の途次、各地をを視察した。
5月、大日本山林会地方委員を嘱託。
9月20日、大日本山林会 第27回大会委員として感謝状を受ける。
※この年の出来事:3月27日付、水路部告示第23号を以て夷港を両津港と改称。
写真家の「近藤福雄」は、この頃(18歳の時)から暗箱カメラを用いたガラス乾板写真で佐渡島の風景を写し始める。 親類でありよき理解者でもあった和木の喚濤の家にも足しげく通い、 多くの作品を残したのである。
大正7年(1918) 63才
石川県金沢市に出張の途次、永平寺を参詣。 このあと福井市を視察した。
2月20日、新潟県水産組合連合会代議員に推薦された。
3月11日、大日本山林会の特別会員となる。
※この年の出来事:佐渡木炭同業組合が発足した。
大正8年(1919) 64才
3月28日、佐渡水産組合長満期退職記念として「斑紫銅水差」を授かる。
5月19日、新潟県水産組合連合会から、それまでの功績が認められ「水産功労者」として表彰された。 このとき銀杯を授かる。
5月19日、佐渡竹林改良指導員を委嘱された。
※この年の出来事:吉井小学校に東宮殿下が同校児童の合同体操を台覧された記念として東宮行啓記念碑が建てられた。
この東宮行啓記念碑は吉井村が両津と金井に分村したために碑は金井、台座は両津に分けられ保存されている。
12月、2万燭光の弾崎燈台が竣工した。
大正9年(1920) 65才
4月29日、佐渡水産組合代議員に再選。
5月25日、佐渡水産組合評議員に当選。
大正10年(1921) 66才
北陸四県水産懇談会出席のため富山市に出張の途次、飛騨の高山・岐阜市を視察。
4月、新潟県水産組合連合会代議員に当選。
8月16日、帝國水難救済会へ金円寄附に付き木杯を授かる。
※この年の出来事:7月、萩野由之「佐渡人物誌」を発行。川上喚濤も編纂に尽力せるとの記述あり。
大正11年(1922) 67才
北陸四県水産懇談会出席のため福井市に出張。
11月6日、第2回佐渡物産共進会より「水産功労者」として表彰され銀杯を授かる。
※この年の出来事:萩野由之博士が「佐渡先哲遺墨集」を発行した。
大正12年(1923) 68才
1月20日、第1回佐渡山林会総会に於いて評議員に当選。
5月23日、佐渡水産会総代会議員第1回選挙に於いて第16区議員に当選。
7月18日、新潟県水産会臨時総会に於いて県水産会委員を嘱託。
※この年の出来事:7月、中山トンネル180間が開通した。工費12万円との記述あり。 現在の中山トンネルは平成元年に路線を変更して727メートルとなっている。
9月1日、関東大震災が発生。
田辺尚雄が来島し、鬼太鼓を天下に紹介した。
大正13年(1924) 69才
新潟県水産組合連合会の代議員に就任した。
12月5日、佐渡水産会より水産組合議員精励の感謝状と金時計を授かる。
12月26日、佐渡水産会副会長に当選。
※この年の出来事:2月3日、萩野由之が没した。
大正14年(1925) 70才
※この年の出来事
7月、両津町の医師竹中成憲が没した。
12月21日、中川十左衛門が両津町で「佐渡タイムス」を創刊。
昭和元年(1926) 71才
※この年の出来事:12月25日、大正天皇が崩御され、皇太子裕仁親王が践祚された。
昭和2年(1927) 72才
6月20日、佐渡郡水産会総代会議員・第2回選挙第16区議員に再選。
7月21日、佐渡郡水産会特別議員に推薦。
8月8日、佐渡水産会副会長に再選。
8月20日、佐渡郡山林会評議員に再選。
佐渡郡水産会会長に就任。
※この年の出来事:川上賢吉が「佐渡史苑」刊行を始める。
昭和3年(1928) 73才
7月4日、佐渡郡農会より農業精励地方啓発貢献が認められ表彰される。
11月、「重要竹林経営法」を佐渡史苑社より出版し、佐渡における竹林経営の仕方について説いた。
※この年の出来事:加茂湖が日本百景に入選した。(東京日々新聞主催)
このとき加茂湖は第25位にランクされているが、往昔に遡ると「1、琵琶湖 2、三方湖 3、諏訪湖 4、箱根湖 5、日光湖 6、布施湖 7、越湖(加茂湖) 8、松江 湖 9、磐梯湖」と堂々7位に数えられていた。
昭和4年(1929) 74才
喚涛に孫「ハシヨ」が誕生。両津橋の竣工にあやかってこの名前をつけたという。
※この年の出来事:3月26日、両津橋が竣工。
昭和6年(1931) 76才
水産会会長在任中、小比叡より買種した食用蛙を郡内( 四日町海岸、新穂青木、潟上後藤与作附近、河崎村椎泊、内浦和木と浦川 )の池などに繁殖した。
6月20日、佐渡水産会総代会議員、第3回総選挙に於いて第16区議員に三選。
10月17日、平泉小学校創立50周年記念功労者として表彰、銀杯を授かる。
11月18日、佐渡郡山林会総会に於いて評議員に三選。
12月27日、佐渡水産会特別議員に推薦され、会長に当選。
12月、新潟県水産会議員に当選。
昭和7年(1932) 77才
佐渡農学校に島の有力者約60人が集まり「佐渡義民殿奉賛会」が結成され、その会長に川上喚濤が就任。佐渡義民殿は昭和12年(1937)に建立。
昭和9年(1934) 79才
7月15日、内浦漁業組合名誉組合長に推薦される。市橋美治氏が来訪。
7月21日午前4時、泉にて逝去。喚涛が生前に「無尽の宝庫」であるといっていた海を前にした和木の海岸で、佐渡郡水産会葬が執り行われた。
※ 辞世の句
「先つさらば暫時昼寝致します」
「貰った寿命はいくつたか志らぬ言ふて置きたい事たらけ」
昭和11年(1936)
7月21日、川上喚濤追念碑を建立
【参考文献】
川上可一著「川上喚濤年譜」
両津市役所「両津町史」
8月3日、金沢村(現在の佐渡市金井)泉字畑田、川上田之吉(吟風)の長男として生れた。 実父の田之吉(吟風)は賢吉が生まれる以前に他界した。また「5月1日生 (佐渡・泉 太左ェ門・吟風之長子)」という説もあり。
賢吉(喚濤)は川上家六代目で医師の川上文興の養子となった。
※誕生秘話:川上家宗家太郎左ヱ門の以文老人(二井屋)に男子の生まれる事を祈り根岸より来たる賢吉の母の床の下に本人の知らぬように斧を入れて置いたという。
慶応2年(1866) 11才
母、他界する。
明治元年 (1868) 13才
中興村(現在の佐渡市中興)西蓮寺住職の本間雲湫から漢学・儒学を習った。
明治6年(1873) 18才
11月10日、相川県より二宮村郷学校助読を拝命した。
明治8年(1875) 20才
4月、文興が他界し家督を相続する。
明治9年(1876) 21才
4月、雑太郡和泉村の地租改正委員・学務委員・都会議員に選任された。
明治10年(1877) 22才
二宮村長木の渡辺氏 玉梅斉一興宗匠につき、正風遠州流挿花と小笠原流礼式を学んだ。
4月16日、佐渡三郡公立第九番・十番・三十番・三十七番小学校の学務委員を拝命する。
明治12年(1879) 24才
この頃、「自宅の庫(三間半に三間の倉)にて政談演説の稽古をせしが、かなりやれると思って相川の学校でやった。全然駄目であった。演説の稽古は人が狂人と思う時代である」という回顧録あり。
明治13年(1880) 25才
3月、赤泊港より出発し、寺泊・直江津・富山・金沢・福井・彦根・伊勢・奈良・吉野 ・高野から大阪・四国の各地・広島・岩国・岡山・神戸・京都・滋賀・東海道一帯 ・鎌倉・横須賀・東京・日光・前橋・草津・渋川・長野などの産業、風俗、社会情 勢を巡見、神社仏閣に詣で9月に帰島した。
この年、佐渡でも鵜飼郁次郎らによる自由民権運動が盛んであり、賢吉もこの運動に参加していた。
この年、越佐海底電線敷設の急務を鵜飼郁次郎らと唱えた。
明治14年(1881) 26才
河原田(現在の佐渡市佐和田)本田寺住職鈴木無涯禅師のもとで禅を修業した。
明治15年(1882) 27才
1月7日、新潟県第十六中学区の学務委員を拝命する。
9月13日、和泉村外三ヶ村の村会議員に当選する。
明治16年(1883) 28才
3月24日、佐渡三郡併合会議員に当選する。
佐渡に初めて馬鈴薯を試作する。
この年、トミと結婚する。
川上トミは、不安定な時代のなか家の切り盛りや喚濤の妻としてのつとめをし、子供や孫たちを立派に育てあげ昭和24年4月26日、90才老衰で他界した。
明治17年(1884) 29才
2月3日、佐渡三郡学務委員総理幹事に当選する。
8月15日、長男可一(喚昔)誕生。
9月27日、雑太郡和泉村の村会議員に再選する。
12月27日、新潟県より、学務委員としての功労を認められ褒賞された。
河原田(現在の佐渡市佐和田)本田寺住職鈴木無涯禅師のもとで禅を修業した。
明治18年(1885) 30才
1月18日、新潟県議会議員に当選するが、即日辞表を提出した。
この辞表は中奥の植田六方(植田旅館)にて立野北條勤に書かせたとのこと。
2月16日、雑太郡和泉村の村会議員に再選する。
同日、和泉三ヶ村水利土工組合議員に当選する。
4月21日、広間町外396ヶ町村会議員に当選。
6月20日、和泉小学校の学校基本金に多額の寄付(50円 )をして、県令篠崎五郎から褒賞された。
9月19日、佐渡三郡勧業委員に任命された。
加茂村馬首に居を移す。
この時に、当時の農商務省水野技官の講話から鯣・干鱈などの海の産物の重要性に気付いた。
※この年の出来事:内浦にスルメ改良同盟会が誕生した。
明治19年(1886) 31才
※この年の出来事:10月、佐渡教育会が誕生した。
明治20年(1887) 32才
3月29日、新潟県加茂郡馬首村外11カ村の組合戸長兼登記事務嘱託となり、この時より佐渡市和木に住むことになった。
村松の藤木より「官林を売りて残金を欲しい」という依頼を受けたが、喚濤は私利を求めず公平に売却した。
※この年の出来事:11月、金沢村本荘良寛が「北冥雑誌」を創刊した。これには「喚涛も尽力す」との記述あり。
明治21年(1888) 33才
2月20日、椿村罹災火覆民救助で県知事より報奨される。
7月9日、日本赤十字社に寄付慈恵員として総裁より報奨される。
10月1日、佐渡陸水物産共進会審査員に任命され、江戸時代の佐渡の国産について調査した。その結果、竹の経済的有利性に気付き、竹の栽培普及を提唱した(会長より 3円の慰労金受けるとの記述あり)
11月、相川町広間小学校で佐渡陸水物産共進会を開催。
11月2日、加茂郡馬首村外9ヶ村戸長所内地押調。知事より報奨される。
12月15日、準判任官7等。
明治22年(1889) 34才
2月20日、加茂郡馬首村外9ヶ村戸長所内地押調。(賞輿7円との記述あり)
6月2日、大日本水産会第三回品評会で、内浦海産会社から出品された佐渡鯣が4等賞を受賞。
6月18日、市町村制実施により戸長解職し、村長事務取扱要嘱。
7月1日、地元の有志に呼び掛け、内浦海産合資会社を設立した。
この頃から、佐渡の烏賊釣り技術の教授のため石川・京都・島根・長崎・宮崎・青森鳥取の各府県へ実業教師を派遣し始める。
明治23年(1890) 35才
3月28日付、佐渡三郡役所岩間改養より「改良船漁獲品代9円38銭」の請求書あり
4月、酒田・秋田・青森の水産業を視察。東京に出て内国勧業博覧会を縦覧した。
6月30日、佐渡中央線改築費を寄付し知事より褒賞された。
7月10日、第3回内国勧業博覧会改良鯣(するめ)を出品し進歩三等賞を受ける。
12月11日、第2回佐渡水陸物産共進会出品誘説員を嘱託。
※この年の出来事:6月28日、夷湊の暴徒数十人が米穀商を襲い暴行する事件が発生した。29日に郡長須藤賢與が鎮撫に努めた。
相川町でも数百人の暴徒が米穀商を襲撃、破壊をおこない、さらに外海府、沢根、二見 、河原田の豪農を襲撃したとのこと。7月3日に県警28名が暴徒鎮定のため来島し、5日に新発田歩兵第16連隊1ヶ中隊が来島してようやく鎮圧した(両津町史より)このとき和木の家にも暴徒の一派が来たが、トミの機転により事なきを得たとの記述あり。
明治24年(1891) 36才
大阪燐寸界泰計清水誠氏を招き、白瀬川北岸に大きな水車を作り燐寸の軸木を製造する。 用材は秋田・山形より買う計画を立てる。
2月19日、佐渡水陸物産共進会審査委員を嘱託。
3月26日、第2回佐渡水陸物産共進会審査委員の慰労金3円受ける。
7月、島根県庁より矛魚釣伝習生3名嘱託。
12月27日、大日本水産会より地方通信委員を嘱託。
※この年の出来事
夷港にはじめてビールが移入された。
明治25年(1892) 37才
北海道向けつなき栗を作る。
4月2日、佐渡水産会を設立。佐渡全域の鯣の品質向上を目指した。
10月8日、大日本水産会より地方通信委員、勉栃幹事長より感謝状及び有用図一部、受ける。
明治26年(1893) 38才
川上喚濤、和木で酒造業を創立。(清酒「和木川」)
明治27年(1894) 39才
この頃、佐渡市新穂の応水園中川収之宗匠から俳諧を習い、終生俳句を作った。
3月20日、第3回佐渡水陸物産共進会審査委員を嘱託。
5月24日、第3回佐渡水陸物産共進会審査委員の感謝状と金一封を受ける。
※この年の出来事:8月1日、清国に宣戦布告。(島内出征軍人、400余名)
明治28年(1895) 40才
7月11日、第4回内国勧業博覧会改良鯣(するめ)を出品し進歩二等賞を受賞。
※この年の出来事:4月、日清戦争終結、下関条約を締結。
明治29年(1896) 41才
※この年の出来事:佐渡鉱山が、宮内省から三菱合資会社に払い下げられた。
明治30年(1897) 42才
5月14日、第2回水産博覧会出品奨励委員を嘱託。
10月12日、第2回水産博覧会出品奨励委員として新潟県より出品。奨励金として20円受ける。
11月12日、第2回水産博覧会に改良鯣を出品し有功三等賞を受賞。
※この年の出来事:森知幾が相川町で「佐渡新聞」を創刊。
明治31年(1898) 43才
4月16日、第2回水産博覧会出品。奨励特志の座を以て報奨される。
※この年の出来事:8月7日、夷港で「港則発布祝賀会」を盛大に催した。このとき山車を繰り出し新作7港踊りなどを披露したが、これが両津七夕祭りのはじまりである。
明治32年(1899) 44才
東蒲原郡の小日山健次郎という炭焼きを雇い木炭の改良を計る。後日、平松の平野仁吉・白瀬新田の辻仁作両人に炭焼きを教える。現在、浜野喜作の如き木炭教師も出るに至る。(註:この現在とは川上可一がこの「年譜」の原本を作成した時期なので昭和10年代と推測される)
※この年の出来事:7月、尾崎紅葉が来島し、その際「佐渡民謡集」を貸す。
明治33年(1900) 45才
3月15日、佐渡郡鯣同業組合議員に当選。
3月22日、佐渡郡鯣同業組合長に当選。
相川町の森知幾等と佐渡鯣同業組合を結成し、佐渡鯣の声価を全国的に高めた。
鷲崎に弾崎海軍望楼建設に尽力した。
新潟流末工事に於いて藻柴・粗朶・小杭の請負を畑野の土屋杢太郎と提携した。
明治35年(1902) 47才
※この年の出来事:加茂湖でカキ養殖をはじめた。
相川町で佐渡毎日新聞が発刊。(幅野長三社長)
明治36年(1903) 48才
3月13日、佐渡郡鯣同業組合評議員に当選。
7月、伏木・敦賀・京都・大阪・神戸・岡山・津山・松江・境・隠岐・城崎・宮津・舞鶴の水産業・商業を視察し、大阪で開催中なる水産博覧会を視察した。帰途、東海道各地や東京方面を視察したとの記述あり
東京の宇佐美英太郎と懇意になり、子規・泉水・高濱虚子等の新俳諧を研究した。
明治37年(1904) 49才
※この年の出来事:2月10日、日露戦争の宣戦布告。
3月1日、総選挙で山本悌次郎が当選。以後昭和12年まで連続当選している。
8月、夷港築港が竣工。これにより湖海が連結し、水田30余町が浸水を免れ開田100余町が出来、湖中で海水魚が獲れ、湖内への漁船の出入りが安全になったとの記述あり
明治38年(1905) 50才
2月25日、可一が村松歩兵連隊へ入営する。
※この年の出来事:1月2日、旅順要塞が陥落(全島各町村で大祝賀会)
3月30日、奉天大会戦に大勝した(全島各町村で大祝賀会)
5月27日、日本海大海戦に大勝した(全島各町村で大祝賀会)
佐渡酒造組合が結成された。
12月、日露戦争が終了し、夷港に凱旋兵が続々帰還した。 佐渡全島の従軍兵2000余名、戦死者79人、負傷者31人、病死者41人。
明治39年(1906) 51才
5月1日、佐渡水産組合評議員に当選する。
明治40年(1907) 52才
萩野由之、岩木擴等と共に「佐渡国誌」の編集に携わる。
馬首学校区内に於いて生花と礼儀作法を教授した。毎週日曜日に無報酬で行ったとの記述あり(中山史郎氏:談)
明治41年(1908) 53才
1月16日、長野市で開催した1府13県閉総合共進会に出張した途次、諏訪の寒天製造地を視察。東海道・京阪・神戸・広島・下関・博多・長崎・壱岐・対馬・大分等を経て瀬戸内海の水産業を視察した。
2月22日、佐渡水産組合評議員に再選する。
9月13日、長野県主催・総合共進会の陳列及び売店の準備委員として出張した。
9月、前橋市より宮城県に入り青森方面の産業を視察した。このとき両津の伊藤底太郎同伴との記述あり
明治42年(1909) 54才
※この年の出来事:矢田求が「佐渡方言集」を出版。
明治43年(1910) 55才
3月31日、佐渡水産組合評議員に再選する。
9月26日、群馬県主催・総合共進会の陳列及び売店の準備委員として出張した。
※この年の出来事:大阪内外水産会社が和木でブリの大敷網をはじめた。
明治44年(1911) 56才
4月10日、佐渡生産物調査委員を嘱託する。
5月4日、当時「竹林翁」の異名を誇っていた岐阜県の坪井伊助博士に従って佐渡郡内各地を巡回調査し、竹林栽培保護の実地指導を受けた。
10月1日、茨城・福島・宮城・岩手・青森・山形各県の水産業を視察した。
大正元年(1912) 57才
5月26日、佐渡教育会特別会員に推薦される。
11月21日、佐渡郡竹林自然枯調査委員を委嘱された。
12月19日、郵便貯金奨励に尽力した功績で新潟逓信管理局長より感謝状を受ける。
志賀重昴氏が来島し、外海府方面を案内した。
川上可一を東京醸造試験所講習に派遣した。
「喚涛は『裏日本』と称することをきらいたり」の記述あり
※この年の出来事:7月21日、和木郵便局開局。
7月30日、明治天皇が崩御。
大正2年(1913) 58才
3月23日、佐渡水産組合評議員に再選。
4月10日、佐渡水産組合の副組合長に当選。
9月25日、富山県主催・総合共進会の出品陳列及び売店の準備委員を嘱託。
9月、共進会の出品陳列の準備委員として富山県へ出張した際、長野・愛知・京都・三重・岐阜各県の竹林及び竹細工を視察した。
※この年の出来事:7月、本荘了寛が「佐渡水難実記」を出版した。
大正3年(1914) 59才
※この年の出来事:相川町の浅香寛が「佐渡日報」を発刊。
大正4年(1915) 60才
この年、朝鮮の京城で竹の移植を計画した。是より先、実際に京都より京城(38度線)へ竹苗の移植を企てたが、成功しなかったとの記述あり。
1月5日、佐渡郡加茂村の村是調査委員を嘱託。
3月19日、衆議院選挙・新潟県佐渡郡選挙区の選挙立会人となる。
11月5日、日本醸造協会主催、第5回酒類品評会に於いて「清酒和木川」が三等賞を受賞。
大正5年(1916) 61才
3月20日、佐渡水産組合評議員・第4回改選で再選。
3月28日、佐渡水産組合の組合長に当選。
7月7日、東宮殿下が軍艦生駒にご坐乗にて御来島。皇太子殿下が御来島の際、或る新聞が「絶海の孤島に行幸云々・・・」と報じたのを見て、喚涛は「皇土の地を絶海の孤島とは何事か」と叱ったという。
大正6年(1917) 62才
北陸四県総合水産懇談会に出張の途次、各地をを視察した。
5月、大日本山林会地方委員を嘱託。
9月20日、大日本山林会 第27回大会委員として感謝状を受ける。
※この年の出来事:3月27日付、水路部告示第23号を以て夷港を両津港と改称。
写真家の「近藤福雄」は、この頃(18歳の時)から暗箱カメラを用いたガラス乾板写真で佐渡島の風景を写し始める。 親類でありよき理解者でもあった和木の喚濤の家にも足しげく通い、 多くの作品を残したのである。
大正7年(1918) 63才
石川県金沢市に出張の途次、永平寺を参詣。 このあと福井市を視察した。
2月20日、新潟県水産組合連合会代議員に推薦された。
3月11日、大日本山林会の特別会員となる。
※この年の出来事:佐渡木炭同業組合が発足した。
大正8年(1919) 64才
3月28日、佐渡水産組合長満期退職記念として「斑紫銅水差」を授かる。
5月19日、新潟県水産組合連合会から、それまでの功績が認められ「水産功労者」として表彰された。 このとき銀杯を授かる。
5月19日、佐渡竹林改良指導員を委嘱された。
※この年の出来事:吉井小学校に東宮殿下が同校児童の合同体操を台覧された記念として東宮行啓記念碑が建てられた。
この東宮行啓記念碑は吉井村が両津と金井に分村したために碑は金井、台座は両津に分けられ保存されている。
12月、2万燭光の弾崎燈台が竣工した。
大正9年(1920) 65才
4月29日、佐渡水産組合代議員に再選。
5月25日、佐渡水産組合評議員に当選。
大正10年(1921) 66才
北陸四県水産懇談会出席のため富山市に出張の途次、飛騨の高山・岐阜市を視察。
4月、新潟県水産組合連合会代議員に当選。
8月16日、帝國水難救済会へ金円寄附に付き木杯を授かる。
※この年の出来事:7月、萩野由之「佐渡人物誌」を発行。川上喚濤も編纂に尽力せるとの記述あり。
大正11年(1922) 67才
北陸四県水産懇談会出席のため福井市に出張。
11月6日、第2回佐渡物産共進会より「水産功労者」として表彰され銀杯を授かる。
※この年の出来事:萩野由之博士が「佐渡先哲遺墨集」を発行した。
大正12年(1923) 68才
1月20日、第1回佐渡山林会総会に於いて評議員に当選。
5月23日、佐渡水産会総代会議員第1回選挙に於いて第16区議員に当選。
7月18日、新潟県水産会臨時総会に於いて県水産会委員を嘱託。
※この年の出来事:7月、中山トンネル180間が開通した。工費12万円との記述あり。 現在の中山トンネルは平成元年に路線を変更して727メートルとなっている。
9月1日、関東大震災が発生。
田辺尚雄が来島し、鬼太鼓を天下に紹介した。
大正13年(1924) 69才
新潟県水産組合連合会の代議員に就任した。
12月5日、佐渡水産会より水産組合議員精励の感謝状と金時計を授かる。
12月26日、佐渡水産会副会長に当選。
※この年の出来事:2月3日、萩野由之が没した。
大正14年(1925) 70才
※この年の出来事
7月、両津町の医師竹中成憲が没した。
12月21日、中川十左衛門が両津町で「佐渡タイムス」を創刊。
昭和元年(1926) 71才
※この年の出来事:12月25日、大正天皇が崩御され、皇太子裕仁親王が践祚された。
昭和2年(1927) 72才
6月20日、佐渡郡水産会総代会議員・第2回選挙第16区議員に再選。
7月21日、佐渡郡水産会特別議員に推薦。
8月8日、佐渡水産会副会長に再選。
8月20日、佐渡郡山林会評議員に再選。
佐渡郡水産会会長に就任。
※この年の出来事:川上賢吉が「佐渡史苑」刊行を始める。
昭和3年(1928) 73才
7月4日、佐渡郡農会より農業精励地方啓発貢献が認められ表彰される。
11月、「重要竹林経営法」を佐渡史苑社より出版し、佐渡における竹林経営の仕方について説いた。
※この年の出来事:加茂湖が日本百景に入選した。(東京日々新聞主催)
このとき加茂湖は第25位にランクされているが、往昔に遡ると「1、琵琶湖 2、三方湖 3、諏訪湖 4、箱根湖 5、日光湖 6、布施湖 7、越湖(加茂湖) 8、松江 湖 9、磐梯湖」と堂々7位に数えられていた。
昭和4年(1929) 74才
喚涛に孫「ハシヨ」が誕生。両津橋の竣工にあやかってこの名前をつけたという。
※この年の出来事:3月26日、両津橋が竣工。
昭和6年(1931) 76才
水産会会長在任中、小比叡より買種した食用蛙を郡内( 四日町海岸、新穂青木、潟上後藤与作附近、河崎村椎泊、内浦和木と浦川 )の池などに繁殖した。
6月20日、佐渡水産会総代会議員、第3回総選挙に於いて第16区議員に三選。
10月17日、平泉小学校創立50周年記念功労者として表彰、銀杯を授かる。
11月18日、佐渡郡山林会総会に於いて評議員に三選。
12月27日、佐渡水産会特別議員に推薦され、会長に当選。
12月、新潟県水産会議員に当選。
昭和7年(1932) 77才
佐渡農学校に島の有力者約60人が集まり「佐渡義民殿奉賛会」が結成され、その会長に川上喚濤が就任。佐渡義民殿は昭和12年(1937)に建立。
昭和9年(1934) 79才
7月15日、内浦漁業組合名誉組合長に推薦される。市橋美治氏が来訪。
7月21日午前4時、泉にて逝去。喚涛が生前に「無尽の宝庫」であるといっていた海を前にした和木の海岸で、佐渡郡水産会葬が執り行われた。
※ 辞世の句
「先つさらば暫時昼寝致します」
「貰った寿命はいくつたか志らぬ言ふて置きたい事たらけ」
昭和11年(1936)
7月21日、川上喚濤追念碑を建立
【参考文献】
川上可一著「川上喚濤年譜」
両津市役所「両津町史」