越佐の埋み火
「越佐の埋み火」近代を駆け抜けた45人の才人たち!!
新潟日報事業社編
トキ保護の元祖・佐渡の文人「川上喚濤」
「越佐の埋み火」 評伝 近代を駆け抜けた45人の才人たち!!は、1996年9月に新潟日報事業社が発行した「華やかな脚光を浴びることなく逝った45人の新潟県人」を描いた評伝集である。 担当デスクの小林弘氏は、「埋み火」とは灰の下に埋もれた炭火を言う。
本県の文化分野における逸材、本書登場人物の多くは早逝や地方在住のゆえに、広く知られることなく終わった。「埋み火」のままに― と、述べている。 「越佐の埋み火」は新潟日報文化欄に連載したもので、執筆したのは「絵画・写真・木彫り」が大倉宏氏。 「書」が横山蒼鳳氏。 「短歌・小説・詩・俳句」が若月忠信氏である。
その「越佐の埋み火」の中に川上喚濤は「トキ保護の元祖・佐渡の文人」として紹介されていた。 書いたのは横山蒼鳳氏。 横山氏は、執筆にあたって実際に佐渡に来て川上喚濤の所縁の地を取材して歩いたという。 さっそく、横山先生がお書きになられた「川上喚涛」を読んでみたい。
普通、文人墨客の評伝となると、それこそ文語体で厳めしいものが多いので、私のような者にはチンプンカンプンな呪文にしか見えず、23行読んだだけで放り出してしまうところだが、横山先生の文章は読み馴染んだ小説のように誰にでも解りやすく書かれてあったので、興味を持って読むことができた。 読み進めていくと、私の家に来て父や母が話したことなども書いてくれてあった。
「川上喚涛歳旦句会句集」については、私も父から見せてもらったことがあるが、「明治36年から昭和9年まで33年間、元旦に句会を開いていた。必ず三人であった。おそらく喚涛がこれと思う俳人二人を選び、詠みかつ書いたのだろう。(中略)33枚。古い順に古びていた。」という言い回しが面白かった。 「ハシヨさんにはいつも字を書いている脇を走りまわって叱られたことや、兄弟げんかをすると(喚涛おじいさんから)「いいたいことは翌日言え」と諭されたことが記憶に残っている。」という行(くだり)も、私が子供だった頃に、母か聞かされていたので懐かしかった。
横山氏は「書に人格、トキ保護にも情熱」というタイトルを付けて、川上喚涛が「トキは世界で絶滅している」といわれていた時代に、「いやトキは佐渡で生きている」と声をあげたということも書き記してあった。 そして「そのころ伊勢神宮では年末になると神殿の煤払い佐渡のトキ2羽を殺したハタキを献上せしめる習わしがあった。喚涛は伊勢まで出向き、神宮側に「そういう慣習をやめてほしい。便乗して佐渡の人が何羽も殺してしまう」と陳情した。これが非礼とされ、3日間留置場に入れられた。」ということも書いてくれてあった。
それでも喚涛はひるむことなく「宮家が主催していた山階鳥類研究所に何度か足を運びトキの保護を訴えた。そのころトキはまだ佐渡にいっぱいいて保護の鳥ではなかった。喚涛は佐渡の至るところに「朱鷺を保護されるべし」の標柱を立てて歩いた。」というのである。
この本を読み終えて、横山先生が「川上喚濤」をとり上げてくれたことに感謝したい気持ちでいっぱいになった。 この評伝集のあとがきに、担当デスクの小林弘氏「埋み火とは灰の下に埋もれた炭火を言う」と書いてあったが、まさに「川上喚濤」は「灰の下に埋もれた炭火」であったのだと思う。 私も、母がそれこそ囲炉裏で既に燃え尽きて熾さえも残っていない灰をほじくるように、古びた遺品を眺めながら「喚濤おじいちゃんが可哀想」と呟いていたのを思い出すが、横山先生は長い年月の灰の下に埋もれていた喚濤を掘り熾してくれたといってもいいだろう。
佐渡を愛し、佐渡のために自分や家族のことなどは二の次三の次にして尽力し多大な功績を遺しながらも「先ずさらば、しばらく昼寝いたします」という遺言を残して世を去った川上喚濤が、長い年月の灰の下に埋もれてしまい、やがて炭火はおろか囲炉裏ごと抹殺されてしまいそうになっていたのだ。
こと「朱鷺」の保護や研究に関しては、中には喚濤が遺した資料を横取りしてまるで自分が調べあげたように発表し名を馳せた研究者も少なからず居ると聞いているが、それは百歩譲っても喚濤の嗣子であり、喚濤の意志を継いだ可一氏が「トキを佐渡から追い出した張本人」まがいなことを書きたてられているのは、さぞ無念であったことと思う。
それでも、川上家の縁者たちは「歴史の事実は一つしかない。歪曲された歴史は、いつか雲が晴れるように雲散霧消してしまう」と耐えていたのである。 この横山蒼鳳氏の「トキ保護の元祖・佐渡の文人」は、書家としての川上喚濤を書いているが、もしかしたら佐渡のトキの歴史に於いて明治から昭和初期にかけて有耶無耶になっていた部分を解明するきっかけになるのかもしれない。
先生の「書・横山蒼鳳」というホームページに書いてある略歴には、「昭和9年、新潟県下田村生まれの76歳。 新潟県立三条高校卒。 県立三条結核病院、県立がんセンター新潟病院勤続25年。 新潟医療生協(木戸病院)専務理事などの後、専業書家」となっている。
書歴には、「幼少より字をかくことを好み、高校時代江川蒼竹に師事。 会津八一に引き合わされ、後年桑原翠邦と出会い、親交いただく。 昭和39年書壇院展内閣総理大臣(池田勇人)賞。 朝日新聞新潟版コラム『書一輪』執筆10年」とあるから、先生は、私の父のような田舎書家ではなく、中央で活躍されている書家なのである。
それから、「書・横山蒼鳳」には「自分のことばを書く」と題して、「自分の中から生まれ出ることばを、誰にでも読める文字で書くことを信念とし、既存の概念にとらわれることなく独自の創作活動を行う。指導の場でもそれを取り入れ、門人やこどもたちのことばを引き出し、発表している。」と書いてあった。
現在は(といっても10年前のことだが)新潟市在住で、趣味は家庭菜園。 また「多方面に渡り、さまざまな執筆活動も行っている」とのことである。 ちなみに父は、横山蒼鳳先生とは「川上喚涛」の取材が縁で、その後も親しくお付き合いをさせていただいていると話していた。
「越佐の埋み火 評伝 近代を駆け抜けた45人の才人たち!!」
出版社: 新潟日報事業社
発行年月: 1996年9月
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トキ保護の元祖・佐渡の文人川上喚濤(越佐の埋み火より抜粋)※クリックで閲覧
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