川上文和の生涯
川上文和(ぶんわ)は、宝暦8年(1758)に和泉村の川上多(太)左衛門の4男として生まれた。川上可一の記録では5男となっている。幼くして河原田町の医師であった上原家の養子となるが、後に養家を出て、川上多二右衛門と称した。その後文和と改めた。
文和は若い時期に京都に上がり、同郷の山本半右衛門と那波魯堂(なわろどう)の門に入る。この時文和は22歳、半右衛門は27歳であった。那波魯堂は江戸時代中期の儒学者で、主著に「学問源流」がある。二人はいったんは那波魯堂の門に入るが、その後大阪に下り頼春水(らいしゅんすい)の私学青山社で学問を修めた。頼春水は江戸時代中期から後期にかけての儒学者・詩人で延享3(1746)年広島県の安芸で生まれた。
頼春水は頼山陽の父となる人物で幼名は青圭、字は千秋、伯栗。春水は大阪で用いた号で、江戸では霞崖と称した。通称は弥太郎で、文化13(1816)年に他界した。文和の安永9年12月7日の日記帳には、「先生の奥様安産、男子、久太郎と名づく」とあり、この久太郎が後の頼山陽。ということは頼山陽の誕生に文和と半右衛門は立ち会ったということになる。
その後、半右衛門は家業である商業を継ぐため天明元(1781)年5月末に大阪を出、文和は医師を目指して長崎に移住。長崎では漢方と蘭学を折衷とした医学を修める。江戸期に蘭学、兵学、砲術などの学問を修めるため全国各地から長崎に行った人々の数は1052人以上にのぼるといわれ、佐渡からは文和の他に川上文興も長崎に行っている。
若い頃から俳諧を好んでいた文和は墨十庵喚我と号して「名月や後に明けて宵の山」「よいゆられ心が沖の浮かもめ」「松島やならへて開く五月雲」があり、また神戸に出て湊川神社境内にある楠木正成公の墓前では「あゝあはれ誉られて散る紅葉かな」と詠んでいる。文和の著書には「浪華日記(安永九庚子五月辞平安城浪華着記)」が1冊あるという。
文和は文化9年2月28日に発病し、6月14日に長崎で他界した。54歳であった。葬儀は大光院で盛大に行われ他界した。。その後妻は出家して春林院と称し、佐渡に来て、遺骨を和泉村正法寺(曹洞宗)にも分骨した。文和の甥である川上文興は弘化年間(1844~1847)の初めに長崎に赴いて墓参りをしたという。文興は後に医師になるが、文和の俳号である「致遠堂」を医院名にしている。 川上文和の生涯(北見継仁著)より抜粋
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