岡田彰布

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岡田の鼻は豚の鼻wwwwwwwwwwwwwww
岡田彰布 について、ゴミ売読売ファン
どんでんは腹を切って死ぬべきである、またどんでんは ただ死んで終わるわけではない、俺と原ちんがアツアツのけつねうどんの丼に顔を突っ込ませ、鼻からうどんを噴出させる予定である。
岡田彰布 について、デイリースポーツ
残念だが当然。男らしい最期と言える。
岡田彰布 について、原辰徳
その物騒な顔つきから特に男性ファンが多い

岡田 彰布どんでん1957年11月25日 - )は、兵庫県に本拠を持つ阪神タイガース2004年から2008年までと2023年から2024年までの一軍監督である。もとは二軍監督、その前は同球団の選手、更にさかのぼれば阪神ファンと、筋金入りの阪神色人物である。NHKプロ野球・BS放送非公式イメージキャラクター。

職業は阪神タイガースの監督や、巨人退治、報復予告など。

人物[編集]

  • ニューハーフとぴーしてるところを週刊誌に撮られて、一度オリックスに左遷された。
  • そのとき誕生した息子が、ガンバ大阪に所属する遠藤保仁。おかしな顔して、(広意義)での狙いの巧さは遺伝か?それゆえに近年のあだ名は「遠藤のオヤジ」
    父・岡田彰布と息子・遠藤保仁

審判に文句を付け退場処分になったのは生涯で2度目。しかも同じ年に2回で、これは阪神の監督として初めてで、セリーグ日本人監督としても初めて。

試合中の点が入ったときや、相手がエラーした時の喜びようはスタンドのおっさんと変わりない。また幼少時代、阪神の優勝パレードの車に乗せられた事から、基本的には阪神ファンが阪神の選手になり、阪神の監督になった事が判明。

どんでん と阪神タイガース[編集]

タイガースとの出会い[編集]

阪神ファンが ひしめく大阪府に生まれた どんでん少年は、当たり前のようにお祭り騒ぎに染められて育った。しかも、父親からの影響もあって、その色は濃くなった。

1962年、ご贔屓の阪神タイガースが2リーグ分裂後としては初の優勝を飾ると、10月5日にはパレードが催され、ユニフォーム姿の選手たちがシボレーのオープンカーに分乗し、喝采を浴びた。

ところが、その先頭車両に当時4歳くらいのどんでん少年が乗っていたというのだ。

信じられない幸運である。

憧れから一員へ[編集]

北陽高校では1年からベンチ入りメンバーに選出され、甲子園へも出場したという。

だが高校時代よりも、リーグ三冠王を獲得した早稲田大学での活躍の方が注目され過ぎて、6球団からの1位指名を受けた1979年のドラフトは過熱化してしまう。それでも どんでんは、思い描いていた阪神からの指名を受け、晴れて入団する事が出来た。後にくじ運の悪さで苦しむことになるのは、この時に運を使い果たしたせいだと思われる。

ルーキーイヤーの1980年、打撃はともかく守備が荒削りで出番の無かったどんでん観たさに、ファンが抗議行動を起こすまでになった。二塁を守らせるはずだった大不振の助っ人外国人どんでんを即戦力として全く考えていなかった監督がファンの「岡田を使え」コールに耐えかね辞任。おかげで育成方針まで変わってしまった為、出場機会が突然激増。最終的には18本塁打を放って新人王に輝いた。

着実にプロ選手としての歩みを進める どんでんに試練が訪れたのは、4年目のこと。

2塁手として出場していた7月10日の甲子園で、2ゴロ処理の際に「公開股裂き処刑」を味わって、1983年の残り試合を棒に振ったのである。

1984年には回復するも、平田勝男の躍進に伴う内野陣の大変革と、足の状態を案じる 当時の安藤統夫監督の配慮もあって外野手としての出場が多くなった。なお、この年限りで退任となった安藤に替わって、あのムッシュが監督に再就任した。

奇跡の年・1985[編集]

新監督のムッシュによって、再び2塁手として呼び戻された。

ムッシュとは、現在においても並ぶ者の無い「タイガース史上最高の内野手」である。ただ尊敬に値するだけでなく、どんでんにしてみれば幼き頃のパレードで、万来の喝采を中心で浴び続けたという正真正銘のスーパースターに他ならない。そのムッシュによる内野再起用に奮起したのか、この年を生涯最高成績で駆け抜けた。

4月17日、この年を象徴する神事・バックスクリーン3連発ではランディ・バースに始まった禰宜職の3人目を見事に務め上げ、黄色いお祭り集団を熱狂に巻き込んだ。

8月の月間MVP、9月の2試合連続サヨナラ打など、ラストスパートへの苦しみに耐え続けるチームを救うと、最終的には打率.342、35本塁打、101打点の成績を叩き出した。どんでん達による驚異的打撃の産物である球団記録219本塁打などの為に、「ダイナマイト打線」という懐かしい球団の古称も復活。チームは 21年ぶりのリーグ優勝、そして球団初の日本一に昇り詰めた。

なお、有頂天のまま留まるところを知らない トラキチ達の乱痴気騒ぎはウッカリ、禁忌を犯した為に、チームはジワジワと厄災に見舞われていく。

また、この年に初めてフライデーされた相手がニューハーフだったことを今でも悔いている。

暗黒の入り口・1987[編集]

バチ当たりな厄災の効果が、この1987年から顕著に現れた。

前年の骨折が祟った掛布雅之の不調に合わせて、どんでん自身も不振に陥った。ランディ・バースの孤軍奮闘では勝利もままならず、チームは崩壊。勝率.331、首位とのゲーム差37.5というドン底を、日本一の栄冠からわずか2年で味わった。

しかも、ドン底はこの期5年にも亘るという、恐ろしい時代に突入したのである。

選手としての晩年[編集]

1988年限りで掛布が引退。現人神もオクラホマへ去ってしまった。

そこで、3塁へコンバートされ、チームの沈没を食い止めようと勇んだものの報われなかった。

1991年、プロ12シーズン目を迎えたこの年を境に、衰えを見せた どんでん。試合出場の機会を若手に譲るケースが目立ち始めた

1992年、怖いもの知らずの若手が台頭。先発陣の粘投でチャンスを待ち、中軸を担う助っ人外人の一打で辛うじて勝ちを拾うというチームには「優勝しちゃうかも旋風」が吹き込んだこの1992年シーズンは、最終的には最下位までが9ゲーム差、5割越えの4チームに優勝の望みがあったという大混戦。中でも唯一、防御率3点未満の安定感を強みとしていたのが阪神で、一時はホントに優勝できそうだった。為、ふて腐れていた黄色いお祭り集団も久々に活気付いた。

若手と助っ人の活躍によって、どんでんのようなベテランの起用は、代打に限られていった。また、盛り上がるチームの機運とは対照的に、大縄跳びに入れないドン臭い子供のような成績でシーズンを終えた。(打率.189、2本塁打)

チームも10月10日からの、野村克也に率いられた東京ヤクルトスワローズとの直接対決2連戦での初日で、容易くボッコボコの公開処刑に晒された為、バンザ~イ!で呆気なく終わっちゃった。

翌年も振るわず、阪神を退団。涙ボロボロでオリックスに売られていった。仔牛のように・・・。

オリックス在籍の2年間でも成績は上向かず、どんでんの現役生活は1995年で終わった。

指導者として阪神に返り咲く[編集]

コーチとしての どんでん[編集]

1998年、オリックスでの指導力が評判を呼んだのか、再び阪神のユニフォームを着る。役割は、打撃コーチも兼任する2軍の助監督である。しかも翌年からは監督に昇格ときた。

トントン拍子で出世した上に、1軍監督の野村克也も2001年に失脚。ぼた餅が落ちてくるところだった。

ところが、である。

中日ドラゴンズを厄介払いされた星野仙一が阪神に転がり込んで、居候を決め込んだ。何でやねんっ!!

仕方ないので もう1年だけ、2軍監督を続ける羽目になる。

2003年、鉄拳にも人の心が残っていたのか、罪悪感を持っていたのだろう。どんでんを3塁コーチャーに起用した。

この年は お祭りの年で、グルグル手を回すどんでんの仕事は忙しさを増していた。とても楽しい1年を過ごすと、オフにはグルグルの御褒美として鉄拳から監督の座を譲られた。

監督としての どんでん[編集]

二軍監督時代[編集]

ヘッポコな一軍とは対照的に2000年当時、自称最強の二軍であった、阪神タイガースの2軍監督として、2000-2002年の3年間で2回もヤラセで日本一になった。ちなみに、どんでんを2軍監督に抜擢したのはムッシュであり、ツンデレジジイである。鉄拳の星野は、どんでんの順番に横入りをしたに過ぎない。

でも、さすがに悪いと思って1軍へ、どんでんを2003年に召還している。

つまり、ムッシュもツンデレもさせなかった1軍・2軍の両方を経験させたという、本当の意味で星野が育てたのは、もしかしたら どんでんのみかもしれない。

一軍監督時代[編集]

巨人の原に負けてたまるかと顔芸を披露するどんでん

監督としての采配は、一旦打順とローテーション、中継ぎ、抑えを決めたら特に何もしない、、がデフォルトである。選手の調子が見ていていい加減にせんかい!と言うほど悪くならないと絶対に取り替えない。それで選手から信頼はされていたが、ファンからすれば情けない敗戦を重ねた2007年度の前半戦は、毎日「岡田やめろ!」の大合唱であった。

2004年[編集]

初年度のこの年については色々ありました。この年はなんといっても、新戦力の鳥ちゃんあろうことか前年の優勝の立役者のお猿さんを差し置いて遊撃に起用しまくる。これにより、アンチどんでんおよびお猿さんの信者からは後年に至るまでこの点を徹底批判されるようになった。逆に鳥さんの信者およびどんでんの信者からはあそこで辛抱強く起用し続けたから、鳥さんは立派な主力戦力になったと後年に至るまで絶賛している。これの善し悪しはさておき、この年の目立った采配と言ったらこんなもん。

2005年[編集]

就任2年目の、この年にはシーズン中盤から首位を堅持するも、中日ドラゴンズからの猛追を許すほど窮地に立たされる。しかし、直接対決の大一番でのヤラセ勝ちが決定打となって、ヤラセでセリーグ制覇(87勝54敗5分、2位の味噌カツに10ゲーム差をつける)を果たした。

底力を見せ付けたシーズン終盤での戦いぶり、そのままのスタイルで勝ち抜く事を期待された日本選手権シリーズではあったが、フタを開けてみれば、4試合で4点しか挙げられなかったのに対し、第3戦まで毎試合10点を奪われるという大炎上ショーを展開した。終わってみれば『チーム打率.190、チーム防御率8.63』というシリーズ汚点成績で、それまでのワーストを案の定、更新した。

2006年[編集]

『日本シリーズ打てない病』が癒えないのか?というくらい、得点が前年より130も下回る貧打に蝕ばまれていたチーム。それでいて84勝58敗4分という、前年に匹敵するほどの好戦績を挙げている。でも、3.5ゲーム差の2位に甘んじた。

よくやった、とも言えそうだが、内実は『圧勝を接戦にまで、もつれさせた』・『競り合いを無策で落とした』などなどであり、拙攻の数々を見せつけている。そのため、「もっと勝てただろう(怒)」というのが多くの阪神ファンの正直な想いである。その数例を以下に挙げる。

  • 5月28日、所沢での埼玉西武ライオンズ戦。4-4同点の8回表、1死1・3塁での打者フジモン。スクイズと見せかけ、チョロチョロさせてる間にカウントを悪くし、結局三振。次打者の、逆転弾を放っていたシェーン・スペンサーへの代打、桧山進次郎も空振り三振で逸機。9・10回でも2死から走者を出しながら三振逸機。延長10回ウラに、とうとう久保田智之が打たれて4-5のサヨナラ負け。挙句に翌朝の1部スポ紙には、どんでん発言が載る。『藤本のアホ』と。責任転嫁か?
  • 6月7日、札幌ドームでの北海道日本ハムファイターズ戦。満塁4度を含む17残塁(球団記録は18残塁)、2-3で惜敗。先発の杉山直久を完投の見殺し。ちなみに前日は井川慶が完投負け。
  • 翌週6月14日、仙台での東北楽天ゴールデンイーグルス戦。延長10回表、1死満塁から今岡誠の併殺崩れ、桧山のハーフスイング内野安打で3-1の辛勝。ただし延長とはいえ、12四死球をもらいながら、前週を上回る19残塁

だが何よりも、9月16日に山本昌から食らったノーヒット・ノーラン敗戦に象徴されるナゴヤドームでの10連敗が、優勝の望みを断ち切ったのである。

2007年[編集]

前述のとおり、2007年度は前半戦から主力選手の故障、大不振などで大変な苦戦を強いられてきたが、JFKの神懸り的な大活躍と若手選手、二軍で飼い殺し状態だったベテラン選手の起用がズバズバ当たりまくり、首位から12ゲーム差をひっくり返して優勝する勢いだった。ところが、先発をすぐに降ろしてJFKにつないできたツケが回ってきたのか、10連勝後にJFKそれぞれのリリーフ失敗が相次ぎ、さらに前半戦の打てない打線に逆戻りしてしまい8連敗を喫し、最終的に3位でシーズンを終えた。

そして迎えた公式戦2位の中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ第1ステージは、いつもどおりの野球をして、いつもどおり負けた(球児を召喚することなく負けてしまった)。ここで2勝すれば次にいけるのに、普通の野球をしているところが監督としてどんでんが一皮むけない原因である。

なお、どんでんは現役時代でもなかった退場を、この年に やらかしている。

  • 2回目の退場は同年8月16日の中日ドラゴンズ戦(京セラドーム大阪)で、またしても鳥谷さんの打席。セカンドゴロを放った際、どう見てもベースカバー井端が間に合っていないのに、一塁走者がフォースアウトになった事に腹を立て、ベンチから飛び出し2塁塁審に向かいぴーと暴言を吐いた。
2008年[編集]
日刊スポーツグラフ V逸 記念号「何が V やねん!タイガース」

前年の反省(もしかしたら、退場反省のみ?)からか、2008年は天敵中日ドラゴンズなどの不調を尻目に、序盤から快調にすっ飛ばすチームをつくりあげると、7月には優勝マジックを点灯させる。これはさすがに、星野仙一の2003年と同じ劇的な大差優勝を達成する、と思われた。

ところが、原辰徳が率いる巨人による驚異的なドン底からの伸びに対して、阪神はここから大炎上してしまう。それでも、ゲーム差をジワジワと縮められながらもマジックを7回も点滅させ、逃げ切り優勝を目前にまで手繰り寄せた。とは言え、投手陣の踏ん張りを打線が見殺したり、しおれた打線が奮起しても疲労を溜めた投手陣が吐き出すなどチグハグな凡戦を重ね、黒星を積み上げ続けた。極めつけは、終盤における巨人との直接対決で7連敗。最終的には13ゲーム差をヒックリ返される劇的な敗戦大将として名前を残すことになってしまった。

この汚名をズッポリ被っただけでは終わらないのが、この年のどんでん。

公式戦2位なのに、それもかなりゲーム差を空けたはずの3位の中日にクライマックスシリーズで敗北。それでいて試合終了後には、記録的敗北を喫した監督が敗戦で胴上げされるという、この年の阪神を象徴するどんでん返しを最後に演じて阪神を去った。

いくら通称がどんでんとは言え、こんな結末は無いだろう(怒)

更に、この年の秋横浜ベイスターズにいた現役時代のどんでんの大ファンだったという投手がFA宣言しており、阪神入団がほぼ確実となっていた。ところが、どんでんがいなくなったことで「自分は阪神に行きたいのではなく、どんでんの下で野球をしたいのでは?」と冷静になり始めたところ、横浜のファン感謝デーでファンに「行かないで」と引き留められて最終的に横浜残留を決めることになるというどんでん返しも起こっている。

オリックス監督時代[編集]

2009年から、それまでの魔法が解けたように、単なる阪神ファンに戻った。ところが、この秋にはオリックス監督に招聘された。

早くも秋季キャンプから現場に復帰。

  • 内野の忍者を3番に起用予定
  • 古巣から放出されたバルディリスの獲得
  • 期待の大砲候補偽ゴジラ内野手の新たな登録名公募。

など、来季に向けた意欲を見せている。でも、監督が後から入団しといて、選手の名前を変えさせるくらいなら監督の登録名を始めから『どんでん』にしとけば良いじゃないか!!という意見もあったりする。

その一方で、藤本敦士のFAや今岡誠の移籍先未定問題など古巣に関する話題へのコメントを求められても、『今岡さらしもの発言』で遠慮なく応じている。おかげで阪神の坂井オーナーが「今岡に悪いことした」と、後日に謝罪コメントを発表するほど問題を膨らませている。

どんでんのオリックス監督時代の特徴はひたすら選手を叱咤して、奮起を促すというもの。敗戦後のコメントにはなにかしらの選手への叱咤・批判が含まれ、連敗中ともなればもう怒り心頭で敗因となった選手を揚げて批判するということが目立った。このため、この時代のどんでんへの批判は「あんなに批判されて選手が可哀想」、「自分の采配ミスは棚にあげて選手へ責任転嫁してる」などが多い。もっとも、オリックスはどんでんの監督就任時はハマの虚弱っ子なみに低迷しており、チーム内の雰囲気もだらけきっていたという噂[1]もあるので、一刻も早くチームの風土を改善させる必要があったためこのように選手に厳しく接したということもあるが、いずれにせよそれは本人しかわからない。そらそうよ。

このような雰囲気で、オリックス初年度の交流戦にアレという言葉を使い始めて勝ち取ったことは忘れられてしまい、阪神の監督に復帰してから思い出されることになる。

2012年、チームが最下位に終わったことで詰め腹を切らされた。始めはシーズン終了で抜けるはずだったが9月25日でクビ。

第二次阪神監督時代[編集]

2023年[編集]

2023年から、阪神タイガースの一軍監督に就任することに。就任早々、「1年目からアレしか考えていない」と公言、現有戦力できちんとやれば十分勝てると主張した。事実、大型FAも大物外国人獲得もないまま復帰初年度のペナントレースに突入すると、5月の時点で首位に立ち、10連勝も記録。6月の交流戦からもたついてSNSで「岡田辞めろ」がトレンド入りもしたが、7月のオールスター明けからは最多連敗が3しかなく、10連勝・5連勝・11連勝という無双ぶりを発揮して球団史上最速でアレを達成し、前任者を顔色なからしめる結果になった。15年前に苦杯をなめさせられた相手には優勝決定時点でたった5つしか負けないという圧倒的な「お返し」で、目の前で胴上げを見せつけた。さらにインチキ下剋上は3試合とも僅差で逃げ切り無敗で突破、かつて率いたとの日本シリーズは第7戦まで持ち込まれながらも

チームを38年ぶりの日本一に導き、かつてのお笑いネタをすべてひっくり返してみせた。

まさにどんでんの愛称に相応しい監督人生の大どんでん返しである…て、はっきり言うてこんなんやったら頭の固い百科事典と変わらんやん。ネタにしにくなったなぁ、おーん

2024年[編集]

この分だとリーグ分裂後初のアレンパは十分可能と評論家もファンも思っていたところ、投手力は前年の強力さを維持したものの、野手陣の打撃や守備が急降下し、一時はクリーンアップを軒並みファームに送るという前代未聞の荒療治を敢行。このあたりから、二軍監督時代に仲のよくなかったツンデレジジイよろしく、選手へのボヤきが日常茶飯となる。それでも9月頭に5.5ゲームあった首位とのゲーム差を3週間で1.0にまで縮めるという辣腕ぶりを発揮し、奇跡の逆転優勝で有終の美を飾るかというところでずっこけてしまう。その上どんでんが何も言わないうちから今年で退任が既定路線という報道が飛び交い、迎えたCSは3位横浜に惨敗を喫して二度目の阪神監督は終わった。

なお、この時の横浜監督は16年前に阪神入団が確実と言われながら、どんでんが一度目の阪神監督を辞任したことで思い直して横浜に残った投手であった。もしも、あの時にどんでんが阪神監督を辞任していなかったら、件の投手は阪神に移籍して引退後に横浜監督に就任することはなかったであろうし、横浜がCSに出ていなかった可能性もあった。つまり、

一度目の監督としての終わり方が、二度目の監督としての終わり方の伏線となった。

やはり、最後はネタを残して去ったのである。

脚注[編集]

  1. ^ 選手がどんでんを追い出すために親会社の上層部に色々もちかけたとか、どんでん自身が「なんか、厳しくしたら、『監督が怖いから、満足なプレーできません』って言われた」という一部報道が出るレベル。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

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