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2012/08/18

自由律俳句の近代

「自由律俳句の近代」 (初出『鬼』2012/No.28)   


   はじめに

 いわゆる自由律俳句の作家と言えば、尾崎放哉と種田山頭火が人気のツートップで、大手書店にいけばこの二人に関する書籍は何かが常に売られている。しかし、この二名の他は、俳人の間ですらほとんど作品を知られていないのではないだろうか。せいぜい、自由律の理論的支柱である荻原井泉水とか、最もはやく自由律を始めた天才肌の作家である中塚一碧楼、「陽へ病む」という最短句を詠んだ大橋裸木、高度成長後の夭折の自由律俳人である住宅顕信あたりが、多少作品を知っているとか、名前くらいは聞いたことがある、というところだろう。要は、ある時代に固まって自由律を詠んだ層がいて、ある時期において先の二人に興味が持たれて人気が定着したのであり、特に高度成長期以降に良く読まれ始めた山頭火は、作家の時代と読者の時代がかなりずれている。そして住宅顕信は山頭火の影響下に作句しているだろう。現在もなお自由律俳句を詠む作家はいるが、お世辞にも人口に膾炙するような作品が生まれている、とは言いがたい。ではなぜ、自由律ははじまり、なぜ人々に受け入れられ、なぜいまはかように衰退しているように見えるのだろうか。また、これからの自由律俳句に可能性はあるのだろうか。予感めいたことを言えば、自由律は俳句が近代に担わされたものと闘い、破れざるを得なかったのではないだろうか。


   一、「日本語」という問題

 明治国家としての日本は、もともと長く異国であった幕府と諸藩ごとに違った言語、いわゆる方言をもち、例えば津軽人と薩摩人ではまるで違う言葉を話しているように聞こえるごとく、会話が成立しづらい状況にあった。構造主義風に言うなら、言語が世界を分割しているありようがその言語を使う人間の頭の中身(考え方)を構成してもいるから、それぞれの人々の頭の中身は一様ではない。また、ある方言の語がさししめす記号の意味内容がすべて均一に異なる方言の同義語ときれいに置換可能であったとも思われず、そうなると理屈の上ではいわゆる風土性を抜きにしても同じ「日本人」といいつつ、言語的に人間のものの考え方は一様ではないことになるだろう。帝国主義時代の外圧をまともに受け手成立した明治政府は、当然ながら戦略として近代国家(ネーションステート)を目指したから、地方ごとの差異よりも国民としての一体感を共同幻想として持たさねばならず、そのために領土内の異民族まで巻き込んで一国一言語であることを国是とすることになる。若い国家らしくすべてが同調して進んでいたわけではないものの、日本語づくりは官民一体といってもいい運動となったが、そこから一応の「共通語」の成立までは長い長い道のりである。
 その近代国家諸国には、国民文学としての韻文・小説・戯曲があって、その規範としての古典が存在することになっていたから、日本でもそれが求められたし、そこから俳句は日本独自の韻文としての道を歩み出すことになった。言い換えれば、世界から観て俳句は日本独自の詩形式だというアイデンティティがここに生まれることになる。
 国家戦略に則って設けられた最高学府である大学の国文科で学んだ子規がなぜ俳句・短歌・散文において「写生」を言い出したのか、さらにその後代の人々がそれぞれの分野で「写生」を引き継いでいったのかを考えるとき、例えば俳句史上言われるところの旧派宗匠の駆逐など、ジャーナリズム的には多少面白かったとしても、たいして重要な問題では無いし、実際にできていたわけでもない。それよりも、日本独自の文学を当時のグローバルスタンダードに適うものとするために、江戸を引きずったまま一国一言語化(共通語化)や言文一致など、いろいろな課題をいっぺんにやろうとして混乱し不安定な状況の「日本語」の記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)と読まれる文脈(コンテクスト)と、新しい韻文たる俳句や短歌や散文(テクスト)をどうつきあわす(普通に言えて意味が通じる)か、ということのほうが、よほど大問題だったはずである。
 実は子規の「写生」とは、理解の文脈の共有の成熟の度合いの様々な相にあっても、読み手に投げかけるかたちで個別、全体ともに理解の文脈を再構築する上での器(ゆるやかな枠)になるものとして考案された概念ではなかっただろうか?この日本語の混乱が一応落ち着くのは、文学者の努力よりもむしろ政治的理由、日清、日露の二度の大きな戦争に拠るところが大きいだろう。外に敵があると内が結束するのはどこの人間集団でも共通することだが、国の命運をかけ、前時代までの文明のお手本だった国と争い、新時代のお手本たる帝国主義ヨーロッパの強国を曲がりなりにも破って、世界の一等国(帝国主義列強)の仲間入りをしたと思われたことは、いろいろなものを飛び越えて時代を画し、日本人という共同幻想を完成させるのに役立っただろう。できてしまえば大衆が勃興するし、国家をおびやかす「敵」が居る限り幻想の力学は継続する。そして、用意された諸々の「伝統」は半ばファンタジーめいたものからリアルへ変わり、日本および日本人は観念として内向きではなく世界へ向かって膨張するだろう。新しい時代を迎え、そうなると言葉においても理解の枠のための「写生」など、現実面はともかく、もはやわざわざ言挙げされない。その反面、国がまとまったことによって個(自我)の意識も高まることとなり、文学の主要テーマとなる時代から疎外される自我の憂鬱も相対的に立ち上がることになる。実際に何を近代化したのかはさておかれ、子規より後の「写生」は、後代の手によってそれを写し取る自我の主観と客観の問題へと向かうことになるだろう。


   二、自然、自己、自由

 井泉水の自由律は、俳句においてもフランス革命の如く個人(自己)を封建制度の軛から開放(自由)しようとする思想であった。その意味で言えば、理屈通り行くなら俳句はモダンなものとなるだろう

自然、自我、自由、此の三つの頂点に依って支へられたる実践的思想が俳句の精神である。自然はどこにあるか―自我の中にある。自我の姿とは何であるか―自由のこころである。自由の心は如何にして得られるか―自然に随う事。此の三位一体の境地に私は俳句の精神を見る(荻原井泉水「俳句の本質」大正七年八月)

今から見れば、ここにいくつかの問題があったとみえる。井泉水は「実践的思想」というが、果たして封建制度から抜けた個人の「自由」とはなんなのかイメージを持っていたのだろうか?一つのイデオロギーが終われば違うものにすり替わるわけで、代わったものはやがて常識となり内面化され意識されなくなるから、その階梯において見えなくなることの問題のほうが重要である可能性だってある。仮に五七五定型や季語が封建時代の影をひいているからといっても、井泉水の主張は時勢を背景にした単純さと強引さがあるように見える。それは時勢が変われば失われよう。
 さらに、自我と自然(汎神論的超越者)とで一体の境地を得るとなれば、井泉水の主張をまたなくても、日本の自己(内部)と自然(外部)の無媒介的一体化は昔から様々なところでよく言われてきたところである。井泉水は主としてゲーテと禅の思想から発想し練り上げたものと思われる。そこに「自由」を入れたところが彼のオリジナルであるが、井泉水はその「自己」の「自由」を説明するのにあたって、それは野放図なものではなく、いわば「自然」の摂理に従うことだとする。

松はその松の木のあるべきように枝をのばしている、竹はその竹のあるべきように葉を茂らしている。外から拘束されてはいない。その内部からの生命がそのあるべきように伸びてゆく。と言って、むちゃくちゃに、勝手にはびこるのではない。「自然」の節度をもって、松は松竹は竹としての「自己」の個性によって生存し生長する。これが「自主」であり「自在」である。それを私は「自由」と称するのである。(「自由」『自然・自己・自由』昭和四七年)
 

近代日本における「自由」の扱いは困難を伴ったのはわかる。が、晩年にいたるまで一貫してしまった井泉水の主張は、私から見れば、例えばこの文中の「あるべきように」には恣意的選択でまるで説得力がない。
 さらに、「あるがまま」とか「自然のまま」というとき、井泉水自身の考えはともかく、一般日本では井泉水の批判対象であった封建制度内の外部たる老荘思想のいう「自然」に容易く結びつくし、さらにその表裏たる儒教道徳が背後にまとわりつくものであることを忘れてはならないだろう。道徳の反面の自由は、実は根はひどく保守的なものであることは周知のことであり、例えば現都知事の実践を思い出していただければ充分である。井泉水の言う「自由」のブレーキたる「自然」は、内側にそのようなものが入り込む隙があるものだ。おそらく井泉水は元々はそのようなものをも越えてもっと根源的なものを探究するつもりであっただろうが、根源を志向したところで、ないかもしれないものを信じるという宗教的情操で思考停止してしまったように感じられる。
 井泉水の思想は、人間内外の生な「自然」(例えば身体性)にはどうも遠く、頭の中での話に偏りがちではないかという感触があるが、言葉のレベルでも頭の外へ出れば、定型を壊そうという彼の革新は、言語記号とそれを支える枠組み(日本語)の更新までも射程に入ってくるものであり、道筋としてはたしかに子規の革新、すなわち「近代」の流れの一端を担うものではあった。


   三、俳句のアイデンティティと普遍性

 一般に、創作主体たる「つくる私」は、自己の作品が多くの人に読まれることを願う。すなわち、自作の普遍性を望むのは自然なことであろう。一方、今でもそうだが、世界の中で俳句が日本独自の韻文(詩)である、という見地に立った時、俳句を世界文学化しようとすれば、独自であるがゆえに季語と五七五は異言語において普遍性を喪失する。俳句はその意味で、日本語を境界線にして常に矛盾を抱えた詩型式である。さらに、明治三〇年代に入って、ヨーロッパから時代のスタンダードだった「自然主義」がやってきた。これを辞書レベルで意味を確認しておくと

「文学で、理想化を行わず、醜悪・瑣末なものを忌まず、現実をただあるがままに写しとることを本旨とする立場。一九世紀末頃フランスを中心として起る。自然科学の影響を受け、人間を社会的環境と遺伝とにより因果律で決定される存在と考えた。ゾラ・ハウプトマンなどがその代表。わが国には明治後期に伝わり、田山花袋・島崎藤村らが代表。(『広辞苑』第四版)」

というもの。付け加えれば、花袋や藤村の小説の書き方は、この後「私小説」につながり、その系譜は今も根強い人気がある。自然主義はそのきっかけを作った思潮だと言っても良いだろう。文学史はどうしても小説中心に語るが、碧梧桐らの新傾向をはじめ、俳句に与えた影響も大きかった。
 そもそも、俳句は五七五を軸にしなくなれば俳句ではないのではないか、というドメスティックで素朴なレベルの疑問を難なく飛び越えるためには、いくら一人が理論構築しても、なにかしら下支えする時の思潮、観念がなければ説得力は持ち得ないし、作家の集団化は難しいだろう。西欧から来た自然主義は日本人の自我の拡張と東洋的な「あるがまま」を尊ぶ自然観とある意味で調和し、それが自由律を下支えすることになったと思われる。自然主義的な思想傾向で言えば、「私」にとって表現したい言葉にわざわざ五七五の枠(韻律)をつけるのは、真実あるがまま(ほんとう)の「私」や「自然」を表現する行為とはいえない。井泉水の言い方を借りて言えば、定型や季語は新時代の人間の創作にはふさわしくない封建時代の遺物であり、自己を主張できない、旧時代の人間を束縛する観念でしかない。ならば俳句の定型は、福沢諭吉言うところの「門閥制度は親の敵」の「敵」の遺物と言う意味で社会の敵なのである。さらに言えば、「あるがまま」に表現することを希求する態度からすれば、人間の五感に対して伝統的理解の文脈をもとめる季語や五七五韻律はもちろん、既存のストックフレーズ及びそれに準ずる発想や表現はすべて前時代的な物であって「自然」な人間の感性を束縛するから、そのような文学観からすれば否定され、更新されねばならないだろう。さて、そのようなことは可能だろうか。
 以上を整理すれば、時代が画期を迎え、「自然主義」という世界標準的運動、国内的には観念レベルでの封建制度からの人間解放運動をくぐった自由な自我をもつ(とされた)人々の中で俳句が普遍性を目指す時、俳句も画期を迎えて五七五や季語を捨て、ありのままを詠むことをめざすという主張には一定の説得力がありえただろう。
 視点は違うが、現代でも世界中で詠まれているHAIKUとその翻訳を考える時、この定型と季語の問題は現在も継続中であり、世界に広まった分、日本の俳句のガラパゴス化が進んだとみることすら可能であり、かような世界標準からすれば、この定型か自由律かという問いそのものがナンセンスである。ともあれ、この理屈の段階で定型から自由律俳句の実践までは、もうひと飛びの距離しかない。

 
   四、井泉水・放哉・山頭火

 二〇世紀初頭においては、文明、つまり自然科学も人間自身も今よりもっと信じられていたように思われる。進歩の前に旧時代の遺物は簡単に切り捨てられる。唐突なことを言うようだが、それは日本における大都市(とその郊外)の変化のありようによく似ているように思われる。この百年、日本は常にポストモダンであって、更新され続け、例えば新しい建物が建っている場所に前は何があったかを思い出すこともなかなかできない。そこでそれを是とする心性と、そこから反転して変わらないもの(例えばイメージとしての田園風景)を求める心性が人の中に併存してあることも、肯われることではないだろうか。そのことと、自由律と有季定型の理論的立ち位置の関係は、そう違うものではないような気がするのである。
 自由律俳句において、井泉水の本来狙った戦略としての日本文化内部での立ち位置は、進歩を続ける人間の自我の、根源たる自然とつながり、心の自由を得つつモダン→ポストモダンの寵児たるべき韻文、とでもいえるのだが、その意味で世間に受け入れられることは少なかったかもしれない。そもそもが俳句は古いものだ、という素朴な観念と「伝統」志向をついに越えられなかった。先の言い方に沿えば、眼前の物質的現象が宿命としてどんどん変わってゆく中で、自己の魂は変わらないと信じたい気分が、井泉水の求めるさらに根源的なものではなく、素朴に懐かしいと感じる程度の保守としての俳句のありようとリンクしたのではないか。「その抽象的な主観の形式における自己絶対化とうらはらに、その現実の労働と生活の内実において、自己を物象として経験し、かつ実践せざるをえない」(見田宗介『現代社会の社会意識』弘文堂 一九七九)という「近代的自我」にあっては、頭の中の自我と現実面では折り合いがつかないのが普通である。とすれば、井泉水の主張する自然と三位一体の自己の自由など、多くの現実に向き合う人々にとっては求道的な絵空事と映ったかもしれない。結果としては、自由律俳句は五七五定型という伝統的形式に対するアンチテーゼかつ、アンダーグラウンド的な立ち位置を越えることはなく、後年放哉と山頭火のみが俳壇外の人気を博すことになった。
 放哉や山頭火は、そのようなモダンな主張の側で作句しながら、たぶん多くは印象として、そのような新しみは持たれないだろう。伝記的情報が作品とセットでメディアに流れることによって私小説的に作品が受け入れられ、アウトローであったことによって評価されている。彼らは、破産する大資産家の家に生まれていたり、元エリートであったりで、「末は博士か大臣か(一流大学を出て国家有用の人物、社会の権威者になれ、立派な家族の家長・父親になれ、女にもてる男であれ、等々)」的な男性に共通する社会的抑圧に忠実な人生を歩めずに転んでしまったところから人々をひきつける句作が始まっている。
 言い方を変えれば、破滅型私小説と同様の自己暴露を読者から愛されて生き残ったのであり、その点では他の俳句作家とは趣が異なるだろう。彼らの自由律は自由律であることによって、あたかもそのような人生の無常や野放図さや内面の葛藤を生にあらわすのにふさわしいスタイルに見えてしまった。別の視点で言うなら、半ば世捨人になって生きることによって彼らこそが自由律にふさわしい身体(自己)性を獲得して詠み得たのかもしれない。
 やや意地悪な見方をすれば、前時代の封建制度からの自由を謳いながら、井泉水は封建以来の男性社会のもつ男性への抑圧ポイントには案外に従順であり、そこにいる限り彼の言うところの三位一体、自然に従う自我の自由など所詮封建的儒家的道徳の奴隷なのではないか、ということにはついに思い至っていないように思われる。
 放哉や山頭火の俳句は、近代のもたらした観念と現実のさまざまな抑圧の枠外にはじき出されることで生まれた内面から成立している。先に述べた自然主義から私小説の流れを考えれば人々が文学に求めたものを反映したとも言えよう。だからといって後に続く者が同じ小宇宙の中で彼らのような魂の叫びをしたところで、自由律にそれ以上の理論的伸びしろはないように思われる。平凡の鏡としての生活破綻者の魅力は男性社会の中では放哉と山頭火で需要は一応の満たされているから、「平成の山頭火」などと亜流として一定の評価を受けて終わるのが関の山だろうか。それでも彼らが開いた道の先において、大衆の消費と羨望の対象たるアイコンを目指すことは一つのありようではあるだろう。あるいは、ふたたび現行のパラダイムを壊し、井泉水の止まってしまった思考を引き継いでその先を見据えるのも面白いかも知れない。また、ノンジャンルに近いアフォリズムや、生物学的意味ではない女性の女性による女性の為に詠むというのもありだろうか。自由律はまだ面白くなる可能性を秘めているだろう。


   おわりに

 例えば芭蕉は頭の中で枯野を駆け巡る句を詠むことができたし、窓秋は頭の中が白い夏野になる、という句が詠めた。頭の中は行動することも映像を描くことも自由である。井泉水の自由律俳句は、そのような自由な頭の中で、封建の遺物を取っ払った跡にはたしかに真の自我と自然を取り出せると信じることで理論構築されている、それ自体が近代イデオロギーにどっかりと腰をおろしたものであった。だが、その頭の中の自由な自我は、近代の現実生活の面では同一性を引き裂かれてしまうのであって、近代によって過去を取っ払っても、その近代の現実には勝てなかったのである。未だに責任の所在(主体)が不明瞭な言語表現を駆使する私たちの日本語に、彼の夢想した「自我」などありえるのだろうか。他者に消費される「自己」として、放哉や山頭火が生き残っているのは、皮肉としか言いようがない気もするのだ。
 本稿は井泉水の系統と俳論を軸に考察した。いくつかある別系統の自由律についてはまた他日を期したいと思う。 

(付記・・原文は縦表記。レイアウト等、一部改変がある)


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