カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2019/03/11

八年前のこと

 あの日は金曜日で、揺れ出したとき、出講先の学年末試験の採点をしていた。ゆれかたですぐ尋常な地震ではないと分かったが、現実ははるか予想の上を行くものだった。その翌日、急に入院中の父親が危篤になったと連絡が来た。危篤とはいえ、とにかく成績処理をしないと帰るに帰れないので、もろもろ帰る算段をして月曜の朝一に出勤して仕事を片付け、その足で羽田に向かった。そういうと簡単だが、都内まで行くにも最寄りの電車はまだ全線止まっており、バスで動いていた東急線の駅まで約一時間移動して都心に向かうこととなった。職場は職場で地震の時に居合わせた教職員は帰宅できなくなり、やむを得ず一晩泊まったと聞いた。おかげで本やら何やらが散らかったであろう自分の机は既にきれいに片付けられていた、そこで急いで仕事を片付けたが、職場から移動する時にも普段ならおそろしく正確に動いている山手線ですら予告なく途中で止まり、地下鉄に乗り換えないと羽田に行けないありさまだった。フライトにどうにか間に合う時間に羽田に着いてみれば、原発の屋根が吹き飛ぶ映像がモニターに繰り返し映し出されていた。同じ飛行機に乗る客は母と子だらけで、一様に不安な様子であり、戦禍を逃れる疎開者そのものだった。自分はそんな状況の中、この子供達の父親は仕事の為にやむをえず残っているのだろう、とか、テレビの向こうの震災の被災地の中に、直接地震とは関係なくいまの自分のように急に親が危篤になっている人もいるだろう、その人達は大丈夫だろうか、などと思っていた。地元に帰って病院に着いてみれば、父親はなんとか持ちなおしていた。すぐになにか、という状況ではない様子であったので数日で戻ったが、羽田から最寄りの駅までの帰りのバスの、高速の高架の上からみえた横浜駅のバスだかタクシーの乗り場には長蛇の列ができていた。バスが一般道に降りてみると道沿いは明かりを失っておそろしく暗く、たまにあるコンビニの明かりだけが異質に救いのような輝きを放っていた。

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2009/11/08

先日の記念日に

ごちそうを喰べにいきたくなるときに行く六本木のお店へ。お任せで頼んだ白ワインは大当たりで、自分らで選んだ赤ワインはちょっとハズレ。やはりプロに任せるに限る。なにはともあれ、みんなおいしかった。いい加減よっぱらってデザートの写真はきれいにとれず。すべて完食。ごちそうさまでした。

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2008/06/29

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になった。といって、当然日常急に何が変わるでもない。
ちょうど週末だったので、骨休めに箱根の安宿へ。
ほんとに元とれているのかというくらい
ちゃんとおいしいご飯をたらふくいただき、
部屋のしょぼさには目をつむって温泉を満喫。

紫陽花も咲いていれば、ハナミズキに卯の花も咲き、
鶯は鳴いてるし、時鳥はまだウンともスンともいわない。
歳時記の順番なんかクソ食らえの世界。

登山鉄道界隈の紫陽花
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成川美術館の紫陽花シーズンの和菓子

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芦ノ湖畔の卯の花腐しそのものの景

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2007/01/03

謹賀新年

 皆様本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 今年の目標など特にたてちゃいないが、去年はどうにも予想外のことが多く思うに任せなかったので今年は一本でも多く論文など書きたい。ま、先は見えないので、焦らすにいこうと思う。

 正月は箱根へ。とはいえ駅伝は結果は気にしつつ、寒い中沿道で応援する趣味などはないので、初詣をしたり美術館に行ったりして本格的に混み出す前に撤収。思ったほどの寒さではなかったが、芦ノ湖に行く手前にある池は凍っていた。先ほど結果をみたら母校はあやうくシード落ちを免れたが、仕事先はなんだか終始イマイチで最後はとうとう繰り上げスタート。それにしても目の前で先にいかれた選手達は気の毒だ。日テレさんはいつもここがドラマだ、と言わんばかりの演出をするけれども、今年もそうだったんだろうか。

 そういえば、去年はたくさんあったスポーツイベントの中継の時に、やたらとキャッチコピーが多かったり、アナウンサーのしゃべり方が妙にテンション高かったり、あるいは動作表情の描写を言おうとして言い切れず噛んでいたりして、聴いていて愉快じゃなかった。しかもみんな似たり寄ったりでムダが多い感じ。かつて古館氏は他の追随を許さない独特のしゃべりで、ある意味すごかったけど、その亜種のそのまた奇形みたいな感じというか。今年あたり、良い意味でも悪い意味でもキャラの立つようなスポーツ中継のアナウンサーさん出てこないだろうか。

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2004/10/11

川の記憶1

 故郷の家から10メートルも離れていない川は、わずか数キロの本流をさかのぼると、二本の支流に入る。この二本の川はリアス式海岸の険しい地形をうがち、長い時間をかけてわずかに沖積平野を形成した。その後江戸時代から現在まで続く埋め立てによって陸地を海へとのばしたために、ろくになかったであろう「本流」ができた。したがってこの川には新川というおよそ情緒のない名が付いている。二本の支流に五反田川、千丈川という広さへの志向がこめられた名がついているのとは対照的だ。川は戦前には泳げたらしい。河口付近には、そのあたりでとれる貝からPCBが検出されたので食べてはいけない、という看板があった。太平洋岸式気候と瀬戸内式気候の境目にあるため、ただでさえ降水量が少ない上に、人工林とみかん畑ばかりの山を水源としているために水量は豊かとは言えず、冬季に千丈川は涸れることすらある。そうなればわずかに残った水たまりにいろいろな魚が身を寄せ合い、運の悪いものはそのままひからびて死ぬことになる。五反田川はわずかに水量がおおく、遠くにあるダムからの送水が始まるまでは毎年のようにやってきていた水不足の時期には、この川にポンプをおろしくんだ水を消毒濾過して水道水にしていた。その上流では生活排水が普通に流れ込んでいたにもかかわらず、である。
 このような、地方都市には珍しくもない川のひとつである新川水系であるが、非常に豊かな生物生態系を形成していた。筆者が離郷してから河川改修が始まり、さんざん掘り返して三面張りしてしまったから、おそらく現在はそれが維持されてはいまい。だから、ここで語るのは二度死んでしまったかもしれない川の話である。

 

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