八年前のこと
あの日は金曜日で、揺れ出したとき、出講先の学年末試験の採点をしていた。ゆれかたですぐ尋常な地震ではないと分かったが、現実ははるか予想の上を行くものだった。その翌日、急に入院中の父親が危篤になったと連絡が来た。危篤とはいえ、とにかく成績処理をしないと帰るに帰れないので、もろもろ帰る算段をして月曜の朝一に出勤して仕事を片付け、その足で羽田に向かった。そういうと簡単だが、都内まで行くにも最寄りの電車はまだ全線止まっており、バスで動いていた東急線の駅まで約一時間移動して都心に向かうこととなった。職場は職場で地震の時に居合わせた教職員は帰宅できなくなり、やむを得ず一晩泊まったと聞いた。おかげで本やら何やらが散らかったであろう自分の机は既にきれいに片付けられていた、そこで急いで仕事を片付けたが、職場から移動する時にも普段ならおそろしく正確に動いている山手線ですら予告なく途中で止まり、地下鉄に乗り換えないと羽田に行けないありさまだった。フライトにどうにか間に合う時間に羽田に着いてみれば、原発の屋根が吹き飛ぶ映像がモニターに繰り返し映し出されていた。同じ飛行機に乗る客は母と子だらけで、一様に不安な様子であり、戦禍を逃れる疎開者そのものだった。自分はそんな状況の中、この子供達の父親は仕事の為にやむをえず残っているのだろう、とか、テレビの向こうの震災の被災地の中に、直接地震とは関係なくいまの自分のように急に親が危篤になっている人もいるだろう、その人達は大丈夫だろうか、などと思っていた。地元に帰って病院に着いてみれば、父親はなんとか持ちなおしていた。すぐになにか、という状況ではない様子であったので数日で戻ったが、羽田から最寄りの駅までの帰りのバスの、高速の高架の上からみえた横浜駅のバスだかタクシーの乗り場には長蛇の列ができていた。バスが一般道に降りてみると道沿いは明かりを失っておそろしく暗く、たまにあるコンビニの明かりだけが異質に救いのような輝きを放っていた。
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