「あれもできる、これもできる」ではなく「あれもできない、これもできない」、しかし・・・

他人の話の文脈をとらえたり、あるいは、自分自身の考えや仕事がどういう文脈にあるものなのかを理解したりするのが苦手な人が多いように感じます。
相手の話や自分の思考の文脈さえ捉えられないのですから、もっと捉えにくい行動のコンテキストはまったくといっていいほど、捉えられません。

でもね、それで困るのは、西林克彦さんが『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』で書いているように、<文脈がわからなければ「わからない」>からなんですよ。物事の読解力に欠けてしまうんです。

僕自身、そんな風な印象をもっているので、書家の石川九楊さんが『縦に書け!―横書きが日本人を壊している』に書いているこんな文章もすごく納得感を感じます。

遠近法の欠如と併せて、距離感のなさも目につきます。たとえば道路を歩いていて人ごみを避けることがうまくできないのか、すぐにぶつかりそうになる若者がいます。さほど混んでもいない電車の中で見知らぬ人と密着していても違和感を持たない。そうした類の例も、よく見聞きします。
石川九楊『縦に書け!―横書きが日本人を壊している』

「遠近法の欠如」とは、デザイン専攻の学生であるにも関わらず遠近法の表現ができない人が増えているという話から来ています。
石川九楊さんは若者の「距離感のなさ」を訴えていますが、僕は若者に限った話じゃないような印象をもっています。比率としては若者のほうが多いのかもしれませんが、「距離感のなさ」は決して若者に限る話ではないはずです。

そして「距離感のなさ」があるからこそ、他人や自分の話や行動の文脈、前後関係などを上手く捉えることができないのだろうなと思っています。
とうぜん、この距離感のなさは、僕が最近「「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一」や「フラジャイル 弱さからの出発/松岡正剛」でで書いている、「ここ」と「むこう」あるいは此岸と彼岸の区別の消失の問題とも重なってきます。オルタナティブを見る目がなくなり、間違い・失敗を許せなくなっていることで、広がりや深さという遠近感も同時に失ってしまっているのではないかと思うのです。

「なぜ?」「どうして?」って思えない

その背景にあるのは、物事を概念や観念で見ていて、自分のちからで事実を捉えようとする姿勢が欠けているということではないかと思っています。

他人の話を聞いても「なぜ?」「どうして?」って思えない。
自分の考えについてもおなじで、自分がいま行っていること・考えていることに対して「なぜ?」「どうして?」を問うことができません。

「なぜ?」「どうして?」が問えないので、他人の話を聞いてネガティブな批判はできますが、他人の話から自分にとって意味のある問題を発見してそこから新たに自分なりの考察をすることができません
とうぜん、他人の話を批判しただけじゃ自分にとっても何のプラスにもならないわけですが、でも、他人の話からプラスを引き出す編集的思考法はスキルとしてもっていなかったりします。

結局、ありきたりの文脈のなかでしか考えることができず、文脈を外れて、いったん相手の話や自分の思考を解体して思考するということができないのですね。
でも、それだと「脳と日本人/松岡正剛、茂木健一郎」で書いたとおり、「文脈から外れた活動がなければ、ひらめきもないし、創造性もない」んですよね。

話をそのままでしか受け取れない。編集ができない

物事を捉えるのに分類的思考、一般にどうなのかという視点でしか捉えることができず、固有のものとして、いま目の前にある関係を新たに定義しなおすということが苦手な人が多いと感じています。
話をそのままでしか受け取れなくて、自分で編集しなおして自分の問題として捉えなおすってことができないんですね。
だから、他人が言った言葉で自分と考えが違うなと思ってもそのまま批判することしかできなくて、相手はなぜそう言ったんだろ、その背景にあるのはなんだろうというところから問題を展開して考えることができません

一般解や一般的なフレームワークがないとそもそも物事を考えることができず、物事の全体像を構造化してみたり、プレゼンテーションや思考の全体像をストーリー化して組み立てることができません。

それが他人の話や行動の意味を理解する読解力の欠如につながっています。
話の文脈がみえていないから、他人の話の途中に割り込んでしまうのも平気でできてしまう。途中であることがわからないし、そのあとに話が続いてどんなことをいうのかもまるっきり想像ができていない。

自分勝手とかじゃなくてもう単純に見えていないんですね。

概念・観念でものを見ていて、事実を捉えられない

概念や観念だけでものを見るというのは、つまり、事実を直視できないということです。
事実は毎回異なるのに、個々の違いを見ずに、自分が知っているパターンをそのままあてはめて見ることしかできない。やっぱり編集して関係を再構成するってことができないんですね。

正岡子規らの「写生」は、いわば「イラスト化」され奇怪な姿と化した、江戸時代までの旧い前近代的神話の1つ1つを解体する運動でした。「写生」することによって、自然や社会、あるいは事件や出来事を直視し-直視とは何度もなぞってみること、つまり「か(掻・描・書)いてみること」を意味します-、「イラスト化」された嘘を暴くものです。
石川九楊『縦に書け!―横書きが日本人を壊している』

正岡子規らが100年前に「江戸時代までの旧い前近代的神話」を解体したのが、100年経って、また別の神話的イラストで世界はすっぽり埋められてしまっているようです。

しかも、そのイラストが中途半端な出来で、なにか明確な未来を描いたようなものにはなっておらず、バラバラのイラストの集積になってしまっているから手に負えません。
バラバラのイラストの集積というのは、つまり、情報過多です。
さらには、その情報過多の時代を生きる人たちに「写生」の能力、遠近法の能力、関係性・構造を読み取る能力、編集の能力が欠けているのだから、これは大変です。

「あれもできる、これもできる」ではなく「あれもできない、これもできない」、しかし・・・

他人の話を聞く技術:べからず集とうまい聞き方のコツ」とか「相手を尊重し、敬意をもって接するために最低限必要な5つのこと」とか書いてきましたが、そういう問題よりもっと以前の問題だという気がしてきました。

他人の話を聞く気がないとか意欲の問題じゃないんですね。
もっと距離感とか関係性とかが根本的にわかっていないというか、それに対する感覚がないんですね。

前に「関係性を問う力、構造を読み解く目がなければデザインできない」なんてエントリーを書きましたが、「デザインできない」どころじゃありません。

人間関係の構築がうまくいかないし、コミュニケーション不全になります。
いや、それ以前に自分が何をやっているかが文脈のうちで捉えられないのですから、自分の仕事がなんだかわからないでしょうし、自分の生き方にさえ迷ってしまうんじゃないでしょうか?
これはそうとうやばくないですか?

「あれもできる、これもできる」ではなくて、「あれもできない、これもできない」、しかし「この仕事で生きるしかない」という社会の中での位置どりが必要です。
石川九楊『縦に書け!―横書きが日本人を壊している』

まさにそのとおりなんですよ。
他人の文脈でも、自分の文脈でも、理解するためには、自分のポジションがそもそもわかっていないといけないんです。
いや、ポジションがわかるとかじゃなくて、覚悟やあきらめみたいなものです。
できる/できないという可能性の次元の話ではなく、現実の世界における覚悟があるかないかです。

距離感ってそこからしか測れないし、そこで測るしか意味がありません。覚悟が決まっていないから距離感がわからないんだと思います。

単に情報が多すぎるとかいう問題じゃないみたいです。どうやら現代が抱える問題は。

たぶん、石川九楊さんがこの本で書いているように、そして、僕自身が最近気にしはじめたように、言葉の問題だし、現代の日本語の問題なんですよね。これは。

  

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