だから、下記の引用は本当にそのとおりだと思う。
いま、日本は漠然としすぎている。
疲れているわけではない。一部には熱意もある。ところが、何かが発揮されないまま、すっかり沈殿したままになっている。歴史と現在が大胆に交差しないからである。
いや、僕がそのとおりだと思うのは「日本は漠然としすぎている」というところではなく「歴史と現在が大胆に交差しない」部分。
過去のことは自分には関係ないと思っているのだろうか?と思うことがよくあります。
いや、関係ないとかいう前に、そもそも過去と自身の現在に関する構造をみる力が足りないのだと思います。物事の関係性を読み解く力、見る目が極端に不足している人が多いのだと感じます。
だから過去が現在と交差しない。だから何かが発揮されないまま漠然としてしまう。
関係を読み解く力、構造化が苦手な人に、モノの輪郭を形づくるデザインという仕事はできないのだと僕は思います。
デザインが下手な人、できない人に共通するのは、関係性を読み解き構造化する力、そして、そもそも関係性を読み解くために他人の話を理解したり、理解するためにわからない点を適切に質問する能力を磨いていない人が多いのではないかと思っています。
関係性が見えない、構造化できない
最近、何か目の前で起きたことに対して「なんで?」と問う力がない人が多いと感じます。起きた現象をそのまま理解するだけで、それがどうして起きたのか、人が何故そうしたのか、を考える姿勢がない。疑問にも思わない。
だから、ちゃんとした理由のあるデザインができない。描いた形に何の根拠もないし、根拠がないから平気でデザインがバラバラだったりします。統一感や一本とおった芯がなかったりするのです。
そのものの内側から出る適正な力の美を「張り」といい、そのものに外側から加わる圧力のことを「選択圧」という。
市場やユーザーが求める外圧とモノ自体や企業が要求する内なる力が拮抗する地点に、形=輪郭を描くことができない人が多いのです。
それはそうでしょう。構造が見えていないのだから外圧と内なる力の関係性も見えないのは当然です。
見えない関係性を見るための問い
見えているものだけを見ても構造は見えません。見えてないものと見えているもののあいだに構造はあるのだから。過ぎ去った過去と現在のあいだに、目の前に見えているものと目の前にあるにも関わらず見えていない背景のあいだに。その意味で、「見る」というということは単に見えているものだけを見ることではないのです。見えないものを問うこと、見えないものを見えているものとの関係性において問うことこそが、本来的な意味での「見る」ということなのです。
前に「見えないものをデザインするには」でもこのように書きました。
情報デザインというと、単にすでに与えられた情報をどう組織化し、構造化し、レイアウトするかという問題だと考えている人が多いと思います。
しかし、与えられた情報をいかにデザインするかも情報デザインですが、実際の情報デザインにおいては<見ようとしなければ見えない>情報同士の関係性-あるコンテキストをもった人が関わることで発生する情報同士の関係性-をいかに理解し、見えないものをいかに視覚化・具体化するかという問題のほうが数多くあると思います。
見えていないけれど実際には存在している構造を理解するには、見えていないものを見えるように問いただす、質問を投げかける力が欠かせません。
そして、構造を理解すること、構造を描くことができなければデザインにはなりません。
だから、デザインが単なるお絵描きになってしまう。
過去と現在の交差する地点も見えなければ、外と内との力がバランスするモノの輪郭も見えないのだから。
「なぜ?」が問えない
トヨタでは「なぜ?」と5回問えといわれるそうです。しかし、多くの人はたった1度の「なぜ?」も問えずに目の前の現象を感受するのみです。それでは関係性は見えてこないし、構造化する力は養えません。繰り返しますが、関係性・構造が見えなければ、他人を理解することもできません。ユーザーのニーズを理解することもできません。いや、デザインの依頼主であるクライアントの要求さえも理解できないでしょう。それでいったい何をつくろうというのでしょう?
「なぜ?」が問えなければ、質問すること、いや、理解のための会話そのものが成り立ちません。ユーザーのニーズを問うこともできないし、クライアントのニーズを比較することもできません。
それでどうやってモノの形が決まるのだろうかということです。何も見えてないまま、何をデザインするというのでしょうか。
ヴィジョンと現在
なぜ、「なぜ?」という問いが発せられないのか?ヴィジョンがある。現在がある。
戦略とはそのギャップを埋めることです。
戦略すなわちグランドデザインです。
だから、ヴィジョンをもたない人にはデザインができません。戦略的に動くことができません。現在からただ何のベクトルももたずに動くしかないのだから。行動そのものが、ただの根拠のないお絵描きになります。将来と現在の関係が描けなければデザインにはならないのです。
自分の現在が見えていない
ヴィジョンと現在のあいだのギャップを理解し、その構造のもとに戦略を描くことができないのは、そもそも過去と現在の交差が見えないことにも起因しているのでしょう。なぜ、いまここにいるのか。なぜ、いまこういう状態なのか。
いや、いまはそもそもどういう状況なのだろうか。私はなぜ、いまの私という状態にあるのか?
いまの私にはどんな過去が交差しているのか? 過去は私とどう関係しているのか?
自分の現在が過去との関係において見えていない人が多いのだと感じます。
ただ、目に見える自分の現状を見るだけで、見えないが存在している過去との関係性、それとの構造を理解できていない。
それが見えていなければ、将来、ヴィジョンもやはり見えないのではないかと思うのです。
私たちは日本の「本来」と「将来」の両方にまたがって暮らしています。過去と未来ではなく、本来と将来。私は未来論というものをほとんど信用していないので、あえて「将来」という言葉を使うのですが、将来のためには「本来」がよく吟味されなければならないと考えてきました。松岡正剛『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』
こういう構造化が見えない人が多いし、見えないだけではなくそういう構造に気づいてもいない人が多いのです。
だから、質問することができない。他人のニーズを引き出すための質問ができない。明確な疑問をもつことができない。構造化された仮説を描けないために、相手を理解しようとするための会話ができない、そういう場をもてない人が多いのではないでしょうか?
残念ながら、それでは物事の関係性を描き、輪郭を決めるデザインという仕事はできないと思います。
関係性を問う力、構造を見ようとする目を養わない限り、デザインはただのお絵描きになってしまうでしょう。
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