自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る

集めるという行為、そして、集めたものを眺めみるという行為のうちに、頭のなかにひらめき、ざわめくアイデアをちゃんと言葉なり形になりにするという手間をとるかどうかというのは、何かを創造する力があるかないかという観点からみた場合、とても大きな差なのだろうと感じる。

そして、同時に、その言葉なり形なりにすることを愉しむことができるかどうか、言葉なり形なりにする際に、安易にありきたりの言葉や形なりに無理やり押し込んでしまうのではなく、自ら得たはずの細かな感じ方そのものをきれいに繊細に織り上げるように言葉を紡ぎ、形を得られるかも、また、そこから創造が生じるかの分かれ道になる。



創造するということと、情報と頭の使い方について、あらためて気づくことが多かった1週間だった。

創造のスタートとしてのリサーチ

集めるといったが、その集める規模というのはせめて100は超えてほしい。いや、それだと、すこし足りなくて、せめて、その倍、3倍あるといい。
もちろん、揃いすぎたものを集めてはダメだ。バラバラで傾向のないものを200、300と集めるのがよい。
そのくらいの数の傾向がみえないバラバラのものがあると、そう簡単には、その200や300がどういう状態にあるかを説明することはできない。

創造のスタートはそういう状態がいい。そういう状態をつくることがいい。



もちろん、そのスタートをつくる方法はリサーチである。
リサーチ自体を楽しめるか。みずから意味不明な200や300のバラバラの事象をみずからのまわりに集めて、混乱していく状態をワクワクしながら集め続けることができるか。
不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない。理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない。だから、それ以上の発見にはけっしていたらないのさ。

集めるのは不可解な状態をそうでなくすためだ。
だから、当然、ただ、集めるのではない。集めながら、まずはひとつひとつ解釈を加えておく。自分と集めた事象の関係を築いておく。ただ、集めて放置しておくのはばかだ。それはゴミをためてるだけなのだから。関係を築いてはじめて、それは意味あるものになる。ただし、その個々の意味はすごく意味があるのではなく、200や300のバラバラの意味にまずは溺れて混乱し、それでも、数が集まっていくことにワクワクすることができるかどうか。

その先に、すこしずつ個々に似ているもの同士をみいだし、その似ていることにまた意味をあらわす言葉をつけたりする。その繰り返し繰り返し。繰り返すだけじゃなく、新しく言葉にした似ているものと、別の似ているもののあいだに関係性を見つけて、また、そこに言葉を費やしてみる。

見つかりにくい創造のきっかけは眠っている

そうやって、どんどん言葉を増やしていくこと。それでも、実は、最初の200や300からは、新しくつけた言葉の数は減っていっているはずだ。その減り具合が、ようは最初の集合から意味を凝縮させ、最初の集まりに隠れていた意味をあぶりだすことにほかならない。
この言葉を紡ぎ、紡ぎ続けていく思考の流れに身を乗せられるか。しかも、みずから楽しみ、みずから何かを捜索している感じをもちながら思考を続けていくことができるか。できる人もいれば、うまくできない人もいる。



そして、その思考の展開の方法として、何かと何かの強制的な掛け合わせだったり、様々なフレームワークにあてはめることで、自分のなかに新しい言葉が紡ぎだされる状態をつくりだすこと。その個々の工夫によって紡ぎだされた言葉の数々を個々にほったらかしにせず、言葉同士がどのような形を形成しているかを俯瞰的にみて、全体としての意味を創造してみること。そういう俯瞰的な視点をとれるかどうか。ひとつひとつの思考に目がいきすぎて、思考の展開の痕跡を俯瞰的にみれないと、この行為が創造を生むことはないだろう。

俯瞰的にみて、その全体のイメージをもつことがむずかしければ、全体を図・絵として書きながら、自分が辿ってきた言葉の変遷の背後に隠れた形を探ってみるといい。
そういうところに、創造のきっかけは見つかるのだと思う。きっかけ、機会といってもいい。

そう、この思考の展開そのものは創造そのものではない。
けれど、このリサーチからはじまる思考の展開にこそ、実は見つかりにくい創造のきっかけは眠っている。

タネを拾い上げるのに必要な頭の使い方が日常的なものでないから、見つからない

そう。創造のタネは、そんな風に実は僕らが普段過ごしている、すぐそこにあったりする。
自然研究者と詩人は、ひとつの言語を用いることによって、つねにひとつの族であるかのようにふるまってきた。自然研究者が全般的に蒐集し、整然たるおおきなまとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品とし、そうして、あの広大な自然を細やかに分け、さまざまの好ましい小自然を形作った。

ただ、そのタネを拾い上げるのに必要な頭の使い方が日常的なものでないから、見つからないというだけだ。

そうじゃなくて、自然研究者のように、詩人のように、僕らがもっとふるまえるようになればいいのに。

そんなことをあらためて感じた一週間だった。
起きた出来事をきわめて抽象化して書けばこんな感じ。

大事なのは、こういう思考の展開方法を楽しめるかどうか。
もちろん、僕は楽しかった。楽しかったから、こんな抽象的な感じでも言葉に残しておきたかった。



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