肉体的で演劇的!面白まじめのスタンス考(2つのパルナッソスより)

ルーヴル美術館ドゥノン翼の2階、俗にイタリア回廊と呼ばれるギャラリーには、長いまっすぐな廊下の両側にルネサンス期以降のイタリア絵画の名作がずらりと並んでいる。アンドレア・マンテーニャなどの初期ルネサンスの作品をはじめ、レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリ、ラファエロ・サンティなどの盛期ルネサンスの画家の作品、そして、マニエリスム期に入ってのポントルモなど、どれもこれも日本の美術館での企画展なら主役級の作品ばかりで圧巻だ。
ただ、当然ながら、その時代の絵画は多くの作品が宗教画なので、キリスト教の物語に疎い日本人には解説なしだとどう見ていいかわからなくてちょっととっつきにくい部分があるだろう。

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ルーブル美術館のイタリア回廊のポントルモの「聖母子と聖アンナ」などの作品がある付近


そんな中、異彩を放つのが綺想の画家アルチンボルドによる連作「四季」なのだが、それとは違う意味でまた他の作品とは異なる印象を与えてくれる絵がある。
最近、僕のお気に入りに加わった絵たち。
アンドレア・マンテーニャの「パルナッソス」と「美徳の勝利」という2枚の歴史画がそれだ。

歴史画といっても、僕らが想像するような意味での「歴史」を描いた絵ではない。それは古代の神々の様子を描いた絵である。寓意画。
「パルナッソス」ではウェヌスとマルスのカップルが、「美徳の勝利」ではミネルヴァとウェヌスがそれぞれ描かれる。神々を描いたといっても、まわりにある宗教画とは違い、2枚の絵とも滑稽な雰囲気に満ち溢れている。
では、この滑稽さで何を寓意しているのか?


神々を剽軽に描く

まず、実際の2枚の絵をみてみよう。
2枚はそれぞれ、こんな絵だ。

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アンドレアス・マンテーニャ「パルナッソス」(1497年)


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アンドレアス・マンテーニャ「美徳の勝利」(1499年)


全体をみても何となく楽しげな様子はあるが、僕が適当に撮った写真だし、小さくてわからないところもあるので、ポイントを拡大してみよう。

まずは「パルナッソス」。左の中央にあたる部分だ。

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「パルナッソス」部分


みると、小山にいる裸の子供が、左側にいる赤いマントだけをつけた浅黒く小汚い肌をした全裸の男に吹き矢のようなものを向けている。
また、その裸の子供の上にいる男女をよくみると、男の足が隣の女性の足を踏みつけている。これが神々の姿を描いたものと思うと、滑稽である。すこし前の「笑いの創造力」という記事でも、ルネサンス期の美術が神々さえも笑いの種にする傾向があったことを書いたが、この絵などはその典型だ。

このマンテーニャの「パルナッソス」について、ポール・バロルスキーは『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』の中で「画家たちが大画面の神話画を描きはじめた15世紀末に、マルスとウェヌス(ヴィーナス)の物語は、エロティックな扱いにも剽軽な扱いにも格好なテーマとなった」ことを指摘した上で、次のように紹介している。
マントヴァのイザベッラ・デステの書斎のためにマンテーニャが描いた《パルナッソス》には、パルナッソスの山頂に置かれた寝台の前で寄り添うマルスとヴィーナスが描かれている。二人の近くにいるクピドは、左下のウルカヌスめがけて、吹き矢筒もしくはトランペットを吹いている。前景ではムーサたちが、アポロの竪琴が奏でる音楽にあわせて踊り、メルクリウスは駿馬に優雅に寄りかかる。
ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』

と。どうやら裸の子供は、ウェヌスの子供であるクピド。浅黒い肌の男は、ウェヌスの本当の夫であるウルカヌスらしい。そして、山の上の男女がそのウェヌスと彼女をウルカヌスから寝とった軍神マルスだ。しかも、「ヴィーナスとマルスは寄り添って立ち、マルスはいわくありげになんとその脚をヴィーナスの足の上に置いているときている」と、バロルスキーは指摘する。何とも俗人的な神々だ。

続けて「美徳の勝利」のほうもみてみよう。右下部分の拡大である。

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「美徳の勝利」部分


右側で王冠をかむった王らしき男が酔っているのか気を失ったのか鉢巻のようなものを巻いた2人の女性に抱えられている。
一方、左側に目を向けると、腕のない男とも女ともわからない裸の者が目をつむった何とも滑稽な表情のまま、腰に紐をつけられ、女にひっぱられている。

この滑稽な者どもとともに、なぜか蝶やトンボの羽をしたクピドたちが母である愛の女神ウェヌスといっしょに、知を司る女神ミネルヴァによって森の外に追い立てられている。愛や欲望は、美徳である知に追い立てられる悪徳の側として描かれているわけだ。
まあ、悪徳といっても下に描かれた滑稽の者どもと同程度の悪でしかないのだが。

マンテーニャのパルナッソス

この2枚の作品とも、マントヴァ侯妃にして、イタリア・ルネサンス期における文芸、政治を代表する女性の一人として知られるイザベラ・デステが、マンテーニャに描かせたものだと言われている。

イタリア北部の都市マントヴァは、ルネサンス期には、1328年からゴンザーガ家のルドヴィーコ1世によって支配された公国であった。ルドヴィーコ1世の孫であたるルドヴィーコ3世が、隣のパドヴァで生まれ育ったマンテーニャを宮廷画家としてマントヴァに呼び寄せて以来、ルドヴィーコ3世の死後も、マンテーニャはマントヴァに残り、息子のフェデリーコ、孫のフランチェスコ2世の時代にもマントヴァの宮廷画家として過ごしている。

マンテーニャにとって最後の主人となったフランチェスコ2世の候妃がイザベラ・デステであり、「パルナッソス」を描いたときにはマンテーニャは60代後半、イザベラはまだ10代だったという。

バロルスキーは最初に絵嗅がれた「パルナッソス」について、こう書いている。
フィリス・レーマンが指摘したように、マンテーニャの作品はここでもどうやら婚礼に関わる意味内容をもっているようだ。ヴィーナス、マルス、そして彼らの寝台を彩る赤、青、金、白という色彩は見事に調和されて、この絵の寓意、つまりエステ家とゴンザーガ家を象徴する色彩と符合している。してみるとマンテーニャのこの作品は、どうやら1490年に執り行われたイザベッラ・デステとジャンフランチェスコ・ゴンザーガの婚礼に触れたもののようだ。むろんマルスとヴィーナスは花婿と花嫁を表わすにふさわしい象徴であって、このことは結婚する男女を実際にこれら二人の神の似姿に描いたルネサンス時代の幾多の肖像画を見るまでもない。
ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』

フランチェスコ2世とイザベラ・デステの婚礼を寿ぐ寓意画として、描かれたのがマンテーニャの「パルナッソス」であることをバロルスキーは指摘するのだ。

と同時に、こんな指摘もしている。
愛の女神は全裸で、布のリボンがなまめかしい肢体の周りにはためき、愛撫するかのように脚の間をすり抜ける。右下のムーサが親指と人差し指でつくった輪に、隣のムーサの親指を通しているが、それがあからさまな性的な身振りであることは、なにもウィントの指摘をまつまでもない。
ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』

そう、この絵はどこまでもエロティックなのだ。
そして、単にエロティックであるどころか、さらに浮気の絵でもある。ウェヌスの夫はクピドに吹き矢を向けられているウルカヌスなのだから。

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「パルナッソス」部分


けれど「祝婚の意味がこめられた絵の中で、寝取られ亭主ウルカヌスがあからさまに嘲笑されているからといって驚くには当たらない」とバロルスキーは言う。
この種の冷やかしは祝婚芸術においてはめずらしいことでもなんでもない。例えば、シェイクスピアの『恋の骨折り損』は結婚によってめでたく大円団を迎えるのだが、その幕切れを飾る歌では、むろん鳥の郭公(カッコウ)と寝とられ男(カッコウルド)を掛けて、「カッコウ、カッコウと不吉な言葉は/亭主の耳には不快なもの」とくりかえされている。
ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』

こんな風な滑稽さで、祝婚するルネサンスという時代の文化はとても興味深い。

パルナッソス山の芸術の女神たち

ところで、このウェヌスとマルスが立つ小山は、絵のタイトルにもあるようにパルナッソス山のようである。

パルナッソス山は、中央ギリシャ・デルポイに実際にある山だが、ギリシャ神話ではアポロンと芸術の女神であるムーサたちが住まう山とされる。ムーサは記憶を司る女神ムネモシュネから生まれた9柱の芸術の女神たちであることから、パルナッソス山は詩、音楽、学問の発祥の地として語られる。
だから、前景においてアポロが琴を弾き、ムーサたちが舞い踊るこの山はパルナッソス山ということになる。

ちなみに、ムーサは英語やフランス語における’muse’につながる言葉であり、当然、美術館・博物館である ’museum’ や ’musée’ もここからの派生語だ。

また、ムーサは古代ヘレニズム世界において「学堂」を意味するムセイオンにもつながる。
古代ギリシアで学術・芸術の女神ムーサを祀った堂であったものが、ギリシア文化がエジプトなどのヘレニズム文化へと伝播していくなかで学堂へと変わっていったのだ。プトレマイオス1世がアレクサンドリアに設立したムセイオンは有名で、「アレクサンドリア図書館」を付属機関として持ち、ローマ支配下においても5世紀頃までは存続したようだ。

ラファエロのパルナッソス

学堂と聞いて思い起こすものの1つにラファエロの有名な作品「アテナイの学堂」がある。プラトンとアリストテレスを中心に、古代ギリシアの哲学者たちが一堂に集まる様を描いた作品だ。その「アテナイの学堂」が描かれたのと同じ、バチカン宮殿の「署名の間」に描かれているのが、ラファエロによる「パルナッソス」だ。

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ラファエロ・サンティ「パルナッソス」(1511年)


中央に位置したアポロン、そして、画面のあちこちに散らばったムーサたちとの間に、当時の詩人たちが描かれている作品だ。

興味深いのはバロルスキーがこの「パルナッソス」が描かれた場所との関係から、絵画と宮廷での祝宴や演劇との関連性を指摘しているところだ。
ルネサンス期には、絵画と宮廷の祝宴の間には種々密接な繋がりがあったのであり、例はすぐ挙げられる。たとえば、アポロ、ムーサ、そして古今の偉大な詩人が登場するラファエッロの《パルナッソス》は、ヴァティカーノ宮殿の「署名の間」の壁上に描かれているわけだが、その位置がブラマンテによってすでに着工されていたベルヴェデーレ宮殿の中庭の劇場に面した壁上というのは、おそらく偶然ではない。つまりそうであってはじめて人々は、《パルナッソス》が描かれた壁の窓越しに、アポロとムーサたちの霊感を糧とする領域たる劇場を目にすることが可能になったのである。
ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』

バロルスキーが指摘する「署名の間」とベルヴェデーレ宮殿の中庭との関係は、このようであるという。

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アポロやムーサたちが司る芸術の1つの頂点ともいえる演劇が、彼らの姿が描かれた絵の先の劇場で執り行われるという舞台設計。そうしたデザインがなされているというのも面白いが、さらに面白いのは、その先だ。
パリス・デ・グラッシスによれば、ある詩人の桂冠の儀が1512年にベルヴェデーレ宮殿の中庭において、オルフェウスとムーサたちに宰領されながら執り行われたようだが、この式典も《パルナッソス》眼下の中庭の劇場で執り行われたのではないだろうか。こうした宮殿の式典の図像学がラファエッロのフレスコ画のそれと関連するどころか、この祝宴の中心人物たちがラファエッロのフレスコ画の登場人物そっくりの格好をしていたのではないかという気さえする。
ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』

絵で描かれた光景と同じ光景が、実際に劇場で演じられたのだというのだ。
絵画が先か、演劇が先かを問うのは意味がない。いずれも古代文化の復興をそれぞれ目指してのものであっただろうから。
バロルスキーが「ルネサンス期には、絵画と宮廷の祝宴の間には種々密接な繋がりがあった」と書いたのは、それも踏まえてのことだろう。

幕間劇(まくあいげき、インテルメッツォ)

さて、ラファエロの「パルナッソス」が同様のシーンを描く演劇とセットで存在したのだとしたら、当然マンテーニャのほうはどうだったのだろうと想像したくなる。
バロルスキー自身、「マンテーニャのこの絵に見られる寓意、パントマイム、ダンスは、結婚式といった重要な儀式の折に演じられた宮廷の仮面劇を思いださせる体のものだから、われわれとしては《パルナッソス》が、マントヴァなどイタリアの各宮廷で演じられた仮面劇とどの程度関係があるのかについて問うてみたくもなる」と書いている。

そして、様々な例を引きながら、マンテーニャが描いたマルスとウェヌスの物語が踊られ、演じられた証拠を提示する。
ひるがえってマンテーニャの絵の中心テーマはと言うと、トマス・エリオットが『為政者論』で述べているように、マルスとヴィーナスの「愛−不義」が実際にダンスとして演じられたことに注目する必要がある。アントン・フランチェスコ・ドーニはその『大理石』の中で、コジモ・デ・メディチ大公の宮廷での幕合い狂言(インテルメッツォ)として、マルスとヴィーナスのダンスの物語が演じられたことを伝えている。
ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』

マンテーニャが「パルナッソス」を描いた、15世紀後半のイタリアの宮廷においては、幕間劇(まくあいげき)、インテルメッツォと呼ばれる演劇がそれまで雑多に存在していた演劇のジャンルから独立してくるという動きが見られた。「まくま」ではなく、「まくあい」である。
それまで主流を占めたキリスト教会による宗教劇は、新たな戯曲を描かせる障害となっていた。宗教劇の幕間には様々な世俗的な見世物が挿入されていた。無言劇あり、踊りあり、楽師や芸人たちによる芸もあった。総称して、それらは、インテルメーディオと呼ばれていた。

そのインテルメーディオがインテルメッツォへと発展する。
時代は、ルネサンス期の古代文化の復興熱に伴い、古代ローマやギリシャの演劇を復興しようという動きがみられた。古代演劇が研究され、その成果が幕間劇に注入されていく。

そうした流れの中で、マンテーニャの絵画「パルナッソス」とセットになった演劇が、フランチェスコ2世とイザベラ・デステの婚礼を寿ぐものとして上演されていたと想像するのは、それほどおかしくないことだという気がする。

祝祭的で、肉体的で、演劇的なもの

結局、いくつか前の記事「シェイクスピア・カーニヴァル/ヤン・コット」で紹介したようなカーニバル的な祝祭のもつ肉体性のようなものが、民衆の社会とは切り離された宮殿内でも違う形で展開されていたとみてよいのだろう。カーニバル的な過激なまでの上下の転倒までないまでも、神々をエロティックに嗤い、それを演劇という身体性を通じても演じるというのは、まさに精神的なものを肉体的機能へと変換する、カーニヴァル的知そのものだと思う。

前の記事でも引用したが、ヤン・コットの『シェイクスピア・カーニヴァル』から再度引いておく。
農人祭から中世、ルネサンスのカーニヴァルや祝祭まで通して、人間精神の高尚英邁な性質は片はしから-バフチーンが説得力豊かに示してくれたように-(特に排泄、放尿、性交、出山といった「下層原理」に力点が置かれた)肉体的諸機能に取って代わられる。カーニヴァル的知においてはそれらこそが生命力の精髄である。生命の持続を保証してくれるものだからだ。
ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』

ここで言及されているミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』において「カーニヴァルがおこなわれているあいだは、誰にとってもカーニヴァル以外の生活は存在しない」と書いているが、宮殿にて演じられる演劇、そして、その様子と同様のシーンを描いた絵もまた何かの「偽物」や「再現」ではなく、当時の人々にとってはもうひとつの生活そのものだったに違いない。
だからこそ、肉体性を重視するのであり、身体性をもった演劇という表現が採用されるのであって、絵画という視覚芸術単独では成立し得ないものであったのだろうと思う。このあたり、「自分ごと」のようなものが重視される現代において、ふたたび注目されきはじめているものだと思っている。

それはバフチンがこんな風に明らかにする、現代における芸術と中世のカーニバルにおける遊戯的生活の違いにあらわれているのではないだろうか。
明瞭で具体的、感覚的な性質のゆえに、強烈な遊戯的要素の介在ゆえに、中世の滑稽な儀礼的見世物は芸術的な表現形式、つまり演劇的な見世物形式に近い。また実際に、中世の演劇的な見世物形式はかなりの部分、民衆的な広場のカーニヴァル文化に依存しており、ある程度はその構成要素でもあった。だが、この文化のおおもとのカーニヴァル的本質は、けっして純芸術的な演劇的見世物の形式ではないし、芸術分野に含めることもとうていできない。それは芸術と生活自体の境界に位置している。実質的に、それは生活そのものであるが、ことさら遊戯的にかたち作られた生活なのである。
ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』

そして、おそらく中世直後の初期ルネサンス期を生きたマンテーニャにとっては、芸術はまだ遊戯的生活としての色彩を色濃く残していたはずだ。それは自分から距離をとって見られる絵ではなく、演劇のように参加して遊ぶもうひとつの生活そのものだったのだろう。

面白まじめ。この手のものをそう呼ぶらしいが、演劇的、身体的なものにいま期待すべきは、この面白まじめな態度ではないだろうか。

  

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