日本語に複数形がないのは、(これは単なる僕の想像だけれど、)複数個存在することが、物体の性質としてではなく、物体の動作として受け止められていたからだ。(中略)豆を食べるとき、1つ食べ、2つ食べ、3つ食べて、そこでやめる。何を食べたのか、ときかれれば、英語では「3つの豆」を食べことになるが、日本語では、豆を「3つ食べた」というように、あたかも動作の繰り返し回数のように(副詞的に)形容する。
そして、この文章と、先日紹介した『考える脳 考えるコンピュータ』の中のこんな一文と比べてみると、皆さんはどんな印象をお持ちなるだろうか?
文化が現実世界のモデルに与える影響は、生半可なものではない。たとえば、研究の結果によると、東洋人と西洋人では空間と物体の認識方法が異なっている。東洋人は物体のあいだの空間に注目する傾向があるのに対して、西洋人はほとんど物体だけに注目する。「3つの豆」という言い方や単語そのものを複数形にしてしまう物の捉え方は、「物体だけに注目」した見方のように感じられる。ジェフ・ホーキンス『考える脳 考えるコンピュータ』
一方で、豆を「3つ食べた」は確かに豆と食べるという動作のあいだの空間に起きた事柄を数えているという印象を受ける。
よく西洋と東洋の違いを比べるのに、レンガの文化と襖・障子の文化という形で、両者の建築物の違いに注目することがあるが、数の数える際の表現にもおなじような傾向があるとは。
モノを置くことで、そのモノが占めるスペースと、それ以外のスペースが生まれます。このスペースのことを「カウンタースペース」といいます。文章や写真をモノに置き換えると、カウンタースペースはレイアウトの重要な要素になります。+LOVE IS DESIGN+さんによれば(なんて、当ブログと関係性の深そうな名前なんでしょう)、この「カウンタースペース」という考え方は、「欧米では20世紀初頭に芽生え、50年代に体系化」されたそうです。
しかし、そのあと、すぐに
日本でも「空」や「間」の概念は、実際に平安時代からの「散らし」の手法や、書・いけばな・茶室などの造形感覚の一部にもなっています。と書いてらっしゃるように、日本的なものの捉え方はそもそも「カウンタースペース」的なのでしょう。
そして、周囲の環境にある物やその変化のシーケンスをパターン学習することで、自らの知能を形成する脳は、当然、これに大きく影響を受けるのでしょう。
文化と家庭での体験は、人間に固定観念を植えつけるが、残念なことに、これは人生の宿命だ。(中略)固定観念をつくることが新皮質の機能であり、脳の生来の性質なのだ。「1人の男が~」や「すべての問題は~」といった日本語がかつてはなかったけれど、襖や障子の文化そのものがすくなくなった現在では、当たり前に存在するように、日本人の脳の固定観念の形も昔にくらべれば西洋化してきているのでしょうか?ジェフ・ホーキンス『考える脳 考えるコンピュータ』
僕は、京都の竜安寺や銀閣寺などの庭のような空間を「季節」という時間とともに感じられる四次元的な日本の表現が好きで、実はそういうのと似た感覚をAjaxによるUI表現や日々移ろいゆくブロゴスフィアの様相に見ていたりします。
これは逆に「カウンタースペース」が西洋化したように、日本的な時間の変化をとりいれた空間的表現も西洋に取り入れたってことなのかななんて思ってみたりします。
やはり日本的文化と西洋的文化って結構混ざり合ってきているのでしょうか。
この記事へのコメント
SW
ここまではフォローしてないですが、今の議論の行く末を考えると必然的に出てきてもおかしくないですねぇ。
gitanez
この議論(日本と西洋みたいなもの)はちょっと番外編ですね。
なので、この先はあんまり掘り下げるつもりはないです。
あんまり得意じゃないので。
らぶ
はてブやTagClickでこちらのブログは存じております。
たしかに関係の深い名前ですね(笑)
「3つの豆」のお話とカウンタースペースが結びつくとは意外でした。
gitanezさんのおっしゃる「季節」という時間とともに感じられる四次元的な日本の表現が
「AjaxによるUI表現や日々移ろいゆくブロゴスフィアの様相と似た感覚」
というのも、なんとなくですがわたしもわかります。
日本的「空」「間」は、間を大切にしていて「静と動」のバランスが美しいと感じます。
gitanez
「静と動」のバランス、そのとおりだと感じてます。
このエントリーのはてブコメントに、
>書道で筆を半紙につける時に怖くなるのは空間をつくる時の緊張感なのかも・・・
といったものがあったんですが、
一筆書き的(なぞらない)な書の文化はまさに「動」そのものをユニークなものとして捉える感覚なのかなって思いました。
たぶん、一筆、二筆、三筆って数えられるんじゃないでしょうか。
西洋だと油絵の一筆を数えたりしないでしょうから。