芹沢銈介の文字絵・讃/杉浦康平

芹沢銈介さんは、日本民藝運動にも参加した染色作家で、型絵染(布の代わりに紙を型紙で染めたもの)の人間国宝にもなっている人です。その芹沢さんの作品には文字を主題にした作品も多い。

例えば、下は「山」という文字を主題にした2つののれん作品。



藍色ののれんに染めだされた山文字には木が生え、雲がたなびいています。
雲は雨を降らし、木々などの植物を育てます。それが山という文字を主題とした絵のなかに端的に表現されている。

こうした芹沢さんの文字絵作品の魅力を語ってくれるのは、20年以上にわたりアジアの人びとが生み出した造形美に着目し、さまざまな形(例えば、前に紹介した『宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』など)で紹介してくれている杉浦康平さん。
杉浦さんには、昨年末に出版された『文字の美・文字の力』という本もありますが、本書
『芹沢銈介の文字絵・讃』でも芹沢銈介さんののれんや屏風、ときには着物にまで仕立てられた文字絵の魅力をアジアの図像にあらわれる文字との関連から紹介してくれています。

文字のリズムと気

例えば、先の2つの作品を含む山文字作品に注目するとき、杉浦さんは次のように書きます。

山という文字を、私たちはふだん何気なく書き記しています。
まず中心に一本の高い垂直線を書き、その両側に二本の縦棒を添え、この三本を結びつけて形をととのえる。中心の一本が高く、両側は低い。三つのうねりを生む山文字のリズムは、芹沢さんの山文字に繰り返し現れるものです。

キーボードでばかり文字を書いている僕らが忘れてしまいそうになっている、手書きの文字のリズムがそこにはあります。そのリズムは3つの要素から成り、さらには「山(サン)」という音は、そのまま「3(サン)」と共鳴します。さらにはその響きは「産(サン)」にもつながっていく。

中国道教の開祖とされる老子の言葉に、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず…」というものがある。この二とは、陽の気、陰の気という二つの気の流れだと考えられます。陰陽の二気が絡み合うと、三が生まれる。この「三」は、じつは無数であることを指しています。

もちろん、こうした中国を中心として東アジアに広がった気の思想、道教的考え方は、以前、松岡正剛さんの『山水思想―「負」の想像力』でも紹介したように山水に遊び、それを画や詩にする思想にもつながっています。
山は雨雲を育て、雨が植物をはじめとする自然を育てる。そこに「産」のイメージが連なるとともに、古くからある蓬莱山のような世界モデルとも絡み合って、山によりいっそう神聖で気の満ちた場所としての観念を形成していく。それは国土のほとんどを山に覆われた日本においても変奏されて受け継がれ、独自の山水思想を生みました。

そうした大きなアジアの流れを杉浦さんは、芹沢さんの山文字に読み解くのです。

文字絵

芹沢さんの文字絵作品では、山から木が生え、雲がたなびくだけではありません。さまざまな文字がさまざまな絵と組み合わされる。たとえば、下の「春」には鳥や蝶が舞い、「夏」には草木が生え魚が泳いでいます。



この「春」や「夏」の文字でもすこしその傾向がありますが、芹沢さんの文字絵のなかには文字そのものが草書体を一枚の布が翻るさまであらわしたものもある。「布文字」と呼ばれるものです。日本の伝統的な芸能のなかにも長い布を用いるものが多くありますが、韓国の巫女なども布を用いて舞うそうです。芹沢さんの布文字のリズムはそうしたアジアの芸能のイメージをまといます。

文字を着る

文字が絵となり、紋様と化すのは、漢字ばかりではありません。芹沢さんには「いろは」を題材にした作品もあります。屏風などの作品もありますが、下のように着物の紋様になったものもある。



紋様と化した文字を身にまとう。和歌を着物に染め記した着物は江戸期にはみられたものです。日本だけでなく韓国や中国にも文字を衣類に記したものは少なくない。芹沢さんの作品もその流れを汲むものなのでしょう。

漢字の象徴性

こうした文字が絵となり、絵と一体化するイメージは、『文字の美・文字の力』のなかでも数多く紹介されていますが、何より、その背景にあるのは東アジアが象形性をもった漢字文化圏であるということではないでしょうか? 漢字にもともと備わる象形性が文字と絵の境界をあいまいにする。それはアルファベットがタイポグラフィに流れるのとは、まったく別の表現の流れを生み出すのではないかと感じます。

タイポグラフィがコンテキストとは無関係に造形的な美を
表現可能であるのに対して、芹沢さんの絵文字などに代表されるアジアの漢字文化圏の文字の造形はどうしても漢字そのものがもつ象形性のコンテキストを大きく逸脱することはむずかしくなります。山には木が生え、川には魚が泳ぎます。文字はもともとの対象がもつイメージを象徴せざるをえない。コンテキストから無縁であることがむずかしいのが象徴性の強い漢字文化圏の造形の特徴ではないかと感じます。

コンテキスト依存性と美的表現

そして、このコンテキスト依存の象徴性から生まれる文化的意味が、1つ前の「意味論的転回―デザインの新しい基礎理論/クラウス・クリッペンドルフ」で書いた、西洋的な意味論的デザインがそれが西洋的伝統の流れにあるがゆえに見逃している点だと感じるのです。もちろん、「観念連合、類感呪術をつかった発想法・編集術」でも紹介したジェームズ・フレイザーの『初版 金枝篇』が明らかにしているように過去においては西洋も象徴性が支配する世界でしたが、東洋とは違い、その象徴性をロジカルに分析的に構築的に昇華させてしまった感がある。それは以前に「ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフで紹介したとおり、アルファベットのようにコンテキスト依存性がすくなく、自由な組み合わせが可能な状態に洗練されています。

一方で東アジア文化圏では漢字という象徴性の高い文字文化のなかで生きていることもあってか、いまなおコンテキスト依存性の高い白川静的世界が基本を覆っているのではないかと思います。そうであるがゆえに、逆に西洋の物真似でコンテキストを度外視したビジュアルデザインを構想しようとする非常に薄っぺらで構築性の欠けたものになるのではないかという気もします。一方でマンガやアニメのように複雑なコンテキストが絡み合った表現となると途端に水を得た魚のように表現の才能が一気に開花するのではないか、とも。

生活文化とデザイン

こうした文化特有の「意味」を度外視してしまったデザインはやはりどこか足りないし、結局は人びとの生活に深く入り込んでいくことができないのではないかと感じます。

ただ、その場合、問題なのはすでに僕ら自身が自分たちの文化、自分たちの生活を経験的に理解できていないという点です。自分たち自身の生活にもはやテレビやインターネット経由の情報でしか接することができなくなっているような感覚です。自分の身体の感覚がもはやネット経由の客観的なテキストデータとしてしか認知できないような、そんな奇妙なことになっている。

このことを考える上でも次に紹介する宮本常一さんの『民俗学の旅』のもつインパクトは大きいと思っています。というわけで続きます。





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