そこでも書きましたが、僕はいま何かを思考し発想するためには少なくとも2つの障害を取り除く必要があると思っています。
- 物事を既存のフレームに当てはめて考えてしまうこと→脱フレームワーク思考
- 情報やものが多すぎる、余っていると考えること→博物学的蒐集のすすめ
このうちの「脱フレームワーク思考」について、書いておきます。
眠っている情報を起こす
発想を呼び覚ます推論的思考の基本となるのは、眠っている情報を動かすこと。眠っている情報とは何かといえば、すでに何かの型にはまってしまっている情報で、「あっ、わかった」という発見をもたらさないもの。「わかった」となるためには、眠っている情報を動かして、別の情報とつなぎ合わせることで、そこにない何かを想起させることが必要になる。日本的な方法でいえば、見立て。何かを別のものを想起させるような見立てとして使う。ものでいえば、換気扇をCDプレーヤーに、駅の時計を腕時計にするような模倣・類推の思考になります。
情報の窒息死
それに対し、既存のフレームに様々な情報をあてはめるフレームワーク思考は、むしろ生きていた情報を無理やり型に当てはめて眠らせてしまう方法だと思う。その方法では何となく型にはまった整理ができるので「わかったつもり」にはなるが、「わかった!」は生まれにくい。それではせっかく集めた情報をどぶに捨てているようなものだ。まさに『知的生産の技術』で梅棹忠夫さんが書いているとおりです。
分類法をきめるということは、じつは、思想に、あるワクをもうけるということなのだ。きっちりきめられた分類体系のなかにカードをほうりこむと、そのカードは、しばしば窒息して死んでしまう。梅棹忠夫『知的生産の技術』
情報を見つけてきたら、それをあとで探しやすいよう分類する。それは検索性をあげるためには有効かもしれませんが、情報を発想・着想のために活用するためにはむしろ障害となります。
フレームそのものを作る
大事なことは探してきた情報そのものをわかることではありません。ましてや型にはめてわかった気になることではない。むしろ、型・フレームそのものを見つけることが大事。情報を集めるフィールドワークも集めた情報を活用するKJ法もその意味でこそ、はじめて発想につながる作業となりえます。既存の枠にあてはめてしまうのではなく、情報を扱うたびに他の情報と組み合わせながら、別のシチュエーション・関係性を作りながら、そのたびに情報に対していろんな型を作ってあげて、そこから「わかった!」を引き出す努力が必要だと思います。
教育の現場でも、仕事の現場でも、フレームワーク思考にはまらないよう指導していく・マネジメントしていく姿勢が必要なのではないかと思いました。
何かの枠のなかにはまってしまってたら、そりゃ何も生まれてきませんよね。
脱ジャンル!脱領域!脱・わかったつもり!
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