そんな忙しさのなかでも最近思ったことをすこし。
自分の能力を高めるためには、本を読んだり、誰かに聞いたりして、すぐにわかってしまうより、わからないことに自分でこだわってみることのほうが大切なことなんだなーと思います。
わからないことにこだわり、自分でいろいろ試して経験するなかですこしずつわかることが増えてくる。そういうわかり方を大切にしたいな、と。
わかった気にならない
わかりやすい言葉を読んだり聞いたりして、わかった気になることって簡単です。でも、そういうのってあんまり役に立たない。役に立たないものをどんどんわかった気になって蓄積しても、それこそ役に立ちません。それにわかった気になってしまったら、最後、その問題に対する関心がなくなってしまい、それ以上深く理解するチャンスが失われます。『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』にも書いてあるとおりです。
そもそも普段自分でも問題意識をもって日々を過ごしていないと、わかりやすいものでもわからなかったりする。他の人の言葉を読んだり聞いたりしてわかるのは、すでに自分のほうにもそれに関する問題がある場合かなと思います。問題があって、そこに解決のための言葉がすーっと入ってくる。答えを教えてくれるというよりも答えに気づくヒントが与えられるのに近いかな。
大事なことはわかることじゃない
そういうことも含めて、わからないことにこだわる問題意識が大事かな、と。そもそも答えのあるものってそんなに多くない。答えを探し続けようと思えば、それこそ永遠に探し続けることができます。本を例にいえば、注釈書で理解したつもりになるのではなくて、自分で原本であるテキストにあたって自分なりの注釈を探し続ける姿勢が大事かな、と。テキストの謎めいた言葉のわからなさに出会うことなんて、それこそ、普段、わかりやすい言葉ばかりに接している僕らには貴重な機会ではないでしょうか。
何より考え方を間違えないようにしないといけないの、大事なことはわかるということじゃないというのを理解することかな。わかってることだけじゃ大したことはできないから。わかるから何かができるわけじゃない。何かをするためにはわからないことにも動じずに、実践のなかでわかっていく力こそが必要になる。わかってないものに対面しても慌てず、ちゃんと立ち向かっていけることのほうがよっぽど大事です。
昔の寺院は、自然を実にたくみに取入れているというか、まわりの景色の中にすっぽりはまりこんで、人工的な建造物であることを忘れさせる。寺院だけとは限らない。神社も住居も、あたかも自然の一部のごとき感を与える。これは彼らがあらゆる物事に対して、敏感だったために他ならない。現代の生活は、人を神経質にさせるが、決して敏感にはしてくれない。
わかりやすく作られた人工物に囲まれた世界で、不確実なものに対する敏感さを失い、確実なものへの神経質さばかりを際立たせている僕ら。
でも、そんな僕ら人間自身が何より不確実な存在であることを思い出せば、すこしは不確実なものに勇気を出して身をよせ、大らかに他人の言葉や自然の変化に耳を傾け目を向けることができるのではないのかな、と。
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この記事へのコメント
カワカミサエコ
tanahashiさんの言葉が自分の体験とつながったので、思わずコメントしてしまっています。
以前、知識と知性の違いを知ってハッとしたことがあったのですが、
tanahashiさんのおっしゃっているのは、「知識ばっかりじゃだめだよ、知性を磨いた方がいいよ」って事ですよね!
その時のハッとした気持ちを改めて思い起こすことができました。
確かに私も、人に言われて知るこたえよりも、自分で導き出したこたえの方が身体に沁みやすい気がします。
すぐ分かった気にならないようにして“なぜそうなのか”という、こたえを導き出す過程の部分が結構大切で、人に教えてもらった時も常に考えていられれば良いのかなぁと思いました。
tanahashi
ご無沙汰してます。
コメントありがとう。
デザイナーのサエコさんらしい言葉だなって感じて、なんとなく嬉しくなりました。
これからもその感覚大事にしてくださいね。