ジョナサン・ワッツ記者
ガーディアン紙のアジア環境担当記者を務める。
出典:http://www.guardian.co.uk/world/2011/sep/09/fukushima-japan-nuclear-disaster-aftermath
福島の惨事:未だ何も終わってはいない
福島第一原子力発電所で数回メルトダウンが起こってから6ヶ月。町並みは修復されたかもしれないが心理的ダメージは傷跡を残している。
西片風ちゃん(8歳)と兄の海人君(12歳)、学校の校庭で。二人は、この学校から4月1日に50kmはなれた米沢に転校した。母親の西片加奈子さんは福島の子供を守る親の会のメンバー。写真:ジェレミー・スーテイラト( Jeremie Souteyrat)
昔なじみの友人から送られてきたEメールによって、(放射能を除去するために用意された)福島のヒマワリ畑の事を知った。レイコさんから連絡が来たのは2003年に私がガーディアン紙の東京の派遣記者だったとき以来だ。それ以前は、雑誌の編集者である彼女は日本社会のトレンドについて鋭いコメントをする貴重な情報源だった。レイコさんは4月に今までの沈黙を破って連絡してきた。最初は嬉しかったが、話を聞くにつれて心配が募った。
レイコさんのメールは伝統的な日本スタイルである時候の挨拶と今感じていることで始まっていた。それは典型的な饒舌さに溢れていたが、語調がいままでになく暗いものだった。「東京は春の盛りで桜の花が咲いています。私の家の小さな庭もチューリップ、バラ、イチゴの花が咲き新しい季節の訪れを教えてくれています。でも、なぜかそれらの花を見ると悲しくなります。今年の花は去年とは違うことを知っているからです。花は放射能に汚染されているのです。」
レイコさんは先月起こった福島の原子力の事故で全てが変わってしまった、と続けていた。毎日の生活がSF小説のようになってしまった。レイコさんは、いつもマスクをして黒い雨にぬれないように傘を持ち歩いていた。皆の話題は原子力発電所の状態についてばかりだった。以前はスーパーに行けば新鮮な食材を買い求めていたのに、今は既に調理されたもの(古いほど安全なので)を探している。また、自分の息子が心配であること、政府に対する怒り、メディアが繰り返し発信してきた「安全である」と言う発言に対する根源的な不信を述べていた。「偽の情報を聞かされています、偽の情報をです」と繰り返しました。「私たちの問題は私たちの社会に根ざしています。私たちはそれと戦わなければなりません。そしてそれは原子炉に反対する闘い同様に困難なことに思えます。」
レイコさんは私に、日本に戻って記事を書くようにと熱心に説いた。その後の5ヶ月間、筆者はその努力を続けてきた。福島の汚染された町々、岩手の荒廃した沿岸地域を車で回り、東京に避難した人達の話を聞き、いままでにないほど記事を書くことの責任を強く感じるようなった。レイコさんや他の日本の友達たちは記事が書かれることだけでなく、第三者の目による、皆の心に重くのしかかっている問題、「日本はまだ安全な国なのか?」という問題に対する判断をも求めているようだった。
3月11日に日本を襲ったマグニチュード9の地震は世界で記録された最大級地震の5つに入るといわれている。海岸線が1m低くなり日本はアメリカに2m近づいた。地震に続いて押し寄せた、最高で40mに達した津波がほとんどの破壊の原因となった。この2つの大天災は2万人の死者と行方不明者をもたらし、12万5千戸の家を破壊した。そして2つの災害は福島第一原子力発電所の3基の原子炉のメルトダウンという第三の災害を引き起こした。チェルノブイリ以降、最大量の放射性物質が放出され、あまりの事態に、今上天皇(明仁)がテレビで人々にメッセージを出すほどだった。殆ど古風と言っても良い天皇のメッセージは、広島と長崎に原爆が投下されたあと、1945年8月に今上天皇の父親である昭和天皇(裕仁)が国民に祖国再建を呼びかけた歴史的なスピーチ(玉音放送)と比較されたほどだ。6ヶ月が経過し、緊急事態は終結した。しかし、別の惨事が明確になってきたのだ。疑念と絶望という心理的な危機が過去に起こった何よりも社会的不安定をもたらすかもしれない。
瓦礫は道路から除去され、再建が計画され、避難者は避難所から引っ越し始めている。しかし何百万人もの人達が(3月までは)異常とされていた放射線レベルに適応しなければならない。これは一度だけの臨時措置ではなく「普通」という意味を変える毎日の生活の改変だ。しかし、どのように適応するかということを決定するのは困難である。低レベル放射線はDNAを破壊する目に見えない脅威であり、何年も何十年も影響が表面化しない。大多数の人達は一生の間、全く影響を受けないかもしれないが、一部の人達は癌になる。誰がいつ影響を受けるかわからないのは、深い部分で不安を掻き立てる。
もちろん、同様の事態は過去にもあった。WHO(世界保健機構)は、1986年のチェルノブイリの原子炉爆発から20年後に、事故による最も大きな一般大衆への健康への影響は心理的苦悩であると述べている。「影響を受けた地域の人々は健康と生活状態に対する自己評価が極端に否定的で、自分の人生がコントロールできないと強く感じています。この否定的な受け止め方と共に見られるのが、放射線にさらされたことによる健康への悪影響を誇張する感覚です。」ロシアの医師達は生存者は「情報に毒されている」と言ってきた。しかし日本においては人々は「不確かさ」に汚染されていると言うほうが正確だろう。
私が福島に入った初日の朝、マグニチュード6の地震で起こされた。3月から頻発して東日本を震わせているいる大きな余震の一つだった。しかし、それは一番気になることではない。日本の人達は物理的な不安定さに慣れている。ここは、結局のところ、世界中で最も地震の多い国なのだ。何世紀にもわたり日本の文化には「無常」、つまり非永続性の精神が根づいている。これは日本民族の独自性であり、これまでは彼らが困難に対峙した際の回復力ともなっていた。
しかし今回の震災は違う。長い間、安全、清潔、そして生(なま)の料理が有名だった国の何百万人もの人が、小規模かもしれないが持続する健康のリスクの増加、そして自分の家、庭、街路、学校の長期的な汚染を受け入れるよう要請されている。そして、食料は調理済みのパックされたもの、それも福島から遠ければ遠いほど安全とみなされている。
他の国々では、人々は放射線源からの距離をもっと遠くしたいと思うかもしれないが、それは人口密度が高く雇用が固定している島国では困難だ。それにもかかわらず何千人もの人達が移住したが、しかし震災地の殆どの人々は留まり適応しなければならない。それも科学者や政治家から明確なガイダンスがあれば少しは容易になるだろうが、しかし、この点においても現代の日本は特に脆弱なようだ。最近、日本の首相は5年間で7回変わった。学者達とマスメディアは原子力産業界の強力な影響力によって腐敗している。その結果、体制に順応することで有名な国民が、突然、何に順応すればよいのか確信が持てなくなった。
マスヤマ・ユキコさん(29歳)東京の新住居29階のアパートにて。ユキコさんは原子力発電所から25kmの南相馬市(福島県)の自宅から5月に避難した。東京の公共住宅で夫と子供二人と共に避難民として暮らし始めた。妊娠中で11月に出産予定。写真:ジェレミー・スーテイラト( Jeremie Souteyrat)
「食べて安全なものは何なのか、どこなら安全に暮らせるのか、政府がはっきり言わないので、個々人が決断することを余儀なくされています。日本人はそういうことが不得意です」と、臨床心理学で著名な高橋智氏は述べている。彼は、福島のメルトダウンの精神面への影響は、身体的な直接の影響より大きいだろうと予想している。
「地震とは異なり、メルトダウンの被害者たちは不眠、震え、フラッシュバックといったPTSDの症状に見舞われません」と高橋氏は言う。そのかわり、放射線は 「低速で、じわじわと、目に見えない圧力を作り出し」、それが長引く欝を引き起こす可能性があるという。「死にたいと言う人もいます。飲酒量が増える人もいます。多くの人が何もやる気がしないと訴えます。」
マスヤマ・ユキコさんは、自分とこれから生まれる子供のために生死をわける決定をせざるを得なかったため、上記の症状の多くを訴えている。3月9日に、3人目の子供の妊娠が判明した。2日後に福島第一原子力発電所(自宅から25キロ)がメルトダウンした。それ以来、惨事の起こったエリアから必死に逃げたこと、そしてお腹の中で育っている胎児に対する放射線の影響に対する心配が募ってきていることによって、彼女の生活は無茶苦茶にされてしまった。
彼女はクリニックで健診を受けるたびに、超音波エコーで胎児に異常が見つかるのではないかという不安でいっぱいになり、胎児の手足の指を何度も何度も数えてしまうという。医師たちは心配ありません、大丈夫ですと言うが、11月に出産を迎えるまでは、あるいは何年もたたなければ、確実なことは彼らにもわからない。彼女は不安があまりに大きくなり、中絶と自殺をも考えたほどだという。
「震災後の最初の2ヶ月は生き延びることだけに集中していました。」29歳の幸子さんは東京のレストランで私に語ってくれた。「でも、考える時間ができると、ひどく落ち込んでしまいました。心配で食べ物がのどを通らなくなりました。死にたいとすら思いました。」彼女には、東京で心から話し合える人がいない。地元の友達は日本各地の避難所に散り散りになってしまった。夫の家族は、政府も電力会社も安全だと言っているのだから、福島に戻ってほしいと言っている。しかし事故後にあまりに多くの情報を隠蔽し続けた政府や東電を彼女はもう信用していない。
「チェルノブイリのドキュメンタリーを見ました。とても恐ろしく思いましたが、子供を生むことにしました。」とユキコさんは言った。「私には子供が3人います。2人は既に生まれ、1人は未だおなかの中です。息子と娘が被曝したからといって殺すことはしないのに、おなかの中にいる子供を殺せますか?」
元の生活に戻りたくても、自宅のある南相馬は除染作業の真っ最中で、道は清掃され、全ての物の表面にはスプレーが撒かれている。帰る代わりに、彼女は東京に留まるこ とを決意した。孤独ではあるけれど、安全に思えるからだ。それは悩んだ末の決定だった。「好んで東京にいるわけではないけれども、選ばなければならない。私たち日本人は誰かに従いたがる傾向があるけれど、今回は、そうすればいいとは思えなかったのです。」
幸子さんは本当に避難する必要があったのだろうか?今、福島を訪れると、災害やトラウマがあったようには見えないだろう。都市部では、通りはスーツ姿のサラリーマンやOLで 賑わっている。田園部では、田んぼで稲がたわわに実っている。遠景に山々が連なる中、抜けるような青空のもと、新幹線が矢のように通り過ぎていく様子は、まさに絵葉書の中の日本そのものだ。
しかし、良く見れば、多くの家族が放射線量をチェックするためにガイガーカウンターか線量計を所有していることに気づくだろう。レンタルDVDのチェーン店は、最新のハリウッドのヒット作と一緒にガイガーカウンターを貸し出し始めた。放射線量を下げるため、何百もの学校の校庭にブルドーザーが入り、表土を50センチ削り取っている。地域新聞やテレビのニュースでは、細かく分けた区域ごとに、毎日の放射線量を報道している。
禅宗の住職、阿部光裕(こうゆう)さんは寺の後ろの山に、人々の庭の汚染された土を廃棄させている。写真:ジェレミー・スーテイラト( Jeremie Souteyrat)
この6ヶ月間、ほぼ毎日、人々が心配になるニュースがひとつ、またひとつと続いた。7人の母乳からセシウムが検出され、市内でストロンチウムが検出され、ある検査によると福島の子供達の45%が甲状腺被爆している。絶望した農家の人達や孤独に苛まれた被災者が自殺し、汚染された牛肉が市場に出回っている、というニュースが流れ、秋に収穫される米は廃棄せざるを得ないかもしれない、という警告が出ている。
福島県南部の郡山市のビッグパレット(会議施設だが避難所になっていた)の殆どの被災者は仮設住宅に移動した。小数の残っている被災者は、親切なボランティアと世界的に有名な建築家、坂茂のデザインした段ボールとカーテンの仕切りの恩恵を十分に享受している。しかし、施設内の廊下に取り付けられた電光掲示板に示される放射線量の数値は、0.1マイクロシーベルト(放射線の量的単位であるベクレルは人体に対する影響の指標であるシーベルトに変換されている)を示している。これが平常に戻るだろうかという問いに、ボランティアの寺島道夫さんは嘆息で答えた。「平常といっても、もう以前とは意味が違います。原発事故は、当初恐れられていたような破局はもたらさなかったし、多くのことが改善されつつあります。それでも、以前と同じになることは、もう絶対にないでしょう。」
しかし、除染を行うことによって皆の気持ちを引き立てようと言う動きもある。福島では土壌に浸透したセシウムを吸収するためにヒマワリの種が2000万個配られた。背の高い黄色い花が庭や農場や道端に色を添えている。景色は明るくなるが、花びらや茎は放射性物質を濃縮するため管理された環境で焼却または廃棄しなければならない。
このヒマワリは福島市の郊外の襌寺の住職で、「放射能と戦う」ことを使命としている阿部光裕さんの考案だ。近隣の人達の庭の汚染された土を寺の裏山で引き受けて廃棄し、それをゼオライトで覆って埋めている。また、森の木の葉を高圧スプレーで洗浄して秋の落ち葉が少しでも害が少ないようにしようと計画している。
彼が最も心配なのは一緒に活動している人々の精神的な健康問題だ。「情報量は多くても不確かすぎます。これでは誰も安心できません。政治家、官僚、学者たちは何一つ合意できません。どうやって皆に安心するように言えますか?ポジティブな活動が必要ですが、誰も何を信じればよいかわかりません。」
この地域は農家の人が多く、彼らは汚染された土壌に絶望している。「若い人達は引越していきます。過去6ヶ月で自殺率は増加しています。もっと、この傾向は大きくなるでしょう。希望が見つからなければ生きる理由を失ってしまいます。」
これらに加えて信頼が失われたのも大きい問題だ。大臣たちはパニックを防ぐために生死にかかわる情報を隠蔽していたことを認めた。政府のスポークスマンは最初はメルトダウンを否定し、原発で起こった問題は人体に「ただちに健康に影響はない」と言っていた。安全委員会は、国際原子力関連事故レベルの4に匹敵するに過ぎないと発表した。これがチェルノブイリと同レベルの最高レベル7に引き上げられたのは1ヶ月経ってからだった。原子炉に何が起こったか、完全と呼ぶには程遠い情報しか未だに公開されていないのだ。
地震の次の日、原子炉1号機の建物が爆発した。2日後には第3号機の建物の屋根が吹き飛んだ。その次の朝、原子炉2号機と4号機の爆発が起こった。爆発により放射線が煙の柱となって舞い上がったが、政府は事故の規模も放射能がどのように沿岸部に広がり、福島市、郡山市、そして東京に降り積もったのかについても情報を隠蔽した。
放射能施設関係者や救急隊員にも何も知らされなかった。筆者は、除去作業員にインタビューするために、発電所の南の沿岸町、いわき市に車を走らせた。地震の後、T 氏は福島第一発電所から避難し、約2週間後に戻り、放射能封鎖活動に加わった。
「何も情報はもらえませんでした。」と、匿名を希望するTさんは言う。「誰もメルトダウンの事は口にしませんでした。危機的な事故に際しての訓練も指導も受けませんでした。でも、みんな、事態が非常に深刻なのは知っていました。自分も、これが最後の仕事になるかも知れないと思いました。馬鹿げて聞こえるかもしれませんが、家族と国のために全てを捧げた神風特攻隊のように感じました。」
Tさんは3月以来、50ミリシーベルト被爆した。政府の以前のガイドラインによると、これは1年間の許容被爆量にあたる。
これはTさんにだけ起こったことではない。東京電力の資料によると410名が惨事以来50ミリシーベルトを超えて被爆している。この他に250ミリを超えた人が6人いる。しかし、緊急事態であるということで、 3月に政府は今までの放射能産業従事者の被爆上限100ミリシーベルトを250ミリシーベルトに引き上げ、この被曝量はから合法化されている。
「突然、かつ、劇的に限度が引き上げられ、何が危険で何が安全なのか全くわからなくなりました。」とT氏は続ける。「混乱しました。今まで政府が厳密すぎたのか、それとも、規制が突然ゆるくなったのか?何を信じれば良いかわからなくなりました。」
いたるところで同じ言葉を聞いた。3月以降、政府は食料、放射能業務従事者、学校の校庭、海への放射性物質排水の目標値を緩めた。1年前に危険であると考えられたものが今では安全で合法的なのだ。福島県の200万人近い住民が、政府が一般住民に対して決めた1年の安全放射量ターゲットである1ミリシーベルトを超える地域に住んでいる。原子炉から240kmはなれた東京の下町でさえ、放射能レベルが上がり、職場であれば「放射性障害」の警告を受けるレベルに近づいた。
WHOによると世界中の人口が自然に被爆している平均量は2.4ミリシーベルト/年だ。胸部レントゲンでは1回で0.1ミリシーベルト、6時間の大西洋横断フライトで0.5ミリシーベルト、体全体のCTスキャンで12ミリシーベルト被爆する。しかし、これらの場合、放射線量は前もって予測可能であり外部被爆なので比較的、対応が容易だ。福島で降り注いだ放射性物質は遥かに厄介で、体内に入りこみ、内部から被曝することによってより健康を害しやすいのだ。tyっっs
スーパーでは、放射能レベルが安全であると表示している。多くの人が輸入食品のほうが安全とみなしている。写真:ジェレミー・スーテイラト (Jeremie Souteyrat)
爆発後、放射性核種は花火の後の燃えカスのように、風向きと物質の重量に従って拡散された。それぞれの物質は身体に異なる影響を及ぼす。まず、最も早く広がるのはガスのように軽いヨウ素131で、甲状腺に蓄積される傾向がある。これはいち早く東京でさえ検出された。次に来るのがセシウム134と137で、膀胱と肝臓に影響を及ぼし、半減期は約30年だ。これは福島県と宮城県、千葉市、東京の一部の土壌、水、木々を汚染し、最大の問題となっている。ストロンチウムは骨に蓄積されて白血病の原因となる傾向があり、それほど広い範囲ではないが、それでも福島市を含む64箇所で検出されている。最も重い放射性核種はプルトニウムで半減期は何万年にも及ぶ。発電所の周辺で少量検出され、深刻に汚染された1万トン以上の廃液に混じって太平洋に廃棄された可能性がある。
発電所から排出された放射能の量は膨大だ。事故発生時で77万テラベクレル、そして、技術者が破壊され汚染された施設を囲おうと苦労している間も毎日何十億ベクレルもの放射能が放出されている。殆どはヨウ素で、半減期は8日間だ。これは自然崩壊し、セシウムその他の放射性核種は希釈され散逸した。しかし大部分は土壌にしみこみ、森の木の葉を汚染し、食物連鎖を通じて家畜、魚、野菜、そして人間に広がる。詳細が明らかになるにつれて、福島の住人は何が体内に取り込まれたのか判明しようとしている。最も危険だった3月15日にどこにいたか、何時間程度外にいたか、雪が降っていたか、何を着ていたか、といったことから計算しようとしている。それから、その後何を食べて飲んだか、それが安全な供給源だったかといったことを考えている。
このことに対して個人が出来ることは僅かしかない。政府が約束した体全体のスキャンは時間がかかる。全ての食べ物の放射線レベルを検査するのは殆ど不可能だ。しかし、何とか助けの手を差し伸べようとしている団体がある。ジャーナリストの広河隆一さんが設置した福島の市民食品放射能検査所は無料で食品を検査している。これはゆっくりとしたプロセスだ。それぞれの食品は皮をむいて、つぶされ、または濾してから袋につめ、LB200ベクレルモニターに20分かけられる。
サクマ・アキコさんは自分の菜園のジャガイモを試験するために車を2時間走らせてやってくる。「恐ろしいです。毎日放射能の事を考えています。」そう言いながら毎日の被爆量を克明に記録したノートを見せてくれた。3月15日の爆発以来、線量は100マイクロシーベルト/時を超えた。これはX線一回分に相当する。彼女は頭痛と鼻血に悩まされていると言う。「東京に逃げたいけれど仕事がないし。チェルノブイリの人達がどうして逃げなかったかこれまで分からなかったけれど、今は自分が同じ状況にいます。」
一方では、運命とあきらめている人達を見つけるのは難しくない。何人かは放射能より、ストレスと激変のほうがリスクが大きいと述べている。意見の食い違いは家族、世代、そして共同体の分割をもたらした。「留まるべきか、避難すべきか?」という問いが無数の人々に重くのしかかっている。それ故に、東北地方のホテルは観光客を呼ぶのに苦慮している。東京訪問を延期した外国の高官が多いのも同様の理由による。これはDNAが影響を受けやすい人々、母親と小さな子供たちにとって、特に切迫した問題だ。
その1人が東京に避難している妊婦のイシモリ・マリさんだ。生まれてくる子供の健康に対する考慮と福島県の夫の実家から戻って来るようにとのプレッシャーの間に立って困っている。そこは保守的な田舎だが、今は多くの主婦たちが夫たちと議論していると言う。
イシモリさんは発電所の事故を聞いてすぐに避難した。「私は主人を愛しています。でも、絶対に福島には戻りません。」と、コーヒーを飲みながら語ってくれた。「自分の子供に普通の子供時代を過ごさせてやりたいから。福島にいたら、土や葉に触るのも、川に入るのもダメと言わなければならないでしょう。子供には、自分が育ったように、そんな事を心配せず育ってほしいのです。難しいです。もう、主人と一緒に暮らせるかどうかわかりません。」
イシモリさんは放射能を恐れる大きな理由がある。彼女は世界で最初に放射能爆弾の標的となった広島で育ったのだ。子供時代には祖母と曾祖母からアメリカの爆撃と、それに続く死の灰の恐ろしさを何度も聞いてきた。放射能爆弾の生存者である「被爆者」が偏見に苦しむのも見てきた。時には被爆者の子供たちまで遺伝子に汚染が蓄積されているかのように取り扱われてきた。差別に関する多くの記録が残っている。就職を拒否された人もいたし、奇形の子供が生まれるかもしれないという、医学的に証明されていない理由で結婚を拒否された人もいる。しかし、被爆者は貴重な生き残りであり、放射能の本当のリスクについての知識をもつ存在として尊重もされている。彼らは今回の惨事の後、政府の「直ちには健康に害がない」という耳に優しいだけの不明瞭な発表にもかかわらず、大きな危機感を持つよう警告した最初の人達でもある。
来月に出産を控えている石森さんは今、孤立しています。魚も卵も食べず、公式な安全宣言を信じていない。「政府の言うことは何も信じていません。東京電力と政府は、あまりにも多くの嘘をついてきました。」
心配と疑いの裏には、健康に対するリスクの明確なガイダンスの欠如がある。しかし、誰一人、完全に安全な放射能レベルを設定できる人はいないのも事実だ。日本赤十字社長崎原爆病院の院長、朝長万左男氏は放射能の影響を40年間研究してきた。朝長院長は広島と長崎の原爆の生き残りの人達を基準とし、放射能の被爆量が100ミリシーベルト上がる毎に癌になる確率が増える傾向があると証明した。放射線の低いレベルでは同様のパターンが見られると思われるが、変化はあまりにも小規模で正確に計測できないという。
「5ミリシーベルトなら、または、10ミリシーベルトなら非常に安全だと証明できるデータはありません。はっきりとした証拠はないのです。」と、朝長院長は言う。「原爆により、被爆者は短時間に膨大な量の放射線を全身に浴びました。福島の住民は少量の放射線を毎日浴びています。これは、とても重要な違いです。」
チェルノブイリとは、もっと類似した比較ができる。事故は旧ソ連邦で起こり、瓦礫を撤去した人達134名が急性の放射能障害にかかった。その内の28人が1年以内に死亡した。何百万人もが低放射線で被爆し、ベラルーシと北ヨーロッパの広範囲が汚染された。事故後20年目の追跡調査によると、WHOは事故により重度に被曝した62万6千人のうち癌で4,000人が死亡した(普通より4%高い)と結論付けた。低線量被爆者の癌による致死率は約0.6%上昇すると見積もられている。同機関はまた、ロシアの調査によると心臓病、白内障が増える危険性も示唆されているが、出生率、流産、先天的欠損症に対する影響があるという証拠は見つかっていないという。
福島ではチェルノブイリの10分の1の放射線量が漏れ、ミルクによる汚染を防ぐための処置が大規模に取られた。日本は(何千人と言うよりは)何百人もの人々が癌になる可能性に対して備えたと言えるし、また出産の問題も思うほど大きくはない可能性がある。
このことはマスヤマさんやイシモリさんのような妊娠中の母親達を安心させるはずだ。しかし、日本の他の母親たち同様、二人は公式な安全発言に対し懐疑的である。3万人から90万人も癌患者数が増加したと言う、別機関のチェルノブイリの研究結果を知っているのだ。また、日本の人口密度はベラルーシの10倍であると言うことも知っている。政治家が放射能の分布予測を隠蔽したのは経済的影響を住民の生命より重視したからだと疑っている。立ち入り禁止区域外で最悪の許容限度の200倍を記録した浪江では、地元住民は「殺人行為」だと表現した。また、原子力産業、特に東京電力の影響も広く知られてきている。東電は国内最大の(マスメディアの)スポンサー、選挙資金提供者、そして理系大卒者の雇用者なのだ。
東京電力の曖昧さと政府の遅い対応を見て、意気消沈する人が出る一方、急進的になる人も現れた。
フォトジャーナリストの広河隆一氏はチェルノブイリを報道し、また、爆発の後で福島原子力発電所近辺の放射能を独自に測定した、最初のリポーターの1人だ。彼は原子力産業は再び隠蔽工作をしていると信じている。なぜなら、惨事の健康に関する影響を調査している専門家たちは長年、エネルギー関連企業で音頭をとって来た人達だからだという。
「彼らは、最初に、チェルノブイリの事故は健康に影響を与えない、と言った人達です。」と、広河氏は東京のオフィスで私に語ってくれた。「彼らは住民をモルモットのように扱います。情報は収集するけれど個人に提供しません。調査結果も教えず、治療もしません。」
この脅威に立ち向かうために広河氏は、350万円(2万8千ポンド)の全身モニタリング機器を含む先進的な測定機器を購入するために寄付金を募った。これらの機器は市民センター等で誰でも自由に使うことができる。「政府の健康調査は安心できません。」と広河氏は言う。「だから、この機器を住民に提供したのです。政府は放射能の影響を受けた人数を出来るだけ低く抑えたいのです。情報を持って戦わなければなりません。そうすれば、人々はリスクをより正確に理解し、必要な医療が受けられるようになります。」
権威について再考するためのこの新しい機会を、産業界と政界を良い方向へシフトするチャンスと捉える人達もいる。飯田哲也氏は元原子力エンジニアだったが、太陽熱、風力、地熱エネルギーへのシフトを10年以上推奨してきた。彼の環境エネルギー政策研究所は3月11日までは重要視されていなかったが、メルトダウンが起きて以来、飯田氏による原子力の段階的廃止への呼びかけが注意を集めている。ある世論調査によると国民の70%がこの考えを支持していることを示唆している。
飯田氏は、今、ソフトバンクの創始者であり、国内で最も尊敬されている実業家である孫正義氏とクリーン・エネルギーのための基金を集めている。今週、二人は自然エネルギー財団を設立するが、孫氏はこの財団に10億円を投資すると約束した。ビジネスマン、政治家、そして著名人たちも以前より原子力発電に批判的な態度を示している。原子力発電を批判することはかつてはキャリア上の自殺行為だったが、今や国のトップニュースの番組は電力会社をスポンサーから外している。
日本の政治の心臓部である東京の永田町にも変化が見られる。チェルノブイリの後、ソ連の機構は5年以内に崩壊した。主要政党は同様の運命を避けるために、どのような変更が必要かを見積もっている。管直人前首相は日本の原子力利用の終結を呼びかけ、その後すぐに地位を失った。後継者の野田佳彦現首相は、もっと注意深く、変化の勢いを緩めることを提案している。資金の大部分を原子力産業から得ている自由民主党ですら、国内の原子力エネルギー依存を低減すると約束している。しかし、誰が実行するにせよ、まず、民衆の信頼を再獲得しなければならない。
筆者は、震災地の再建の命を受けた政治家、平野達男復興相に会い、信頼を再獲得するには何をすべきか質問した。
「今までは震災で直接被害を受けた人達の支援をし続けました。」と、平野氏は言う。「しかし、同様に、初めて放射能の中で生きようとする人達も支援しなければなりません。」政府は今後10年間の再建に23兆円(1810億ポンド)を取り付けた。しかし、放射能の除去費用の計算が残っている。それは復興の全体像が未だ不明であることが原因の一つだ。
民衆の不安を軽減するために、被災地出身の平野氏は、政府は原子炉の冷却システムを破壊したのが地震なのか津波なのか明確にし、他の残る謎も明白にすべきだと言う。政府は20km圏内立ち入り禁止区域内の放射能の詳細な研究、福島県民の健康診断の長期プログラムを開始し、放射能の決定的な基準量を設定する専門家の委員会を設置しました。食品安全委員会は最近、自然界に存在する放射線と医療用放射線を除く、日本国民の一生の被爆量の新基準として100ミリシーベルトという値を提案した。
タカノ・マサミさんの母親は450km離れた滋賀県に息子が避難するのを見送った。「僕は逃げます。」と、マサミさんは言った。写真:ジェレミー・スーテイラト( Jeremie Souteyrat)
平野氏は、究極的には、最も古いものから始めて、日本の54基の原子炉を段階的に廃炉にする活動を含む、エネルギー産業界の再構築を見たいと希望している。原子力産業界は当然戦いを挑むだろうが、平野氏は有権者は変化を要求するだろうと予想している。「次回の選挙では、個人の恩恵のために原子力の推進を指示する政治家は落選するでしょう。」
しかし、日本に脱原発、除染、そして自信を回復するだけのダイナミズムがあるのだろうか?日本は、かつて、素晴らしい回復を見せた。しかし、今は人口の減少と高齢化、経済不況、腐敗した政治機構を抱えている。新スタートは困難なものとなるだろうが、一部ではもうその動きが始まっている。
福島での滞在の最後の日、筆者は霧雨が降る朝5時に起き、30年住んだ自宅と調理師の職を捨てたタカノ・マサミさんと会った。
滋賀県まで車で10時間かかるので早く出発したいと言うことだった。滋賀県は日本の西側にある山の多い県で、そこでマサミさんは放射能から逃れて新しい人生を始めたいと望んでいる。母親の忍び泣きを聞きながらマサミさんはホンダのシビックに洋服の箱、仕事を探すために使う麺を打つ道具、そして車中で聞くレディー・ガガのCDを数枚積み込んだ。
友達には既に別れを告げた。「正直に言いましたよ。放射能が怖いから逃げる、って。違う意見の人もいます。良くわかります。引っ越すのは大変です、ここに生まれてから住んでいたんだし。でも、ここは安全ではないのです。」
一方、政府は避難者に家に戻るように呼びかけている。当局は、当該地域が安全であると主張している。放射能レベルは過去2ヶ月で毎時1.2マイクロシーベルトから0.7マイクロシーベルトに下がった。しかし、まだ食品の安全性の問題が残っているのでタカノさんは危険を犯したくないのだ。「引越しはストレスが大きいだろうけれど、マスクをする必要もなくなるし、毎日もっと放射能を浴びることによる心配をしなくてすみます。」
タカノさんは最後のコーヒーを飲みながら朝のテレビニュースを見た。トップニュースでは原子力発電所内の放射能レベルは未だに10シーベルトという致死量のレベルであることを報じていた。これに次いで九州電力のやらせメールに関する報道を流していた。
「完全に安全な所はありません。」とタカノさんは言う。「日本は狭いのに原子炉が多すぎます。引っ越す先にも原子力発電所があります。地元の人達に、どんなリスクがあるか語りたいと思っています。」と、続た。「もう私の内臓は被爆しています。何年も影響を受けることでしょう。引っ越したからと言って心配がなくなるわけではありません。」
出発する時間になった。マサミさんは車に乗り込み、母親と隣のお年寄りのサトウさんが見送る。車は地震で亀裂が入った狭い道をゆっくりと進む。車が見えなくなると、お母さんは目を赤くして言葉も無く、サトウさんも何と言ってよいかわからないようでした。
「行ってしまった。」とお母さんは言い、花壇のことに話題を変えました。「このヒマワリを見てください。セシウムを吸収してもらおうと植えたんです。こんなに大きくなるなんて夢見たい。」
この記事を発表する前に草稿を(冒頭で紹介した友人の)レイコさんに送った。返事は丁寧だったが、彼女は落胆したように感じた。「たぶん、あなたに答えは見つけられるでしょう。でもそれはたぶん期待しすぎなのかも知れません。そうだったとしたら、忘れてください。私は他の日本人より意見をはっきり言いますけれど、途方にくれています。この国で生活するには普通に戻らなければ、今までにしていたように振舞わなければなりません。働かなければならないし、食べなければならないのです。5ヶ月間もがき続けて、もう心配するのに疲れました。現実と向き合うことをあきらめる方が楽です。一番つらいのは一秒一秒が答えのない葛藤の連続だということです。」
筆者も本当に胸が痛むが、残念ながら明確な答えで安心させることは出来ない。原子力の惨事は恐ろしいものだったが、想像していたほどではなかった。1年前に誰かが私に原子炉3基が同時にメルトダウンすると言っていたら、それは世界の終わりだと思っただろう。でも、今の日本は想像していたような終末の様相を呈していない。その代わり、ゆるやかな崩壊が起こっている。福島を3回訪問して1年前より放射能に対する恐怖は小さくなったが、日本に対する心配は大きくなっている。
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