『イエスタデイをうたって』における「イエスタデイ」の意味合い
アニメ『イエスタデイをうたって』の6話『ユズハラという女』がなかなかに、ずしーんと来るものだった。作品としてもこれはすごいなあと思ったが、どうすごいかを書いていいものか、微妙にためらう。きっと、すごいのは「そこじゃないだろ」ということになることはわかっているのだ。と、書いてみて、やっぱし、書こう。ネタバレは当然含まれるし、率直に言って、以下の内容はあんまりお子様向けではない。大人向けでもないが。
さて、たいていはブログ記事では手抜くのだが、物語のつなぎを簡単に書く。
時代設定は、1990年代あたりだろう。スマホはない。主人公・魚住陸生(リクオ)は、東京の大学(早大だろう)を卒業したが就職せず、コンビニのアルバイトをして、東京で生計を立てているフリーターである。25歳くらいの設定だろう。もう一人の主人公は、カラスを手なづけている少女・野中晴(ハル)。高校を中退している。19歳の設定だろう。彼女は偶然であるかのようにコンビニでリクオと出会うが、リクオに恋をしている。
リクオが思いを寄せているのは、大学時代の同級生・森ノ目榀子(シナコ)。大学時代が終わり、彼女は地元の高校教師になったが、その後、東京の高校に赴任。ハルの担任でもあった。リクオと再開し、リクオはシナコに告るが、お友達でいたいということで、沈没。シナコは死んだ幼馴染の男の子・早川湧のことが忘れられない。そこに湧の弟・早川浪も現れる。ハルと同い年の設定である。浪はシナコに思いを寄せている。
淡い恋愛の思いが空回るという話で、さらに、前回『ミナトという男』では、ハルに思いを寄せる同級生の湊航一が現れる。告って沈没。
そして、今回は、リクオの下宿に高校時代の同級生でかつての恋人だった『ユズハラという女』が登場。彼女は、行くとこないんだ、しばらく泊めてよと言い、居候するという話である。リクオとのちぐはぐな同棲が始まる。
物語上は、ハル対航一、リクオ対ユズハラ、というふうな、一種恋愛心理の力学というか構造上の設定でしかないようで、実際原作ではここが交錯して描かれる。だが、アニメでは、それぞれの回に分離し、ユズハラ回になる。
当然、リクオとユズハラの短期同棲は、ハルとシナコの知るところになる。それも構造要因のようなものである。が、これはそうしたすれ違う淡い恋情の構造だけでない。ああ、出てきたかと私は思ったのだ。処女と童貞の問題である。まあ、この記事の表題的に言うなら、「イエスタデイ」とは処女と童貞の時代である。
今回のユズハラ回では、シナコが酒席で同僚に恋愛を問われるシーンがあり、シナコは死んだ幼馴染の純情を語るのだが、当然、同僚はドン引き。ここで原作のほうでは、「操」というタームが出てくる。アニメでは雰囲気だけの展開だが、ようするに、シナコは処女決定であり、処女であることは死霊に重なっている。このあたり、『イエスタデイをうたって』は『めぞん一刻』と似ていると言われるが、響子は性的に成熟した未亡人であり、そのことが物語に大きな意味を持っている。五代は風俗で童貞を捨てるのもそのせいである。
リクオは童貞なのか? これがまず、大きな問題である。概ね、そうだろう。まず、シナコを押せないのは、童貞そのものでもあるし、童貞でないなら、シナコ以前の女が問われるのだが、そこで出てきたのが、処女ではないユズハラである。今回の物語は、処女ではない・甘ったるい恋情では生きられない女が甘ったるいイエスタデイの思いでリクオを喰うお話でもあり、リクオは童貞でしかありえない。リクオの頑なさも童貞・童貞・童貞。
さて、ではハルは処女なのか? そう見える。が、そこは少しぼやけている。
それで今回だが、リクオが童貞でなければ、男と女なんて別に恋情などなくても同棲していたら、飯を食って洗濯して(下着を洗濯するわけで、そのあたりは原作に微妙な織り込みがある)という日常の延長に性交が現れる。そう書くと自然的だが、自然でないこともある。小林秀雄の『Xへの手紙』の有名な「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」の手前あたりに、むらっときた小林が泰子に迫る状況があり、あれは『考えるヒント』の『井伏君の貸間あり』で、同題の映画について小林秀雄が、若い男女が繰り広げる痴態は見てられるものじゃないと率直に自己嫌悪を表している。が、まあ、そういうことだ、童貞・処女じゃないというのは、あの痴態タイムを生活に織り込んでしまう。
『ユズハラという女』では、リクオが下宿に帰る。ユズハラが迎える。
「おかえり!今日はギョーザだよ。ちょっと待ってて。すぐ片付けるから」というところで、リクオが突然、ユズハラの身体位にのしかかって押し倒す。で、それをユズハラは、「別にいいけど。火、止めなきゃ」と受け止める。まあこのまま痴態タイムに流れ込むとユズハラは見ていたわけで、そのセリフの「火、止めなきゃ」がたまらなくエロい。これ、原作にはこのセリフはないんだよ。脚本家GJ。
とはいえ、そこは童貞力のリクオは風邪で倒れ込んだということでした。リクオよく風邪で倒れるだが、原作と時間の流れが違うのでしかたないのかも。
ユズハラはそのまま、リクオの看病をして、そこにシナコとハルがやってくるというご期待通りの展開だが、重要なのは、そこでユズハラはリクオを着替えさせて、それをランドリーに持っていて、タバコをふかしながら洗濯を見つめている。その後、ユズハラはシナコに会い、ただの居候だと説明する。恋情はないというのを処女力のシナコは受け止めてしまう。ただ、ユズハラの思いはすべて言葉の嘘になっているが、彼女がリクオが好きだというわけでもない。
誰かが誰かを、男と限らず女と限らず、同性愛ですら、それらが、恋情の純粋性のような幻影を持つのは、処女・童貞の日々への思いからだろうか?
ユズハラはリクオの童貞性をすんなり喰っていくのもいいかとは思っていただろうが(「無防備な顔して」)、シナコの処女性の思いにたじろいで消える。物語は、そうした「イエスタデイ」への淡い憧れが支配している。というか、力として権限していく。なお、この点も『めぞん一刻』とは異なり、高橋留美子という作者の力は響子と五代をどろっとした性関係へ追い込んでいく。
あえて問いたい。「イエスタデイ」への淡い憧れはなぜあるのか? なぜ、それは痛い。なぜ、ひりひりと痛いのか。
もちろん、痛くもないよ、こんな物語、面白くもないし、お前、ブログに何書いてんだよ、恥ずかしいなということも、わかるよ。いや。わからないなあ。ハルが何気なくつぶやいた、「愛とはなんぞや?」は、泣きながら解く必要がある、といいながら、原作で、ハルはミナトとの別れで泣くのだが、アニメでは泣かない。たぶん、あそこでは泣いてはだめなんだ。
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