官邸ドローン落下事件はインスタレーションと見てよかった
書こうかどうか迷ったのだけど、いちおうまだブロガーを廃業しているわけでもないので、少し書いておこう。ネタは、官邸ドローン落下事件である。で、何がいいたいのか。官邸ドローン落下事件はインスタレーションと見てよかったということである。
つまりアート。芸術である。
何も奇矯な修辞を弄したいわけではない。「芸術は爆発だ」とかいうギャグを言いたいわけでもない。普通に考えて、これはインスタレーションと見てよかったと思うのである。むしろ、なぜそうならなかったのかという点にこそ、現代日本の重苦しい空気を感じる。
普通に考えてこれはインスタレーションだと私は思うのだが、そういう指摘をニュースでもネットでも私は見かけなかった。どこかにあったのかもしれないが、見かけないならブロガーが書いておくのもいいだろう。
容疑者が出頭してから、出頭に合わせて関連経緯のブログが公開され、それがこの事件の説明とされたことから、「こいつアホじゃね」みたいな空気が形成された。反原発の主張を読み取ることで「反原発ってこんなやつらばっかしなんじゃいの」といった文脈も形成された。
またそれ以前に、官邸側が上手にテロ対策の文脈を作ってしまったことや、容疑者もテロという言葉をもてあそんでいたことから、報道もそういう枠組みにすっぽり嵌ってしまった。
しかし、現状の小型クアッド・コプターで運べるのは500gに満たない。500gだって危険な物質があるというのもそうだが、だったら、問題はまさしく小型クアッド・コプターではありえない。そもそもこのレベルのドローンの規制にどれだけの意味があるのか頭を冷やして考えればわかることだ。しかも今回運んだのは「汚染土」である。これもよく探せば都内でも見つかる程度の泥である。つまり、それはメッセージ以外のものではない。
つくづく、なにかと、残念だなと思う。なによりこれは普通に考えたらインスタレーションであるのに。
昨年月7月22日、ブルックリン・ブリッジの星条旗が白い旗にすり替えられた。しかもわざわざ通常の星条旗を脱色して作った旗である。やったのは、芸術家であった。
今回の容疑者も、愛読してた古賀茂明氏のようにどうどうと「自分のインスタレーションを理解してくれよ」としゃべくりまくるか、艾未未みたいな演出でもすればよかったのではないか。あるいはもうちょっと、よくあるように支援組織に目配せしてもよかったのではないか。本人は「ローンウルフ」を自称していたが、アートはなかなかプレゼンテーションも必要なのである。
インスタレーションとしては場所とタイミングも重要になる。ブルックリン・ブリッジ白旗も橋設計者のジョン・ローブリングの命日だった。今回の事件も、自称の「官邸サンタ」でわかるように、本来は12月24日の深夜に成功するはずだった。官邸へのサンタからの贈り物が、原発汚染土だったのである。「あと反原発アピールなら汚染土か・・・」(参照)という着想であった。テロというようなものではそもそもない。
もうちょっとだけ演出がよければと悔やまれてならない。しかしまあ、インスタレーションとしてミスは多かったことは否めない。
容疑者にはまだアートの心が足りなかったと言ってもいいかもしれない。若い頃に漫画なども書いていたから、まったくアートの才能がなかったとは思えないが、事件直前に公開されたブログを読むと、奇妙に真面目な自省が自意識との合間で歪んでいくようすが凡庸すぎて、自分を見るようなつらさがある。
本来のクリスマス・イブはつらいものだった(参照)。
帰りの道中少しホッとしている・・・
家に着いた頃には気が狂うほど後悔・・・飛ばしたかった・・・
なにが彼を失敗したアーティストに変えたのか。
40歳という年齢だっただろう(参照)。
「ゲリラ戦士の最高年齢は40歳以上であってはならない」(チェ・ゲバラ)
40歳になっってしまった・・・
平均寿命の半分を無駄に過ごした
ゲリラ定年・・・いやまだ何もしてない・・・再雇用
40歳になる焦りが稚拙に書かれている。その半年ほど前には「39歳・・・思うように身体を動かせる期間はあとどれくらいか・・・」(参照)ともある。老いていくことの恐れが彼を駆り立てていたことは確かである。まあ、自分を省みてもその焦りはよくわかる。
そして、このゲリラへの言及だが、彼はもともとゲリラになりたかったのである。そういう夢があって悪いものでもない、夢だけなら。
その点、今回の事件で彼のブログを見て最初に奇妙に思えたのは、「ゲリラブログ参」という「参」である。最初、「参上!」かと思ったが、ふとこれは数字の「3」なんだろうと考えて調べてみると、これ以前に「ゲリラブログ」(参照・アクセス不可)があり、2010年10月から2014年4月まで書かれていた。内容はほとんどがサバゲーである。趣味でやっていた。この時期、2011年3月11日の震災やそれに続く原発事故についての言及はない。つまりこの時期には彼は、反原発に関心をもっていなかったことがわかる。
現存の「参」は2014年7月から2015年4月までである。推測するに、2014年5月から2014年6月までの2か月間の「弐」が存在していても不思議ではないので探したが見つからなかった。ただし、あったとしても短期間である。が、この間に「反原発」への転換の芽はあったかもしれない。
「参」を読んでいくと、反原発は彼の故郷の福井県小浜市の住民として高浜原発への思いが根にあるようにも思える。そうしてみると、彼が定職を辞したのも転勤としてこの地を離れることを厭う気持ちもあったのかもしれない。
彼を「官邸サンタ」にした一つの転機は、会社を辞めたあとの昨年秋の九州一周自動車旅行だったようだ。そこで着想した(参照)。
2週間くらい車で走りながらずっと次の行動を考えてた・・・
ドローンを使えないだろうか・・・
このあたりの彼のブログを読んでいて思うのは、やはり普通にインスタレーションだなということだ。彼にとっての「テロ」はサバゲーのような趣味の領域であり、自分が40歳にもなって崇拝するチェ・ゲバラからの離れていく脱落感から、意思を表明してみたかったのだろう。
滑稽といえば滑稽だし、私とさほど変わらない小市民である。むしろ、その小市民性がせっかくの芸術行為をちょっとつまんないものにしてしまった。
しかし小市民というなら、私たち日本の小市民はこの事件を芸術として鑑賞していいのだと思う。反原発というインスタレーションの趣旨は理解するとしても、その主張それ自体に同調する必要はないし、またこの程度の騒ぎに官邸側のストーリーに載せられてテロだと市民が騒ぐような段階でもない。誤解なきよう補足すれば、だからといってこれが現状の法律で犯罪ではないというたぐいの弁護をしたいわけではない。もっとも、芸術には千円札裁判(参照)のような事例もある。
ただ私たちにはもっとアートな心をもっていい。息苦しい正義が横行しているときこそ、アートで笑うべきなのだ。戦時、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」というポスターが貼られたが、市民はそこで「工」の文字を消した。ちょっとしたアートである。その諧謔の伝統こそ市民社会が維持するべきものだ。
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コメント
非常に面白く、的確な分析だと思います。(アーティスティックじゃない文で申し訳ない。)
投稿: | 2015.05.03 11:10
せっかくの良い内容ですがインスタレーションの意味を間違って使っているので気になって頭に入ってきません。
投稿: | 2015.05.06 16:43