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2012.04.26

[書評]浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか(島田裕巳)

 本書「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」(参照)の表題の問いについて関心がある人なら、それは「おわりに」の数ページが扱っているだけなので、さっとそこだけ立ち読みすれば終わる。ただ、さっと読んでわかる回答は書かれていない。筆者の用意した回答としては「庶民の宗教だから」というのが筆頭に来るが、それが明瞭に支持された解説に拠らずややわかりづらい印象を受ける。しかし、そこは本書の欠点ではない。

cover
浄土真宗はなぜ
日本でいちばん多いのか
島田裕巳
 むしろ本書全体を読めば、明瞭な答えに導かれる。つまり、浄土真宗は妻帯から家系による寺の相続が可能になったこと(本来寺はそういうものではない)と、妻帯に伴う縁組みで閨閥が形成できることだ。
 浄土真宗を宗教としてみるとわかりづらいが、諸侯や商店の特異とも見ればよいとも言えるだろう。浄土真宗藩や浄土真宗店とでもいうようなものである。さらに江戸時代に幕府から特別に保護されたことの要因も大きい。
 ただし、それらの要因が浄土真宗において実質日本社会に影響力を持つのは、諸侯のような通常の経営力よりも、葬式という死者を管理する仕組みをもったことだ。
 本書で興味深いのは、本書が、なぜ日本の仏教は葬式仏教なのかについて、かなり明瞭な答えを出している点である。実際のところ日本の仏教の経営の実態は葬式と死者の管理なのであり、公的部門の民営化だったのである。
 その意味で、「日本の仏教とはなんだろうか」「なぜ世界の仏教とこんなに違うのだろうか」という疑問や違和感を持つ人にとっては、本書はかなり明晰な答えを与えるし、これ、英語に翻訳すれば各国のシンクタンクで日本の分析に活用されるだろう。もっとも、それだけの魅力が日本の国家に残っているならばではあるが。
 別の言い方をすれば、本書は、実に適切でコンパクトな日本仏教概論になっている。従来から日本仏教概説といった書物は多種あるが、どれでも中途半端な、各派の教義のパッチワークか、あるいは帝大系仏教学の援用といったつまらないもので、現実の日本の仏教に対応したものではなかった。これに反して本書は、日本仏教というのを実用的に概説している。実に便利な書籍である。
 私個人としては「これは痛快だな」と思えたのは、空海や親鸞の虚像を剥いでいくあたりもだが(これらは学術研究ではすでにわかっていたことではある)、なんといっても、道元から葬式仏教が出てくるという指摘だった。しかも道元をオウム真理教に比すカルト宗教として捉えているのも的確だった。もちろん、私も含めて道元を敬愛する人でも学術心がなければ嫌悪してしまうかもしれない。
 道元の創始した曹洞宗が日本の葬式仏教を生み出し、これを江戸時代に体制化した浄土真宗がパクることで現在の葬式仏教体制が成立した。
 なぜ道元のような純粋な仏教思想からこんな奇っ怪な事態が生じたのかというのは、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読むような逆説的な面白さがある。
 私も含めて曹洞宗の歴史をそれなりに知っているものからすれば、道元後の永平寺の動向も知っているので、その意味では、それは道元の思想が誤解されたもの、あるいは世俗化したものという理解は難しくはない。しかし、そのような意味合いは結局のところ護教的な説明に堕しているだけで、むしろ本書のように徹底的に社会学的な視点から捉えたほうがわかりやすい。同時に、葬式仏教は本来の仏教ではないとして、本来の仏教という奇っ怪なものを提示する陥穽に落ちずに済む。
 日本の葬式というのは、宗教学を多少なり囓ったものであれば、仏教ではなく儒教であることは知っている。なぜ儒教が日本の葬式仏教になったかといえば、これはすでに先行して宗教混合(シンクレティズム)が進んでいた中国の模倣だからである。ではどこで、中国の風習が日本に流れ込んだかということだが、そのあたりの経路と追跡が本書で簡素にまとまっている。
 話を本書の表題の修辞的な疑問に戻すと、「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」について、「庶民の宗教だから」という曖昧な回答を、むしろ受け入れる要素があるのは、戦後の状況である。
 寺院の家系相続がより明確になったのも戦後ではあるが、戦後を意味付ける仏教の動向は、これも端的に言えば、日蓮宗と創価学会であった。本書が、昭和40年代まで日蓮宗と創価学会がモダンな都市民の宗教として魅力を持っていた実態を明らかにしているのも、現在となっては貴重だろう。このあたりは、私のように昭和の人生が長い人間には当たり前だが、自覚した人生が平成時代という人には感覚としてはわかりづらいようだ。
 本書には言及されていないが、戦後大衆にアピールした政治思想と宗教は、その躍進という点からすれば、共産主義と創価学会であった。共産主義についてはハンガリー騒動を受け、60年代・70年代の新左翼分化と、カルト的に体制化していく社会主義によって薄れて、現在はもはや老人の巣窟(それと日共産下の病院)くらいしか残っていない。だが、創価学会のほうは時代的な要因からはずれてもむしろ、当時の二世・三世のある種のエリート化によって現在も所定の影響力を維持している。これも逆に言えば、形骸化としての維持なので戦後の創価学会の躍進のエネルギーはない。
 話をより葬式仏教全体に及ぼせば、これも形骸化した維持の状態にある。団塊世代から葬式仏教は徐々に崩壊しつつあるものの、死者の層もここが大きいので、新聞などと同様以外と長く持ちこたえる。最終的に葬式仏教が終焉するのは、私がある程度寿命をまっとうしたらその頃になるだろう。いずれ、葬式仏教は日本から消える。そうした中期的な日本の精神風土の見取り図としても本書は役立つ。
 本書には欠点もある。仏教学を多少なり学んだ人ならいくつか誤りを指摘できそうだ。私も読み始めのころは、首をかしげる部分があった。しかし私のような浅学ですらそうなら、著者の下にはいろいろ改善点が集積されているだろうし、今後増補版を出されればいいだろう。
 むしろ、本書のカーバーする範囲ではないのかもしれないし、本書が定説や近年の学術研究を簡素にまとめたせいもあるのだろうし、また新書としての制約もあるだろうが、民俗学的な知見が欠落していているのは残念に思えた。
 地蔵信仰や観音信仰、さらには近世の新興宗教などについてはほとんど触れられていない。奈良・京都・鎌倉といったいわゆる正史的な寺院以外に、民衆の仏教史跡などを見て回れば、また違った仏教の風景が見えるものだ。なぜ地蔵信仰があるのか、観音仏が多いのはなぜか、薬師如来とはなにか、など。これらの大衆の仏教信仰を本書に補強すれば、ようやく日本仏教史というものの総体が見えてくるだろう。
 
 

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コメント

単に、お墓が多いからでしょ。か、維持費が安いとか。

投稿: | 2012.04.26 15:52

仏教にとって大切なのは禅定(体験)。これがあるから、後世の捏造に過ぎない法華経も華厳経も真理を担保できる。単に知的に仏教を分解していっても、仏陀在世の時代のインドの特殊事情しか残るものはない。

曹洞宗を葬式仏教にしたのは、道元禅師ではなく、第四祖けいざん禅師なのでは?わたしはけいざん禅師大好きです。日本が生んだ「最高」のオカルティストですから。けいざん禅師は、本職の禅僧としても一流でした。

投稿: enneagram | 2012.04.29 06:10

仏教は火葬、儒教は土葬。

この違いは、むかしは大きいものだったと思います。

仏教と儒教は、混ざり合ったようで、混ざり合いにくかったみたい。朱子だって、混ぜるのに苦労してるようですよ。

投稿: enneagram | 2012.04.29 06:15

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投稿: 洛書 | 2012.04.29 06:39

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