一週間はなぜ七日か?
誰もが一度は疑問に思う謎
一週間はなぜ七日か? 誰もが一度は疑問に思うらしく、ネットを探すといろいろそれらしい答えがある。どれも的外れとも言い切れないが、「なるほどそれが解答か」と合点のいくものもなさそうだ。残念ながら、このエントリも解答を提示するわけではない。が、このところのミトラ教関連エントリの文脈で言及しておこう。
その名の通りの本がある。ダニエル・ブアスティン著「どうして一週間は七日なのか」(参照)である。「The Discoverers(Daniel J. Boorsti)」(参照)を邦訳し、分冊した本だ。合本の「大発見 未知に挑んだ人間の歴史」(参照)もある。この本は私が20代の頃、米国でベストセラーとなったから、私の年代の知識人は大半が読んでいる。「一週間はなぜ七日か?」という疑問も、そのあたりで収束したとも言える。同書はどう書いていたのか。
なぜ一週間は七日なのか?
古代ギリシアには週はなかったらしい。ローマ人は八日を一週間として生活していた。農民は畑で七日働き、八日目には町に出かける――それが市の日(ヌンディナエ)である。これは仕事を休むお祭りの日で、学校も休みになり、公の告示がなされ、友人とのつきあいを楽しむ機会だった。ローマ人がいつ、どんな理由から八日を単位にしたのか、またその後一週間を七日に変えたのはなぜかは明らかではない。
というわけで、ローマの制度を継いだ現在の一週間が七日になった理由は、わかっていない。わからない類のことらしい。
当初のローマでは一週間は八日だった
一週間はなぜ七日なのか。その謎がそれほどまでに疑問視されないのは、欧米ではキリスト教の普及があり、そこでは天地創造に合わせ、一週間を七日とする神話が記載されているためだ。
しかし、キリスト教――実際にはその根にあるユダヤ教――の世界観・時間観が、一週間を七日とする制度の理由ではない。ローマは当初八日の週を使い、その後七日の週を採用後、キリスト教化した。順序からすると、たまたまローマに七日の一週間があってキリスト教ともよく馴染んだというだけのことである。
正確に言えば、当初ローマの一週間が八日だったかについては議論がある。もしやと思い、日本語のウィキペディアのローマ暦の項目(参照)を見ると、ヌンディナエ(nundinae)という用語は無かった。代わりに、Kalendae(カレンダエ)、Nōnae(ノーナエ)、Īdūs(イードゥース)のちょっと変わった説明が付いている。
ローマでは当初、市の日ヌンディナエを基準して週を表していた。日本の「五日市」「八日市」といった考え方(Nundinal cycle)である。庶民としては、後代の歌だが「月曜日に市場に出かけ」と口ずさむように、週というものは自然に市と結合しやすい。
ローマ暦で七日の一週間が採用されたのがいつかは、はっきりとしない。ブアスティンも次のように書いている。
ローマ人が週を八日から七日に変えたのは公的な措置によるわけではなさそうである。紀元三世紀初頭には、ローマ人は一週間を七日としていた。
その時期にはすでにユリウス・カエサルを敬して名付けられた太陽暦のユリウス暦が利用されていた。ただし、私が子どもの頃一般的だった旧暦併記のカレンダーのように、ヌンディナエも併記されていらしい。ローマのカレンダーからヌンディナエが消えたのは、ミラノ勅令(313年)でキリスト教を公認したコンスタンティヌス1世の時代らしい。そのため、一週間を七日とすることが広まったのはキリスト教の影響かと思いがちだが、そうではない。
日曜日を起点としたのはミトラ教の影響か
コンスタンティヌス帝はキリスト教の聖人ともされるため、なんとなくキリスト教的な文脈で理解されがちだが、異教にも敬意を払った皇帝である。興味深いのは、彼が321年、3月7日を日曜日とした宣言である。この背景は、日曜日のシンボルである太陽、つまり、ソル・インウィクトス(Sol Invictus:不滅の太陽神)への彼の敬神があった。この太陽神カルトは、それ以前のアウレリアヌス帝の時代からのものでもあった(参照)。
日本でミトラス教研究者の第一人者である小川英雄は、アウレリアヌス帝やコンスタンティヌス帝のソル・インウィクトス信仰についてミトラス教との関連を認めていない。だが、コンスタンティヌス凱旋門設立に至るコンスタンティヌス帝の行為からすれば、ミトラス教が明確に意識されていたとは言えないにせよ、異教の重視は基本にあり、逆にキリスト教的な背景が強いとは言い難い。
私は単純にソル・インウィクトス信仰はミトラ神の習合の結果だろうと考えている。そして、であれば、実質的に日曜日を基点に曜日を固定した七日の週という制度の確立は、広義にミトラ教の結果であるとしてよいように思う。
曜日は七日ではなくオクターブとして理解されていた
ローマ時代のキリスト教徒は七日の週を創世記神話から自然に受け入れるのだが、その受容には興味深い問題がいくつかある。
まず、彼らは安息日を8日目と理解していた。一週間は七日なのだが、後の西洋音階のようにオクターブの原理として8の数値で一週間を捉えていた。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドとするとオクターブで8という数字が明示されるように、日・月・火・水・木・金・土・日もオクターブなのである。この時代のキリスト教徒は、一週間が七日である由来を創世記に求めるとしても、その意味づけはゲマトリア(数霊術)的なものがあり、その起源は異教的なものであるかもしれない。
またローマのカレンダーが太陽暦を採用しているのに、キリスト教徒はユダヤ教以来の太陰暦も採用していた。そのため問題となったのは、現代でも問題とも言えるのだが、太陽暦と太陰暦の双方が関連する復活祭の日取りである。ニカイア会議というとキリスト教史では教義がテーマになりがちだが、この二種類のカレンダー調整も会議の重要なテーマであった。
それで、暦法の問題は解決したか。しなかったとも言える。春分の計算は天文学によるしかない。そして天文学とはこの時代、占星術でもあるから異教文化を必然的に招く。結局、計算は占星術が進んだアレキサンドリアの司教に委ねられ、後の紛糾の元になった。
さらにローマのキリスト教徒の週理解から変なことが起きた。重要である安息日の曜日が土曜日から日曜日に移動してしまったのである。この背景は多少込み入っていて、曜日名について触れておく必要がある。
月火水木金土日の順序になる理由
現代日本人は曜日といえば、月火水木金土日である。特に疑問もなく、また太陽の日曜日を重視するソル・インウィクトス信仰などまったく関係なく、普通に受け入れている。だがこの曜日名と順序にはそれなりの起源がある。その話の前に、関連してそもそも一週間が七日になったのはどの文化だろうかという問題がある。
ローマやユダヤ・キリスト教の七日週の起源は、太陰暦を作ったバビロニアだと広く理解されている。太陰暦は約29.5日周期の月の満ち欠けを基にしているから、満月から新月までの約14日間は意識されやすい。そしてその半分を意識するなら、7日になる。この割り算がしばしば、一週間が七日の理由とされるのだが、そういうふうに計算すればそうなるというだけのことだ。満月と新月の間を週という単位で区切らねばならない理由はない。月を四分割したから一週間は七日、というのはそれほど納得のいく答えではない。
これに対して、古代人が理解していた7つの主要惑星、①月、②水星、③金星、④太陽、⑤火星、⑥木星、⑦土星のレパートリーを日に割り当てたら七日の週になったという考えもある。なお、天王星、海王星、冥王星といった惑星は古代の天文学である占星術にはない。
二つの考えがある。(1)一週間が七日に決まってそれに惑星が当てられたのか、(2)七つの惑星を日に割り当てたら七日で一週間になったのか。どちらか。
残念ながらどちらかわからないが、惑星を割り当てるという考え方は、ローマを経由して現代日本の曜日にまで影響している。日本語の「月火水木金土日」は、惑星の略号でもある。
正確に言えば、古代人は惑星を日に割り当てたのではない。ブアスティンの説明を借りよう。
彼らが信じていたところでは、各惑星は一時間だけ支配力をふるい、そのあとの一時間はそれに次いで地球に近い惑星に支配力がゆだねられる。このようにして、七つの惑星すべてが順番に支配力をふるうのである。七時間かかって一巡すると、この惑星の支配は最初からまったく同じ順序でくりかえされることになっていた。したがって、それぞれの日を「支配」する惑星は、その日の第一時間をつかさどる惑星ということになり、こうして週の曜日は最初の一時間を支配する惑星の名で呼ばれるようになった。
ブアスティンはこれ以上詳しく説明していない。少しわかりづらいと思うので補足しよう。
「地球に近い惑星」だが、当時の天動説では、①月、②水星、③金星、④太陽、⑤火星、⑥木星、⑦土星の順になっていた。
「次いで地球に近い惑星に支配力がゆだねられる」ということなので、遠いところの土星から影響力が開始される。一日を24時間とすると、支配力の1時間交替から次のシーケンスができる。
、
土木火日金水月・土木火日金水月・土木火日金水月・土木火
7惑星のシーケンスが3つできて、3惑星余る。「七時間かかって一巡すると、この惑星の支配は最初からまったく同じ順序でくりかえされる」ので、24時間後である翌日は「日」からシーケンスが始まる。
、
初日:土木火日金水月・土木火日金水月・土木火日金水月・土木火
二日:日金水月・土木……
つまり初日の支配は「土」、二日目の支配は「日」になる。続けてみよう。
日金水……
月土木……
火日金……
水月土……
木火日……
金水月……
土木火……
日金水……
冒頭の支配惑星を並べると、現代日本の曜日である「日月火水木金土」となり、七日でサイクルする。だから、このような曜日であり、一週間は七日なのだ、ということになる。
フランス革命とロシア革命は曜日を壊した
一週間を古代の惑星観で七日にまとめるなんて、現代人からすればバカバカしいかぎりの話である。現代人のみなさん、なんでこんなバカバカしい起源の曜日なるものを現在でも使っているでしょうか。答えられますか。天皇制やホメオパシーよりも先に、こんな非科学を世界から排除すべきじゃないでしょうか。
ということで、世界史的な近代理性の出現であるフランス革命後の国民公会では、曜日を廃止し、新しい曜日を作ろうということになった。数学者ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace)も曜日の改革に参加した。かくしてできたのが、フランス革命暦である。
基本は十進法である。一か月は十日ずつ3つのデカード(décade)に分けられた。曜日名はシンプルに序数になる。primidi(一曜日)、duodi(二曜日)、tridi(三曜日)、quartidi(三曜日)、quintidi(五曜日)……十曜日まで一週間が続く。実に合理的だ。え? なんだかそれもバカバカしいって? そんな非合理的かつ非科学的こと言ったらギロチンかもしれないよ。
偶然のクーデターを科学的社会主義の革命と呼んで出来たソビエト連邦も、科学的社会主義の看板ゆえに、非科学的な曜日は廃止にした。出来たのは、ソビエト連邦暦である。
一週間は五日になった。曜日は当然数字で呼ばれたが、色も割り当てた。黄色、ピンク、赤、紫、緑の五色である。そして全労働者を色分けして、該当色の曜日がその労働者の休日ということにした。合理的だなあ。社会主義っていいな。宗教的な要素を排除してこそ人類の進歩というものじゃないですか。敵対するものを完全に排除することこそ理性というものですよ。え? 恐ろしい? じゃあ、シベリア送りね。
曜日の背後にある守護神
話をローマに戻そう。ローマでは、惑星の考え方に基づく曜日名だが、日曜日と月曜日はそれぞれ、dies Solis(太陽の日)、dies Lunae(月の日)と惑星名になったが、他は、ローマ神話に基づきその惑星の守護神の名となった。ただし、厳密に言えば、dies Solisもdies Lunaeも神名であるとも言える。
火曜日は、dies Martis(マルス神の日)
水曜日は、dies Mercurĭi(メルクリウス神の日)
木曜日は、dies Jovis(ユピテル神の日)
金曜日は、dies Venĕris(ウェヌス神の日)
土曜日は、dies Saturni(サトゥルヌス神の日)
これらの惑星の守護神名はそのまま、現代英語でも該当惑星の名前になっている。
火星は、マルス神で、Mars
水星は、メルクリウス神で、Mercury
木星は、ユピテル神で、Jupiter
金星は、ウェヌス神で、Venus
土星は、サトゥルヌス神で、Saturn
ローマ神話の神はギリシア神話の神と対応している。惑星と守護神の関係はギリシア神話で成立していたと見られる。すると次のような対応になる。対応のための主要な意味づけを重視して見ていこう。
日、太陽神ヘリオス
月、セレネ女神
火、軍神アレス
水、智の神ヘルメス
木、大神・雷神ゼウス
金、愛と美のアフロディテ女神
土、巨神・祖神クロノス
ローマの支配域では、このように惑星を神として実体化し、曜日をその守護神の名に当てた。さらにその神の意味づけを通して、他の神話での相当の神名をエーリアス(別名)として割り当てる考え方が採用された。これがゲルマン族の北欧神話にも適用され、その後裔が使う英語の曜日ができた。
火曜日、マルス・軍神 → テュール(Týr)神 → Tuesday
水曜日、メルクリウス・智の神 → オーディン(Odin)神 → Wednesday
木曜日、ユピテル・雷神 → トール(Thor)神 → Thursday
金曜日、ウェヌス・愛と美神 → フレイヤ(Freyja)神 →Friday
日曜日と月曜日は、英語でも惑星のまま、Sunday(太陽の日)、Monday(月の日)となる。土曜日はなぜかローマ神サトゥルヌスの日として、Saturdayとなった。
サトゥルヌス神についてのイレギュラーは、この神の特性によるのかもしれない。土星=サトゥルヌスの日(土曜日)は、ローマでは悪運の日と理解された。そして、土曜日は悪運の日なので慎むということと、ユダヤ教以来の土曜日の安息日(正確には金曜日の日没から土曜日の日没)とは馴染みやすかった。しかし、これが崩れた。
キリスト教徒が安息日をずらしたのはミトラ教の影響
ローマのキリスト教徒は、土曜日の安息日を日曜日にずらしてしまった。ブアスティンはそこにミトラ教の影響を見ている。
太陽神ミトラを祀るペルシアの神秘的な宗教を奉じるミトラ教徒は、ローマ帝国のキリスト教徒の最も強力なライバルだったが、彼らは一週間を七日としていた。そして、当然のことながら、当時の誰もが太陽(サン)の日と呼んでいた日にたいして特別の崇敬の念を抱いていた。
こうしてキリスト教徒が主の日を定めたので過ぎゆく週ごとにイエス・キリストのドラマが再演されることになった。
日曜日を主の日とすることを当時のキリスト教徒はどう見ていたか。ブアスティンが引用するユスティヌス・マルティア教父の説教がわかりやすい。
儀式はいわゆる太陽の日にとり行われ、町に住む者も田舎に住むものも、すべてがあい集います……われわれが日曜日に集うのは、それこそ神がやみと単なる物質を用いてこの世をかたちづくった最初の日であり、また、救い主イエス・キリストが死からよみがえった日だからです。この土星(サトルゥヌス)の日の前日にキリストは十字架にかけられ、土星の日の翌日、つまり日曜日にキリスト教徒と弟子たちにあらわれ、教えをといたのです。
私の率直な感想を述べれば、これは屁理屈というものだろう。イエス・キリストの復活を祝うとしても、ちゃんと復活祭というものがあるのだから、毎週祝う必要はない。もっと率直に言えば、これがキリスト教なのかというくらいミトラ教や土星の占星術の考えに浸されていると見て取れる。しかも安息日の基となったユダヤ教では、曜日は単に番号で呼ばれるだけで曜日名なるものはない。
占星術とミトラス教との関連はどうなっているのか?
ローマ時代に完成した曜日に潜む神秘性だが、これは単に惑星を使った占星術なのだろうか。つまり、バビロニア由来の占星術なるもがあり、それとは別に、ミトラ教の教えがあるのだろうか。
ミトラ教が、その最高シンボルの牡牛供犠(Tauroctony)に占星術を内包していること(参照)からすると、ミトラ教において、惑星と曜日はどのように理解されていたのか当然、気になる。その観点からミトラ教を見直すと、ミトラ教の密儀に奇妙なものが相当することがわかる。
ミトラ教はローマでは密儀宗教のミトラス教として広まったのだが、その密儀の参加者は7つの位階に分けられていた。小川英雄著「ローマ帝国の神々」(参照)は次のように説明していた。
ミトラス神殿には専従の祭司もいたと思われるが、信者たちは入信後、七つの位階のいずれかに属し、お互いに兄弟と呼び合った。
ミトラス教徒の位階は七つからなり、下から、⑦烏、⑥花嫁、⑤兵士、④獅子、③ペルシア人、②太陽の使者、①父、である。最初の下位の三位階は奉仕者、上位の四位階は参加者とされ、両者は祭儀における役割を意味していた。
この位階だが、それぞれに惑星を守護神としてもっていた。同書による位階の順と対応をまとめると次のようになる。
1 父 ← 土星・サトルゥヌス神
2 太陽の使者 ← 太陽
3 ペルシア人 ← 月
4 獅子 ← 木星
5 兵士 ← 金星
6 花嫁 ← (水星)
7 烏 ← (火星)
同書の説明には花嫁と烏の位階の守護惑星は記されていないが、花嫁は水の要素の守護を受けているとあるので、水星であろうと思われる。すると残りの烏は火星が推測される。
これに対して、「The Roman Cult of Mithras: The God and His Mysteries (Manfred Clauss )」(参照)では次のような対応になっている。
1 父 ← 土星・サトルゥヌス神
2 太陽の使者 ← 太陽
3 ペルシア人 ← 月
4 獅子 ← 木星
5 兵士 ← 火星
6 花嫁 ← 金星
7 烏 ← 水星
上位の位階については小川と指摘と同じなので、おそらく上位の三位階と惑星の関係には異論はないだろう。下位の位階の惑星の割り当てについては、小川とClaussの説明が異なるが、兵士に火星、花嫁に金星を配する説明は自然であるようには思われる。
疑問が浮かぶのは、最高位の父が、太陽神のミトラ神ではなく、土星・サトルゥヌス神が配されている点だ。
不思議と言えば不思議だが、サトルゥヌス神はギリシア神話ではクロノス神であり、この神はオリュンポス神に先行するタイタン族である。また、クロノスはゼウスの父でもあるので、サトルゥヌス神が神々の父としての最上位にあり、それゆにミトラ教の位階で「父」であるというのは理解しやすい。さらに、サトゥルヌス神を祭るサトゥルヌス祭は、太陽暦で基点となる冬至の祭でもあり、太陽神ソル・インウィクトゥスの祭に接合するので、太陽神を支える位置にあるともいえる。
第三位の「月」は太陽とのセットなので不自然さはないが、第四位に木星が配される理由はわからない。位階が惑星の順であれば、すでに触れたように①月、②水星、③金星、④太陽、⑤火星、⑥木星、⑦土星が関連しそうなはずである。もっとも、この順では、太陽神ソル・インウィクトゥスは強調されない。
話が錯綜してきたが、ミトラ教の密儀における位階と惑星の対応は不明だ。位階として現れたものの本質が、その守護神である惑星なのか、惑星は位階シンボルの補助なのかもわからない。
ミトラ教が占星術を含み込んでいることから、惑星で表現されるオーダーの理由が存在するはずだが、太陽を曜日の筆頭に置かせたこと以外に、他の曜日の惑星のオーダーとは簡単には整合しそうにはない。
ミトラ教と惑星の関係は、曜日の決定にはそれほどには影響していないのか、なにか隠された秘密があるのか。もちろん、そこに秘密があるとしても、現代に残る曜日の理由にはほとんど影響はないだろう。
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コメント
世界暦(一年を91日の4期に分け、それぞれを3ヶ月13週、余った1日か2日は予備日として、毎年同じカレンダーを使う)に抵抗したのは、カレンダーメーカー(これは商売上がったりなので分かりやすい)と教会だったそうです。教会から見れば、一年が春で始まろうが夏で始まろうが、一年が13ヶ月あろうが、閏年のルールが何であれ、そんなことはどうでもよく、連綿と続く7曜だけは維持しなければならなかったようです。世界暦だと予備日ができて、宗教上の7曜が破壊されます。
投稿: タカダ | 2010.08.19 22:35
>一週間はなぜ七日か?
おじゃまします
いろいろと良く調べられてますね
ただ
一週間が7日である理由は
単純に聖書に由来している
これが正しいように思います
投稿: | 2010.08.19 23:26
> 冒頭の支配惑星を並べると、現代日本の曜日である「日月下水木金土」となり、七日でサイクルする。
ここで「火」が「下」になってます。
投稿: | 2010.08.20 05:46
誤字、ご指摘ありがとうございます。訂正しました。
投稿: finalvent | 2010.08.20 06:55
“易経+陰陽五行”のアイテムでは、“日・月・木・火・土・金・水”というわけで、
“日・月”は時間を刻むもの(暦)、
“木・火・土・金・水”は物質(存在)を表象するもの、
で、存在の変化を時間的に現したものが『易(変化)経』だと勝手に考えてるんですが、
東西の習合のし具合って面白いですね。
投稿: sakura | 2010.08.20 07:12
天空の異様に特殊な天体が、太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星だったから七曜ができたのとちがいますか。太陽には四季があるし、月には満ち欠けがあって、残りの5つの天体には順行逆行がある。あとは、月の新月上弦満月下弦がやってくるのが約七日だから、七曜は月の満ち欠けを予測するのに便利だったとは思います。農耕社会は天候に大きく影響されますから、天体観測への関心は、現代の比ではなかっただろうと思います。
投稿: enneagram | 2010.08.20 09:31
>初日:土木火日金水月・土木火日金水月・土木火日金水月・土木火
>二日:日日金水月・土木……
二日目のところ「日」が二つ重なっているのは、やっぱり誤植…でしょうか?
すみません、十分理解出来ていなくて自信がないのですが。。
投稿: ma9 | 2010.08.21 04:17
ma9さん。ご指摘ありがとうございます。誤記です。訂正しました。
投稿: finalvent | 2010.08.21 07:34
あくまでも個人的な考えですが,
古代バビロニアで1年に12回新月と満月があることを発見し,それから12進法が生まれました。
1年12ヶ月,1日24時間,ものの数え方も12(1ダ-ス)が基本です。1週間も多分6日だったとおもいます。しかしそれに宗教的考えから(旧約聖書)神様が1週間働いて1日休みを下さり7日になったのではないでしょうか?
あくまでも個人的な考えです。
投稿: なかちゃん | 2013.05.09 16:24