[書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)
ウィキペディアの赤塚不二夫の項目(参照)は比較的充実しているが、ネットのリソースが多く、漫画以外の赤塚不二夫の単著についての記載はない。来歴の記載もネット上のリソースに偏っていて、誰が執筆したものかはよくわからないが、ヴィレッジセンターの情報(参照)と公認サイト(参照)が参照されている。
これでいいのだ 赤塚不二夫 |
赤塚不二夫には平成五年(1993年)にNHK出版から出された本書、つまり本人による単著の自伝的エッセイ「これでいいのだ」(参照)がある。2002年に日本図書センターから刊行された「赤塚不二夫 これでいいのだ (人間の記録)」(参照)は本書の改題である。
軍人気質で潔癖、一徹なおやじ、なんでもできてガンバリ屋、世話好きなかあちゃん。ニャロメやイヤミなど、ユニークなキャラクターを生み出した著者が親子の絆を語り、人生をふり返る。戦中・戦後の赤塚家を通して、戦争と家族を描く感動のドラマ。涙と笑いの自伝的エッセイ。戦中編 満州(誕生;お返し;あと継ぎ;結婚;氷の華 ほか)
終戦編 満州(8月15日前後;恨みと恩;シベリア送り ほか)
戦後編 大和郡山・新潟(親孝行な死;悪ガキ仲間;ボス;柿と栗;チビ太;早弁;女の子 ほか)
戦後編 東京(化学工場;映画;投稿;神様とドンブリバチ;世間知らず ほか)
裏表紙から
また本書は刊行翌年1994年8月22日からNHKドラマ新銀河「これでいいのだ」の原作ともなった。ドラマでは主人公フミオを堤大二郎、母花江を佐久間良子が演じた。NHK側の説明ではドラマのテーマは母子愛とのことだが、私はこれは見ていない。原作の本書のテーマが母子愛かというとそうは言い切れない。本書がNHK出版から刊行されたのは、翌年のこのドラマ化を見据えたものであったのかもしれない。なお、NHKと赤塚の関係だが彼の父が晩年NHKの集金人をしていたという興味深いエピソードも書かれている。
昭和10年(1935年)9月14日生まれの赤塚不二夫は、本書初版刊行の1993年(平成5年)8月25日の時点で57歳である。ウィキペディアの同項の1994年には次のようにアルコール依存症であったことの記載がある。
1994年、赤塚のアルコール依存症が回復しないことにより、長年アイデアブレーンとして赤塚を支えてきた長谷がやむなくフジオプロを脱退[10]。
本書は、アルコール依存症の過程で本人によって十分に書けたものなのか、あるいはむしろその治療的な意味合いをもって書かれたのかよくはわからない。私の印象では、本書はぞっとするほどの達文であり、文筆の素人が書けるものとは思われない。が、そこに息づく精神は間違いなく赤塚不二夫のそれである。どのような過程で本書が形成されたのかはわからないが、本書には赤塚本人の魂が描かれている。
そしてその魂の多くは赤塚の父母のことでもある。赤塚が世にでなければ市井の人として消えたかもしれないこの男女には時代が強いたドラマが確かにあった。
本書には赤塚の男女のドラマは直接的には描かれていない。
赤塚が後の眞知子夫人と再婚したのは、1987年(昭和62年)のことだった。赤塚が51歳か52歳のことだ。私の現在の年齢に近い。スタイリストだった眞知子夫人はその時37歳であったようだ。再婚を勧めたのは前妻の江守登茂子さんだった。眞知子夫人は2006年7月12日56歳でくも膜下出血で亡くなった。” [追悼抄]7月 赤塚眞知子さん 「生きがいは赤塚不二夫」”(読売新聞2006.8.22)より。
「先生、眞知子さんを籍に入れたら?」。1987年、不二夫さんに再婚を強く勧めたのは、73年に離婚した前妻の江守登茂子さん(66)だった。「その時、『本当にいいのか?』って。ずっと、私に気兼ねしてたんでしょう。でも、眞知子さんなら私もうれしいし、大丈夫だって思ったから」
不二夫さんの数多い“恋人”の中で、元スタイリストの眞知子さんだけが最初から違った。アルコール依存症で入院した不二夫さんを付きっきりで看病し、当時、仕事が激減していた漫画家のため、実家から借金までした。登茂子さんを「ママ」と呼んで慕い、長女のりえ子さん(41)を実の子のようにかわいがった。そのことで登茂子さんが感謝すると、「何よ他人みたいに! 私の娘でもあるんだからさ!」と笑った。「しばらく関係が途絶えていた私とママが、再びパパと仲良くできるようになったのは、眞知子さんのおかげ」と、りえ子さんは涙ぐむ。
赤塚不二夫は2002年に脳内出血で倒れていた。ウィキペディアには2004年には意識不明のまま植物状態にあったと書かれている。
編集者でもあり前妻である江守登茂子と赤塚が結婚したのは、昭和36年(1961年)10月24日。赤塚26歳。新婦は21歳だったと本書にある。長女が生まれたのは昭和40年(1965年)。結婚生活は12年続き、1973年(昭和48年)に離婚した。不思議な縁というべきなのかわからないが、江守登茂子は赤塚不二夫の死ぬ3日前の7月30日に68歳で病死した。
赤塚不二夫は8月2日に亡くなった。72歳だった。
死について本書の赤塚は深い視線を残している。
赤塚は母親の死に際し、一度は死んだとみなされたものの彼の絶叫で一時蘇生したという話を書いている。が、母リヨは翌朝昭和45年(1970年)8月20日に亡くなった。59歳だった。父親藤七は昭和54年(1979年)5月17日にリンパ腺癌で亡くなった。71歳だった。癌で苦しむ父に彼はやさしく引導を渡していた。
9年前、かあちゃんが臨終の時、ぼくの「かあちゃーん!」の一声でかあちゃんを幽冥の世界から呼び戻した。今度は「もういいよな!」でおやじを冥土へおしやったことになる。
本書は終わり近くにこうある。今年の春とあるから、1993年(平成5年)赤塚不二夫57歳のことだろう。
おやじもかあちゃんも、ともに波乱に富んだ人生を生きて死んで行った。その2人の子であるぼくのこれまでの人生も、また決して平穏ではなかった。おやじやかあちゃんが知らなかった世界もいっぱい覗いてきた。この先、どういう人生を生きることになるのか。
本書には赤塚の父母の波乱に富んだ人生を子から見た姿が描かれていると同時に、かけがえのない昭和史にもなっている。だが本書は、彼自身の平穏ではない人生はあまり描かれてはいない。
今年の春、久しぶりにおやじとかあちゃんが眠る八王子の富士見台霊園へ1人でふらっと行ってみた。ちょうど桜の季節で、前にはまだ小さかった染井吉野の枝が大きく伸びて、おやじとかあちゃんの墓に手をかざすような風情で五分咲きの花を開かせていた。
晴れた日の夕暮れで、周りを囲んだ雑木林の丘陵が、夕映えで薄い紫色のシルエットに浮かび上がっている。それは奉天の空いっぱい数限りもなくからすが飛んだ夕焼けとも、火事見物の帰路、全山満開のつつじの花と夕陽に真っ赤にそまった大和郡山の日暮れとも違う。一種の静寂をたたえた夕景色だった。
――ぼくは死に際に、誰かに呼びもどされるのかな、それとももういいだろうと念を押されて行くのかな……。
ふとそんなことを考えた。それはぼくが東京へ出てきて、初めて持った不思議な自分の時間だった。
| 固定リンク
「書評」カテゴリの記事
- [書評] ポリアモリー 恋愛革命(デボラ・アナポール)(2018.04.02)
- [書評] フランス人 この奇妙な人たち(ポリー・プラット)(2018.03.29)
- [書評] ストーリー式記憶法(山口真由)(2018.03.26)
- [書評] ポリアモリー 複数の愛を生きる(深海菊絵)(2018.03.28)
- [書評] 回避性愛着障害(岡田尊司)(2018.03.27)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
>赤塚不二夫は2002年に脳内出血で倒れていた。ウィキペディアには2004年には意識不明のまま植物状態にあったと書かれている。
今、2008年ですか。
投稿: 野ぐそ | 2008.08.09 05:46