泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

白黒つけずに揺れ続けることのススメ

 本の紹介をしたいのだが、はじめに少しだけ説明がいる。
 今から10数年前、障害児の地域生活を支える仕組みというのはほとんど無いに等しかった。切羽詰まった親や福祉関係者、ボランティアなど危機感を抱いた人々は各地で取り組みをはじめる。もちろん持続可能な運営を続けていくのは簡単ではない。
 そのうちに一部の自治体が脆弱ながらも仕組みを作りはじめる。公費が入れば、自由な支援はできない。制度上でやってよい支援とやってはいけない支援が生まれる。わずかばかりの金をもらうがための代償を感じながら、それでも何もない時代よりは前進しているのだと自らを納得させながら支援は生み出されていった。
 そのような中、北海道で一切の公費を受けずに障害児の支援をするところが現れた。入所施設を飛び出した女性が作ったのだと言う。あっという間に有名になった。その名は『ぴっころ』。時間あたりの単価を決め、あとは利用者がスタッフをどのように動かしてもよい、というやり方だった。もちろん利用するためにかかる費用は決して安くない。しかし、数々の「使われ方」を聞けば、本当に必要とされる支援ができているように思えたし、支援者と利用者との良い緊張感が保たれているようにも思えた。
 手づくり感あふれる『ぴっころ』のニュースレターは、愛らしいイラストと考えさせられる内容にあふれていて、全国イベント等で飛ぶように売れた。2000年前後に「地域生活支援」を志した支援者にはずいぶん多く読まれているはずだ。既にある制度に支えられて事業をはじめた自分にとって、ぴっころのニュースレターは「教科書」にも「ヒント」にも「戒め」にもなった。
 さて、ここからが本題。その『ぴっころ』の代表であった安井愛美さんが本を出した。ネット書店では取り扱われていないし(追記:その後、買えるようになった)、おそらく一般の書店にもあまり並ばないだろうが、この本は多く読まれなければあまりにもったいない(装丁も美しく、大手の出版社から出された本のようにさえ思える)。
ぴっころ流ともに暮らすためのレッスン 対人援助にまつわる関係性とバランス
http://www.clc-japan.com/books/detail/4038

 『ぴっころ』はその役割を終え、2013年に閉店していた。安井さんの書かれるものはいつも支援者としての深い葛藤と思慮に満ちている。そして、とても読みやすい。

ぴっころを終えるというのは、ぴっころを立ちあげるときの夢でした。ぴっころがなくても困らない時代になることが、そもそもの願いだったのです。しかし、ぴっころはニーズに合わせて形を変えていったために、逆になかなか終わることができませんでした。終われない状況を自分でつくり出しているようにも感じていました。ぴっころなしでも幸せに暮らす人たちを見る喜びとは裏腹に、自分を必要としない人たちが増えることに寂しさを感じていたことは否定できません。でも、必要とされたい一心で事業所を続けるのはよくないことだと感じていましたし、個人的で身軽にニーズに応えることができるぴっころのスタイルは、使いやすい反面、先の保障が何もなく、福祉サービスとしてはリスクが高いようにも思っていました。また、個人的な結びつきが強くなることで、健全な関係性が保たれなくなるのではないかという心配も常につきまとうようになっていました。(152-153ページ)

 他人の人生に踏み込むことになる支援者は、ずっと悩み続けるべきなのだと思う。支援について書かれた「入門書」も「教科書」も答えばかり書こうとする。読む者はわかりやすい解決策を求め、書く者は長年の知識と経験を総括してすっきりと論じたがる。わからないままで立ちどまっているのは疲れる。わかるはずがないと開き直ってサボるのは論外で、前には進まなければいけないが、わかったふりをするのもよくない。
 この本のサブタイトルには「対人援助にまつわる関係性とバランス」とある。支援がうまくいけば有頂天になり、失敗すれば何もかも間違えていたように感じてしまう支援者にとって、落ち着いて反省することは大事だ。それは「ソーシャルワーク」とか「ケアマネジメント」において「評価」「フィードバック」が重要だという話とも少し違う。「依存」「専門性」「お客さま」「感性」…、誰かを支援するときに用いられる言葉や価値観は、単純に「良い」とも「悪い」とも言えないものばかりで、哲学的に反省し続けねばならないという意味である。
 安井さんはすぐれた実践で大きな成果をあげてきたにも関わらず、悩んでばかりいるし、バランス感覚を強調する。悩まずに決めつける人へと引き寄せられていく人もたくさんいるが、悩みながらわからないことはわからないと言って考え続けようとする人を自分は信頼したい。「大事なものはこれしかない」と高らかに叫ぶ人よりも「あれもこれも大事だと思う」と謙虚に言える人を信用したい。だから、この本に心打たれる。何度でも読み返したくなる。
 印象深かったページの右上を折りながら読んだら、本の右上部分がずいぶん分厚くなってしまった。最後にいくつか「名言」「至言」を引用して、一読を薦めたい。支援者にも保護者にも学生にもお薦め。

必要な人に必要なだけのサービスを提供したいと思う。しかし、必要なだけのサービス量なんてものが果たして存在するのだろうか。自分で寝返りができない人は、夜中の2時だろうと3時だろうと、必要な気兼ねなくサービスを使うべきだと思う。では、夜中に寂しくなったら2時だろうと3時だろうと気軽に話し相手をしてくれるというサービスならどうだろう。本当に必要な人もいると思うのだが、我慢したほうがいい人は誰で、我慢せずサービスを利用したほうがいい人は誰なのか、これを決めるのは誰なのか。明確な基準がつくれるとはとても思えない。(36ページ)

本当に困っている人とは、困ることさえできない人たちなのかもしれない。「困っている! 助けてくれ!」と言える人は困る力のある人だ。「困っている!」とさえ叫ぶことができれば、誰かが力を貸してくれる可能性が開ける。しかし、本当に困った状態の人は、自分が困っていることにさえ気づけない。(中略)困らないように、自分で工夫したり、がんばったりするのは、困らない力。一方で、困ったときに、「困った、困った」と誰かに助けを求めるのは、困る力だと思う。(中略)困りそうになると上手にサービスを使って切り抜ける人は、困る力と困らない力の両方をバランスよく使う人たちなのかもしれない。(46-47ページ)

一緒に権利を失って苦しむことよりも、自分だけ権利が守られる状態で苦しむことのほうが、実はより苦しいことかもしれません。しかし、その苦しさを受け止めて、自分をたいせつにすることもまた、われわれに求められる専門性の一部なのかもしれないと今では思っています。(64-65ページ)

感じてはいけない感情なんてひとつもないのに、ときどき何かのきっかけで、「感じてはいけない気持ち」があると思い込んでしまう。すると、心はどんどん萎縮して、不自由になっていく。だから「その気持ち、感じてもいいんだよ」というメッセージを誰かが送ることがたいせつなのだが、もともと、心が自由な人にそういうメッセージを送られると、逆に「心が自由でないおまえはダメなヤツだ」という否定的なメッセージとして受け取ってしまい、余計落ち込むことがある。経験したことのある立場からでないと届かないメッセージがあるのだ。(84-85ページ)

それぞれの井戸がそれぞれに豊かになることが、すなわち大海なのではないだろうか。(111ページ)

誰にでもできる福祉と、誰にでもできるわけではない福祉が両方存在しなければ、「ともに生きる社会」を実現することは不可能だ。(121ページ)