泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

学校行事への参加を拒まれて、考えた

 学校の校外行事への参加を特別支援学級の生徒たちだけが拒まれる。保護者たちは同伴することも申し出た。が、それもまた拒まれた。
 かなり異常な事態だと思うし、行政内部でも他の課から教育委員会に批判が集まるぐらいの状況であるが、学校は動かない。どうやら教育委員会から助言しても聞き入れてはもらえないようだ。教育委員会との間に明確な上下関係があるとも言えないのだろう。校長がイヤだと言えば、誰にもどうすることもできない。
 学校からすれば「我々はできる限りのことを限られた予算と人員の配置の中でやっているのに、当たり前のように無理なことを要望されてはたまらない」ということである。報告書作成に追われて忙しいとか、クラブ活動の指導もあるとか、生徒指導がうまくいっていないとか、教員の数が足らないとか、常日頃から聞かされている学校の現状はきっと嘘でもない。この校外行事については確かにかなり個別性の高い配慮が求められるだろう。それができるだけの力量を教員がもっているかどうかも疑わしい。
 一方で、保護者からすれば、そんな事情は聞きたくもない話である。正確に言えば「聞きたくもない」と思うほどに苛立ってしまっている。入学時点から「本当は来てほしくなかった」と言わんばかりに消極的で、できることからなんとかしようという姿勢を示せなかった学校。さらに、保護者はこれが前例となって、後輩たちに迷惑をかけてしまうことも怖れている。自分たちが了承したせいで、来年度以降も同じ対応が続けられていくかもしれない。のしかかる地域からのプレッシャー。
 ここで、「運動」の方法というのはいくつかに分岐していく。
 すごく大ざっぱに分けてしまえば、対立路線か対話路線か、ということになる。前者は議員やマスコミを動かして外圧をかけようとするし、後者はあくまで現場との話し合いを続けて相互の妥協点を探る。しかし、すでに対話路線が行き詰まりを見せ、訴えてきた関係者の感情が高ぶっていると、打開策は「外部」に求められやすい。しかし、「マスコミ」に訴えていくのは、さまざまな代償も考慮しなければならない。で、身近なところで「議員」が選ばれる。多くの場合は共産党だ。
 共産党議員は全面的に訴えに共感して、わかりやすい原理原則論から行政を攻めたててくれる。現場で「無理なことばかり言われても困る」という対応を繰り返されてきた当事者にとってみれば、溜飲が下がる。問題も公のものとなり、より多くの人に知られる。しかし、その結果として、残念ながら現場や行政との溝は深まる。具体的な成果があがることもあるが、もし失敗すれば残るのはいっそう壊れた信頼関係だけである。「やっかいなクレイマー」認定を受けた保護者は、どこにいっても「身構えられる」ことになってしまう。逆恨みされてしまうことだって、ある。
 ここであくまで対話路線を選び続け、「理想は理想でしかなく、現実的な妥協点を見つけるべし」と考える人たちがいる。「相手にも相手の事情というものがあるのだから、それも認めつつやっていきましょうね」というのはとても物わかりがよい、から、愛される。教育委員会も学校も笑顔で迎えてくれるようになるだろう。愛されるが、怒りや不満をたくさん飲み込む忍耐は必要だ。そして、こちらの方法だって成果があがらないことはある。5年後10年後に向けて状況は漸進するかもしれない。しかし、「今」の成果にはつながりにくい。学校行事なんて、当事者にとってみれば数年単位で考えてはいられない。成果があがらなければ、単なる「物わかりのいい保護者」のまま卒業していく。
 どのような路線でやっていくのがよいか。この状況を見て、助言する人もいろいろである。同じ立場の当事者であっても学校サイドの言い分を全面的に支持して、冷めた目を向ける人もいる。日ごろ行政関係者とのつながりが濃く、左翼嫌いな人でも、これほど「当たり前」のことへの要求が認められないならば、と議員からの外圧を評価する人もいる。
 過去にどんな方法で要求を通すことができたのか(できなかったのか)という経験は、運動の進め方にきっと強く影響しているだろう。一度もうまくいったことがない方法にしがみつく人はあまりいない。どんな教育行政もどんな福祉行政も同じように対応がなされるならば、運動の方法論はきっとどちらかに収束していくか、相互補完的な役割分担に向かう。異なる方法を選ぶ者どうしが互いを腐しあうようなこともなくなるはずだ。しかし、そのようにはなっていない。また、「行政」とくくってはみたが、「担当者」というほうが正確なこともある。あの人は話せばわかるが、この人はいくら話してもわからない。あの人は話の中で誠意が感じられるが、この人には感じられない。こうして、みんなにとっての「うまくいく方法」はばらばらになっていく。
 「保守」「革新」なんて立場の違いは、この程度の経験の違いから生まれてくるのではないかとも思う。教育にせよ福祉にせよ本来ならば「制度」というのは、このようなぐちゃぐちゃとした事態を避けるためにあるのだろう。にもかかわらず、十分な裏づけのない形だけの制度が先に整えられて、中身が空っぽのまま、あとは「運用」にゆだねられる。その結果として、たくさんの無用な対立が生まれていく。「特別支援教育」とは、まさにそんな場のように思う。「障害者福祉」もそうだ。
 愚痴ってばかりもいられず、状況に応じてうまく立ち回りつつも、結局大事なところは何も変えられない運動をみんなで続けてしまっているように思える。奇妙な話だが、穏当な運動がうまくいくための制度的な基盤すらないことが、昨今の国政の情勢も含めて、不幸を招いているのではないか。