ステークホルダー民主主義の射程
濱口桂一郎『新しい労働社会』の末尾近くでは、目指すべき方向性として「ステークホルダー民主主義」への言及が見られる。まだ全体をきちんと読めていないので、書評ということではないが、これは一応私の専門に属することなので、備忘がてら思うところを書き留めておきたい。
- 作者: 濱口桂一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/07/22
- メディア: 新書
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私の知る限り、日本で「ステークホルダー民主主義」なる言葉を使っての議論の蓄積はほとんど無い。海外でも、“stakeholder democracy”や“stakeholder society”について語られている事例は若干存在するものの、いずれもあまり突っ込んだ議論とは言えない*1。これまで当ブログでは、「現代日本社会研究のための覚え書き――結論と展望」や「利害対立と民主主義モデル」などでstakeholder democracyの具体像を素描したり民主主義モデルとしての相対的位置を示したりしてきたが、それらの議論は2008年1月に提出した私の修士論文補論の成果に基づいている。そこで私は、stakeholder democracy(利害関係者民主政)について、その理論的文脈上の意味から具体的な制度構想にまで踏み込んだ、おそらく国内外を通じてもかなり先駆的であろう議論を展開した*2。そういう立場からすると、少なからぬ人に注目されている好著の中で「ステークホルダー民主主義」への肯定的言及が為されていることは、素直に嬉しく思う。
しかし同時に色々考えるところはある。同書の中では先ず「産業民主主義」の語が頻出しており、その上で登場する「ステークホルダー民主主義」は、いわば産業民主主義の現代版として扱われている印象を受ける。それは決して間違いではないのだが、果たしてそのような解釈だけで十分かと言われれば、気安く是とは答えにくい面がある。確かに、特にshareholder capitalismに対するstakeholder capitalismの議論文脈から辿ってstakeholder democracyが理解される場合には、かつての――と過去形にするのは不適切かもしれないが――産業民主主義ないし経済民主主義のイメージを下敷きにした受容が為されるのは無理のないことだと思う。けれども、stakeholder capitalismの議論は(それがドイツや日本を参照しているとしても)あくまでも英米のものであって大陸ヨーロッパのものではないし、shareholderへの対抗概念としてのstakeholderの語には最初から権利的ニュアンスが分かち難く付随している。つまりそこには、解り易く言うと「アングロ・サクソン的な」個人主義や私的所有権観念が少なからず影を落としているわけで、「平等としてのデモクラシー」の色彩が濃い「社会的デモクラシー」の流れを汲む大陸ヨーロッパ的な産業民主主義とは異質な部分も小さくないはずなのである。
私はそのように異なる文脈の双方から財産を継承できる「stakeholder 〜」という考え方に魅力を感じているので、これから盛り上がるべきstakeholder democracyの議論が産業民主主義的な解釈のみに回収されてしまうとしたら残念だと思う。何より、古い言葉と同じことを言うためだけに使われるなら、新しく登場してきた言葉に固有の意義が存在しなくなってしまう。また、産業民主主義的な解釈に引きずられると、どうしても労働の現場に議論の対象が限定されてしまい、包括的な社会構成原理たり得るはずのstakeholder democracyの可能性が縮減されてしまいかねない(もちろん、労働をテーマとする濱口著が論の対象を限定することに問題があるわけではない)。
1996年から97年にかけてトニー・ブレアが“stakeholder economy”について語った時、彼は国民一人一人がstakeを持つべきだとした。ここでのstakeとは、ざっくり言えば社会内において正当に認められるべき権利や地位を意味する。人々はstakeを持つことによって社会に包摂されるし、stakeに基づいて社会参加することに対して相応の責任を負うとされた*3。ここからも解るように、英語圏における「stakeholder 〜」の議論は基本的に個人単位であると同時に、社会全般に広がる射程を持っている。
私が“stake”のニュアンスを的確に把握するために有用だと思うのは、これを「賭け金」と捉えることである。stakeholderを重視するということは最低限の賭け金を提供するということであり、国家にせよ、職場にせよ、地域にせよ、学校にせよ、家庭にせよ、その内部での決定に参加できる元手を保障してあげることを意味する。このように考えると、stakeholder democracyの考え方はベーシック・インカムの理念と非常になじみやすいことが理解できると思う*4。国民全てに万遍なく支給される基本所得は、まさに社会参加の賭け金と見做し得るからである。
ニュー・レーバーのポリシーを濱口さんに講じるような釈迦に説法を犯すつもりはないが、濱口さんがベーシック・インカムの考え方に否定的なことは、やはり産業民主主義的なstakeholder democracy解釈と無関係ではないのかな、という気はする。濱口さんは、あくまでもコーポラティズム的な枠組みの中で労組ができるだけ幅広い労働者の利害を代表していくことが基本だと考える。私もそれが現実的だと思わないわけではないのだが、ただそこでは、利害が考慮される単位は職場や組合という集団であることが前提になってしまっている(と言わざるを得ないと思う)。コーポラティズム的な枠組みの中で解釈されたstakeholderは、利害関係者たるまでには至らずに、利害関係集団であるに留まる*5。そうすると、提起される「ステークホルダー民主主義」の主体は個々人であるよりも労働的連帯に基づく集団が中心になり、あるいは少なくとも労働の営みに接続された個人でなければ、ステークホルダーとは見做されないということなのかもしれない。賭け金は、無条件で全ての個人に分配されるべきものではない、ということになるわけだ。
ただ、私自身は前掲のエントリでも明確にしたように、個人化の進行によって利害が多様化し錯綜する現況では、ひとまず個人を単位として最低限の賭け金を保障するベーシック・インカムの考え方は、望ましい方向性を示していると思う*6。stakeholder democracyを支持するならベーシック・インカムにも賛成するはずだ/べきだと主張するつもりは更々無いが、stakeholder democracyの可能性が幅広い範囲に開けていることは強調しておきたい。
*1:例えば以下に収められている幾つかの論文。
*2:それに先立つ本論第1章第1節では、経営学およびビジネスエシックスにおけるstakeholder theoryの成果を整理するとともに、“stakeholder”および“stake”の概念・語句について語源と用例の両面から詳細な考察を行った。
*4:別にベーシック・キャピタルでもいいわけだが(実際にB.アッカーマンはstakeholderの言葉を使ってBCを構想しているわけだし)。
*5:コーポラティズム的な枠組みはそれ自体として重要だけれども、stakeholder democracyの可能性をその範囲に限定してしまうことはない。
*6:実際にベーシック・インカムそのものを導入するか否かは別問題であるし、それこそ産業民主主義・コーポラティズム的な営為を含む利害反映回路全般の再整備が同時に行われるべきであるとの前提は付くが。