マックス・シュティルナーについて


この記事は「ああ、シュティルナー様…。」「『唯一者とその所有』マックス・シュティルナー」「マックス・シュティルナー研究日本語文献選集」「シュティルナーは「生き生き」しているか」「シュティルナーとアイロニーについて」「ほんとうにおめでたいのはだれか」「『唯一者とその所有』の訳文について」を素材として加筆・修正を施したものです。

シュティルナーとエゴイズム


マックス・シュティルナーは、1844年に『唯一者とその所有』を著して脚光を浴びた哲学者である。哲学史においてはヘーゲル左派における最急進派として言及され、政治思想史的には個人主義アナーキズムの源流の一つとされることが多い。彼自身は、「エゴイズム」を以て自らの思想的立場を示した。


エゴイズムとは何かについて、私自身の考えとは多少異なるものの、日本におけるシュティルナー研究の第一人者である住吉雅美の解説を引いておく(後掲『リバタリアニズム読本』より)。

エゴイズムとは、身体髪膚備えた経験的具体的個人が、自分にとって疎遠で納得できないものすなわち「聖なるもの(das Heiliege)」をことごとく廃棄するという生き方である。「聖なるもの」としては神、国家、人類、キリスト教、法、市民、人類愛などの「固定観念」があげられているが、個人が心より欲していないにもかかわらず、それに対する奉仕を強要される抽象的なものが全てそれにあたる。


エゴイズムに関心を持たれた方は、後掲の文献案内を参考にしていただきたい。ここではシュティルナーの思想について概説するようなことはしない。ただ、以下にシュティルナー自身の言葉をいくつか引いておく。なお、『唯一者とその所有』の邦訳書は複数あるが、現在入手し易いのは片岡啓治訳(上下巻、現代思潮新社、1987年)のみである。

 自由と自己性との間には、何という相違があることか! 人はまさに多くのものから免れうるがしかし、すべてのものから免れるわけにはいかない。人は多くのものから自由となるとしても、すべてから自由となるわけにはいかない。
(中略)
これに反し、自己性は、これは、私の全存在、全実在であり、それは私自身であるのだ。私は、私が免れてあるところのものから自由であるが、私の力のうちにあり私が力を及ぼしうるところのものの所有人であるのだ。
(中略)
自由であることを、私は真実には望みえない。けだし、私はそれを作りえず生み出しえないからだ。私はただそうあることを願い、それを求めて――努めうるにすぎない。(下・10頁)

これが意味するところは、君が在るところのもので在る力をもつとき、君はそのものにたいする権利をもつ、ということより以外の何ものでもない。私は、すべての権利、すべての権能を私自身から導きだす。私は、私が支配する一切のものにたいして、権利を有する状態にある。私は、もし私がそれをなしうるならば、ゼウス、エホバ、神、等々をほろぼす権利をもつ。私にそれができなければ、これらの神たちは、私にたいして権利と力をもちつづけることだろう(下・55‐56頁)

エゴイストは、国家が彼の自己性に触れるときにのみ、国家にたいして活発な利害関心をもつ。国家の事態が書斎の学者を圧迫しないときにもなお、その者は、それが彼の「聖なる義務」だからというわけで、国家に相かかわらねばならないのだろうか? 国家が彼の望みどおりになっていてくれるかぎり、その者はなんで己れの研究から目をあげねばならぬいわれがあろうか? 己れの利害関心からして状態を変えたいと望む者たちをして、それにたずさわらせるのがいいのだ。(下・119頁)


唯一者とその所有 上

唯一者とその所有 上


唯一者とその所有 (下) (古典文庫 (21))

唯一者とその所有 (下) (古典文庫 (21))

文献案内


シュティルナーについての簡単な文献案内を以下に付記しておく。より詳細な文献案内は「マックス・シュティルナー研究日本語文献目録(年代順)」および「マックス・シュティルナー研究日本語文献目録(分野別)」を参照。


森村進編『リバタリアニズム読本』勁草書房、2005年 ISBN:4326101547
住吉雅美がシュティルナーの紹介とコラムを執筆している。入手しやすいこの本で、シュティルナーを読むべきかどうかを判断するとよい。


・アンリ・アルヴォン『アナーキズム』左近毅訳、白水社文庫クセジュ、1972年 ISBN:4560055203
アナーキズム概説書であり、シュティルナーを扱った部分は短いが、シュティルナーアナーキズムの系譜において与えられている位置について手早く理解できる。


・大沢正道『個人主義青土社、1988年 
日本で唯一のシュティルナー入門書。シュティルナーの生涯と思想、およびその思想の受容について、平易にまとめられてある。


・住吉雅美『哄笑するエゴイスト』風行社、1997年 ISBN:4938662272
日本で唯一のシュティルナー研究書。特にシュティルナーの自我観に注目し、近代哲学史の文脈に沿ってシュティルナーの「移ろいゆく自我」の独自性を論じている。研究書なので、やや難解。


・良知力・廣松渉編『ヘーゲル左派論叢第1巻 ドイツ・イデオロギー内部論争』御茶の水書房、1986年 ISBN:427500695X
M.ヘスとB.バウアーのシュティルナー批判論文とシュティルナーの反批判論文を収録。シュティルナーの論文では、『唯一者とその所有』よりもやや解りやすくエゴイズムが解説されている。


フォイエルバッハキリスト教の本質』下、船山信一訳、岩波文庫、1937年 ISBN:4003363329
巻末に、シュティルナーへの反論論文「『唯一者とその所有』に対する関係におけるキリスト教の本質」を補録している。


ドイツ社会主義統一党中央委員会付属マルクスレーニン主義研究所編『マルクスエンゲルス全集』第3巻、大内兵衛・細川嘉六監訳、大月書店、1963年 ISBN:4272000306
ドイツ・イデオロギー』では全体の四分の三が『唯一者とその所有』に対する逐条的な批判で占められている。岩波文庫版は抜粋なので、シュティルナー批判「聖マックス」を読むためにはこれが必要。


・森政稔「アナーキズムの自由と自由主義の自由」『現代思想』第22巻5号、1994年
フォイエルバッハシュティルナーを対比させて、シュティルナーの自由観とエゴイズムの意味について考察を加えた論文。よく整理されており、参考になる。


大屋雄裕「エゴイズムにおける「私」の問題」『名古屋大学法政論集』第193号、2002年
エゴイズム批判。シュティルナーと住吉雅美を切り離せていない点で問題はあるが、鋭い問題提起そのものは重要。


・住吉雅美「エゴイストは「他者」の夢を見るか?」『思想』965号、2004年
シュティルナーのエゴイズムをE.レヴィナスの倫理観と結び付けようとする大胆な試み。結果は失敗しているが、学ぶべきところはあろう。


柄谷行人「個体の地位」『ヒューモアとしての唯物論講談社学術文庫、1999年 ISBN:4061593595
柄谷行人『探究Ⅱ』講談社学術文庫、1994年 ISBN:4061591207
『哄笑するエゴイスト』を読んだ上で、「唯一者」とは何かより深く理解するために必要。

邦訳について


『唯一者とその所有』の訳文に関して私見をいくつか書き留めておく。


まず、unfreiwilligen Egoistenは「不自由なエゴイスト」ではなく「意図せざるエゴイスト」と訳すべきである。自由と自己性、不自由と自己性の喪失を区別しているシュティルナーにおいて、「不自由なエゴイスト」という訳語は混乱を招きやすく不適切である。


次に、Genußは辻・草間が「享楽」、片岡が「享受」という訳語を採っているが、いずれも原文のニュアンスを十分に汲み取りきれていない印象が拭えない。「享ける」という字義からするとどうも受動的な印象が漂いかねないように思えるので、より能動的に楽しみ、味わうというニュアンスを汲み取るために「賞味」という訳語を提案したい。ただ、「享受」という訳語の方がこなれており捨てがたいため、Rechtを法=権利と訳す例にならって、享受=賞味と訳すのはどうだろうか。


それから、Eigentumはpropertyにならって文脈に応じて「所有」と「所有権」に訳し分ける必要があるだろう。


さらに、邦訳者はそれぞれ、大文字のIch(=「自我」、名詞)と小文字のich(=「私」、一人称代名詞)を割合頻繁に混同しているように思われ、注意が必要である。


最後に「自己性」について。シュティルナーが使う「自己性」はEigenheitの訳であり、通常は、自己の固有性、あるいは自己所有といった意味で用いられるようだ。日本語では同じく「自己性」と訳されることがあるフランス語のipséitéも、通常同様の意味で用いられていると思われる。ただ、シュティルナーの言うEigenheitの理解は論者によってかなり分かれており、とても広く共有された理解があるとは言えない。私自身は、簡単に言えば利己的目的意識のことだと理解して構わないと考えている。ちなみに英訳では基本的にはownnessとされているが、self-ownershipや、場合によってはpersonalityなどと訳されている場合もある。これは問題なしとしない。

シュティルナーアイロニー


「本来性からの疎外状態」から回復して、本来的な「ほんとうの自分」を求める姿勢は、「生き生き志向」として批判されなくてはならない*1。「ほんとうの自分」とは何なのか、そんなものはほんとうにあるのか、あるとしてもたどり着けるものなのか。


こうした批判は、シュティルナーにも向けられうる。シュティルナーは個体の社会的規定性などにもかなり気を払っているが、それでもなお、個体には社会から「与えられたもの」ではない「固有の」部分が存在する、と安易に前提してしまっているかのように読める箇所が散見されるからである。


そもそもシュティルナーは「自己性」が失われてエゴイスト的行為をなし得ない状況を最も問題視するのであるが、ある個体にとって何が利益になるかは自明ではないので、ある個体が非エゴイスト化したと第三者が特定することは困難である。「移ろいゆく自我」を前提とするならば、自己にとっての利益とは今・此処の自己が判断基準となるはずであるから、非自己的な対象に没入している際の個体が「没入していない」と言い張る限りでは否定しがたいはずである。それにもかかわらず、いやお前は非エゴイスト化したと言うためには、同じ個体のそれ以前のある時点での状態を利益判断の基準となるべきその個体「固有の」本来的状態として設定せざるを得なくなる。それは紛れも無く「生き生き」志向であるし、「移ろいゆく自我」の本旨にも反する。


このように、「生き生き」志向と「移ろいゆく自我」の背反を第三者的に見れば、シュティルナー自身も混乱していると解釈するのが素直な読み方であろうが、好意的に解釈して論理一貫性を見出すことが出来ないわけではない。


「自己性」=利己的目的意識が失われていることを判断することは実際には困難である。そのため、「自己性」を喪失した非エゴイストと、「聖なるもの」に「憑かれている」ものの自己性を失うまでには至っていない「意図せざるエゴイスト」との区別は曖昧とならざるを得ない。だが、ここで区別を明確化しようとすれば、当該個体にとっての利益基準となる当該個体「固有の」状態をある時点に設定しなくてはならなくなる。シュティルナーはそうした「生き生き」志向を避けるために、曖昧さを残した上で、非エゴイストだけでなく、非エゴイストに陥りかねない「意図せざるエゴイスト」にも警鐘を鳴らす意味で批判を向けたのである、と。


元々、シュティルナーの「移ろいゆく自我」は、「生き生き」志向を回避するための「アイロニー」という方法に親和的なところがある。ここで言う「アイロニー」とは、「自分自身が“自らの思想”として表明していることが、反省を通して後に変更されることを既に予見している複合的なまなざしに対して開かれた姿勢、もしくは、そうした姿勢を(自ら)暗示する表現法」を意味している*2。今・此処の私は過去の私には囚われず、今・此処の私も一瞬後の私にとっては(創造的無であるとはいえ)無であるにすぎない、という「移ろいゆく自我」の姿勢は、こうした「アイロニー」の未規定的姿勢に通じるものがある。このように考えていくと、シュティルナーを「生き生き」志向のエクソシストとして単純に捉えることの浅薄さをたしなめることができるだろう。


デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ


*1:仲正昌樹[2005]『デリダの遺言』双風舎

*2:仲正昌樹[2006]『「分かりやすさ」の罠』ちくま新書、186‐187頁。