晴れ

 寝坊した。産経新聞一面の梅田さんのコラムが興味深いものだった。思索を深化させていくと逆に読む人が限定されていく。その限定を緩和させると、単純化・図式化が進む。しかたがないとは言える。ネットに掲載されているかと見るとあった(参照)。この問題視点は難しい。

 これからのウェブ世界は、こうした欧米の価値観やイデオロギーに強く牽引(けんいん)された「共有地たるグローバルウェブ」(主に英語圏)と、「政治体制や文化・言語圏に閉ざされたローカルウェブ」がせめぎあい、分断されて林立する時代を迎えるのであろう。グーグル中国問題は、そんな21世紀のウェブ進化のひとつの方向性を示唆するものである。

 私の考えでは、Google+英語がもたらすインパクトは、文化圏や政治体制のクローズにおけるダイコトミーとは完全に重ならない。私の思索のキーワード「滑らかな浸潤」をふと想起するが、そこまではわからない。ただ、Googleの情報を享受する英語圏に対して情報国家統制する中国のような文化圏という対立は表面的で、中国は日本よりもGoogle的な情報化つまり知の高度化がある意味で進むかもしれない。中国の中枢にはGoogleの天才にような人々が多数いる。経済学とその適応を見ていけばその高度化がわかるし、それは多分野に及ぶだろう。彼らはGoogle的な知の高度化のもう一つの成果だといえる(Googleと共産党は相似であろう)。では、対立の軸はないのかといえば、おそらく、国家・民族の共同幻想のようなものに現れる。あえて言えば、民度のようなものだ。その共同幻想のようなものが国家の、つまりナショナルな幸福といったものをどのように、民族全体で志向するかということだ。そこで中国も米国もうまくいかないのではないかと思う(そのことがダイナミズムを生み活性化にもつながるだろうが)。日本の文化性は現状は解体されていくように見えるが、それでも内部に歴史に根ざす共同幻想のコアを持っている。中国はそこがうまく共産党独裁の形では実現できないだろう(中国には政治の理念はあっても民族性は被征服のルサンチマンになっていて、互助性は国家の共同性にうまく接続しない)。Googleのもたらす知もその民度の高度化にはそれほど寄与しないではないか(というのはそれは暗黙のルールなようなものでぐぐれないものだ)。米国は自由なりの理念で民度を上げるべくGoogle的な知で代用してもうまくいかないのではないか(オバマ大統領の空振りのように)。このあたりから問題は難しくなる。国家的な共同幻想を基底で支えているのは、歴史性を除けば、大衆のもつ普遍性であり、それは実質はルサンチマンである。このルサンチマンが共同幻想を外的な知によって倫理として外化(疎外)させたとき、20世紀の「社会主義革命」が起きた。だからそれは民族的な根を断ち切れず、政府を孤立させた(王を殺すことが快楽となった)。しかし、日本の文化・歴史なりの倫理性は、特異な互助性(つまりは独自の隣人愛のようなもの)から日本という共同幻想を再構築していくかもしれない。それは「勤勉の倫理」とも対応して、大衆の総体を変えていくかもしれない。Googleや共産党指導といった善王よりも、分散された知性の点で、日本はその先まで生き延びるのではないか、ユダヤ民族のように。
 あるいは、幸せはひとつのドーナッツ。ピーナッツの漫画にもありそうなテーゼだな。
 プリキュアの最終回を見る。たまにしか見ないので話の筋はとんとわからんが、1984のパロディーかなとは思う。マモーと賢者の石もそうだったな。現在の視点でいえばメビウスはGoogleでもあるだろう。メビウスの声がデデデ大王の声かと思う。最後にクリーム色のソーナンスが空を飛んでいた。次回のプリキュアの絵がやや村上テイスト。